第35話 精霊と出会う(1)

 その日の早朝、アルヴァロは意を決して、四角い包みを手に、離れへ向かって歩いていた。

 そこで、まさかこの世離れした光景を見ることになるとも知らずに。


 まだかすかに朝霧が残る、ヴィエント公爵邸の庭。


 さくさく、と朝露に濡れる芝生を踏みしめて、アルヴァロは庭伝いに離れに向かった。


 自然の趣が色濃く残された庭園は、アルヴァロの母、キアラの好みだ。

 とはいえ、アルヴァロ自身も野趣溢れたこの庭を気に入っている。


 今も、小道の両側にある、背が高いエキナセアの濃いピンクの花の上に、色とりどりの蝶が飛び回り、その先にある、まるでプリンセスの冠のようなジニアのお花の茂みには、長いくちばしを花に突っ込んで蜜を吸っている可愛らしいハチドリの姿がある。


 背景にはかすかに、噴水の水の流れが涼しげに聞こえ、リスやウサギといった小動物があちこちに姿を現す。


 その時。


「え?」


 アルヴァロはふと、足を止めた。


 アルヴァロよりも少し先を歩いていく、一人の少女の姿が見えたのだ。

 しかし、その姿は、尋常ではなかった。


 朝、起きたばかりなのだろう、部屋着のような、白いワンピースを着たブルーベルが、長い銀色の髪を揺らしながら、ゆっくりと庭を歩いていた。


 そしてブルーベルの周囲を、蝶々が群れて飛び、明らかに彼女に合わせて動いている。


 さらに、ブルーベルを誘うかのように、前方にはたくさんのホタルの光がちかちかと瞬いているのが見えた。


 それはまるで、ブルーベル自身が、小さな光に囲まれているようで。


 その美しさときたら。

 たとえブルーベルが顔の半分を銀の仮面で覆っていても、損なわれるものなどなかった。

 むしろ、仮面を着けていることで、なおさら神秘的な美しさが増すような気がした。


 足元に目をやれば、リスとウサギ達がぴょんぴょんと跳ねながら、ブルーベルの周囲をくるくると周り、後を付けている。


 アルヴァロの目には、ブルーベルを歓迎する、精霊達の姿が見えた。


 精霊達は見せかけの美などには一切、動かされることはない。

 もし精霊達が、近づきたいと思うなら、ブルーベルは本物なのだ。

 精霊は決して、安易に心を開くことはない。


 その美しさも。

 その心も。

 ブルーベルには、嘘偽りがない。


 その瞬間。

 アルヴァロの心から、最後の警戒心が剥がれ落ちた。


 一呼吸すると、ブルーベルに向かって一歩踏み出した。


「……ブルーベル……?」


 ブルーベルが振り向いて、アルヴァロに気づいた瞬間、魔法のような時間は破れた。


 蝶々は再び庭のあちこちに散らばり、ホタルの光は消えた。

 リスとウサギもまた、飛び跳ねながら、森の奥へ向かっていく。


「公爵閣下!?」


 ブルーベルが振り返って、真っ赤になる。


「お、おはようございます……」


 ブルーベルがどもりながら挨拶をする。


「おはよう、ブルーベル」


「……………」

「……………」


 あっさりと、沈黙が落ちた。


「あ、あのっ、本当に素敵なお庭ですね! わたし、大好きになって、いつも勝手に歩き回って、その、すみません…………」


 だんだん声が小さくなる。


「もしわたしが気づかずに何か迷惑なことをしていたら、はっきりそう言ってください……。ドゥセテラでは勝手に離宮から出ると叱られました。あ、そういえば、お庭で会った庭師のおじいさんとおしゃべりなどをしてしまいました……使用人の皆様もどなたもとても気さくで、ついつい……あの……」


 ブルーベルは話すのを止めてしまった。


「ごめんなさい」


 アルヴァロはブルーベルを見つめた。


 ドゥセテラの離宮で見たブルーベルは、孤独で、どこか寂しそうだった。

 そんな彼女が、離宮の庭では、鳥や動物達に囲まれて、本当に嬉しそうにしていたのだ。


 だからこそ、見慣れぬ白いオオカミにも親切で、怖がることすらしなかった。


 ブルーベルにとっては、実の家族の方が、恐ろしい存在だったのかも、しれない。

 そう思うと、アルヴァロはひどく心が痛むものを感じた。


「ブルーベル」

「はい、公爵閣下」


「アルヴァロ、でいい。これからはそう呼ぶように。この屋敷に来たのだから、あなたはもう家族の一員だ」


 ブルーベルは目を見開いた。


「ア、アルヴァロ様」

「それでいい。それから、ほら、あれを見てみろ」


 アルヴァロが森の入り口を指した。

 その時、何かがばさっと地面に落ちたが、アルヴァロは気づかなかった。


 森の入り口には、何か明るい金色の光がちらちらとしているのが見えた。


「噴水はどうだ?」


 今度は、噴水を指さす。

 言われてみると、噴水の水しぶきに重なるようにして、薄青の光が楽しそうに揺れ動いているのが見えた。


「あれは、精霊だ」

「精霊!??」

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