第7話 森のオオカミ/夜の訪問者(1)

「熱っ……!」


 その頃、陽が落ちて、次第に夜の闇に包まれていく離宮の庭で、ブルーベルは思わず自分の首筋に手を触れた。


 一瞬、まるで火傷をしたかのような痛みを感じたのだ。

 しかし、指先でそっと首の周囲をなぞってみても、何も変わったことはないようだった。


「気のせいかしら」


 ブルーベルは苦笑して、着ている古びたワンピースの裾を直した。


 ブルーベルは普段、人と接することが極端に少ない日々を送っている。

 離宮の門に鍵がかけられていたり、幽閉されている、ということではないのだが、離宮に訪れる人もなく、ブルーベルも用がない限り、宮殿に行くことはない。


 今日のように、国王から呼び出しがかかることの方が珍しいのだった。


 そのため、まだ神経が少し疲れているのだろう。

 そう思ったブルーベルは離宮の台所で自分のために熱い紅茶を入れると、何の模様もない、厚手の大きな白いカップを持って、庭にやってきた。


 夕暮れ前のひとときを、外で過ごそうと思ったのだ。


 夏のこの時間は、美しい。


 空は青色からオレンジ、そして赤へと色を変え始めていた。

 太陽の光を受けて、白い雲がバラ色に染まっている。


 一方、地上では少しずつ闇が深くなっていき、裏の森からは、ちらちらと小さな光がまるで妖精のように舞い始める。


 小さな光は、庭に置かれた古いベンチに腰掛けるブルーベルの周囲を、まるで光のまゆのように取り囲んでくるのだ。


 ホタル。

 森で棲息している、陸生ホタルが小さく光りながら、ブルーベルにまるで話しかけているようだった。


「ふふ。わたしを慰めてくれているの? 大丈夫よ、ちょっと疲れただけ。何も大変なことはなかったわ」


 ブルーベルが手を伸ばすと、小さな光が、ちょこん、と指先に止まった。


「わたしは何も心配していないの。お父様はああ仰ったけれど、わたしが皇帝陛下の花嫁に選ばれることはないわ。お姉様方は、本当にお美しいのですもの。きっと、フィリスお姉様か……トゥリパお姉様、もしかしたら、ロゼリーお姉様かしら、いずれかのお姉様が選ばれるはず。わたしは変わらず、この離宮にいるはずよ。だから、何も心配する必要はないの」


 ブルーベルには、友達はいない。

 ペットとして飼っている動物もいない。


 しかし、不思議なことにブルーベルは小鳥や動物達に好かれることが多かった。


 朝、庭に出れば、たくさんの小鳥達がやってきて、ブルーベルにパンくずをねだる。

 庭には時折、森の動物達が姿を見せた。


 リスや野ウサギ、シカやアライグマ。

 ある時、ふと気がついたら、目の前に自分の身長よりも背が高い、堂々とした雄鹿が立っていて、びっくりしたこともあった。


 ささやかな庭には、季節ごとに花が咲き、たくさんの蝶々がやってくる。


 夜になると、夏の間はホタルの光を楽しむことができるし、闇の中を優しく鳴くフクロウの声は、まるで懐かしい友達の声のように聞こえた。


 ブルーベルはそんな生き物達とのふれあいを楽しみ、だからこそ、一人で離宮に暮らしていても、寂しくないのかな、と思ったりした。


 そんなことを思いながら、ベンチに座って、夕暮れの中にホタルを眺めていた時。


「ブルーベル王女殿下」


 ブルーベルは不意に声を掛けられて、驚いて立ち上がった。


 声の先には、離宮の門の前に立つ、衛兵の姿があった。

 その姿には、覚えがあった。

 普段、宮殿で勤務に当たっている衛兵の一人だ。


 ブルーベルに丁寧に接してくれる、数少ない人物のため、ブルーベルは彼の顔を覚えていた。


「ブルーベル王女殿下、驚かせてしまい、申し訳ございません。実は、宮殿の敷地内でオオカミを見かけたという報告がありました。現在捜索を行っておりますが、殿下におかれましては、安全のため、今夜はもう建物の中にお入りになって、屋外には出られないようになさってください」


 まあ、とブルーベルは目を丸くする。


 離宮は宮殿の敷地内にあるとはいえ、外れの方に位置している。その背後には、深い森が広がっているのだ。

 オオカミがいても、不思議はない。


「知らせに来ていただいて、ありがとうございました。はい、もう中に入りますわ」

「念のためにきちんとドアの鍵をかけてくださいね。オオカミが何者かによって意図的に放たれた、ということもあり得ますから」

「はい」


 ブルーベルはそのまま衛兵が離宮を離れるのを見送り、さて、自分も中に入ろう、と振り返った時、思わず息を呑んだ。

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