Room5.太陽の下で(後編)
※性的な描写が含まれるので、ご注意願います。
「あたしたち多分別のものを見ているんだと思う。
例えば同じ遠くの山を見てるとしても、ビルから眺めるのと飛行機から見下ろすのとでは違うでしょ?」
「僕はただ確実なものを求めているんだ。揺るがない確固たる何かを」
「いつかあなたが確実だって言えるものに出会ったとき、それを確実だって決めるのは他でもないあなたでしょ。
だったら確実なものをあなたは既に持っているっていえないかな?」
*
美陽の施術を受けた日の夜、家でシャワーを浴びると異常に肌が乾燥していることに気が付いた。
エステに使われたのはベビーオイルのようなものだったのか。肌に必要な最低限の油分をもっていかれてしまったようだ。
メンズエステでは水溶性のノンオイル、通称ノイルが標準採用となっている。
保湿成分と香料でリラクセーション効果は見込めるが、オイルというよりはローションのようなものだ。
本格的なアロマテラピーやリトリートで用いられる浸透性の高いオイルは、この業界ではまずお目にかかれない。
要は肌と肌のふれあいと「何かあるかも」を楽しむレクリエーション。
お客様に対してサービスを提供いたしますという蠱惑的な淑女。
ハプニングの予感と期待に胸と股間を膨らませる紳士。
計算する女の子、期待してる男の子。
それは小さなクラスルームという箱庭で繰り広げられていた心理ゲームと大して変わらない。
でもそれがいいんじゃないか。
美陽と僕に限っていえば、メンズエステの定型には当てはまらなかった。
最初から期待なんてしていないのにそれを越えていた。
肌と触れ合っては必要なものまでもっていってしまった。知らず知らずのうちに。
そんな刹那の関係性。
*
川崎駅周辺のマンションを拠点とするそのお店は、1週間分の出勤表をまとめて水曜日に更新していた。
次の出勤がオープンになる前に「美陽さん120分コース、金曜の夜でお願いします」とコール。
あいにく直前に別のお客様がご予約されており90分コースでしたらご案内が可能です、との返答。
僕の前に入った客が指名で予約を入れたのはこの日らしい。
また耳舐め舐めおじさんの次かよ、と思うが90分コースで承諾する。
電話を切って一息つく。
会社の昼休みに抜け出して、公園のベンチの木陰に来ていた。
照りつける太陽から逃れることはできたが、地面に照り返す光はじんわりと周囲の気温を上げる。
その年の夏、通行人たちは皆マスクをつけて死にそうな顔で歩いていた。
絶対に100%病気になりたくなければ生きることをやめなければならない。
思考の極地まで行ってそこから逆算して妥協点を見つける。
お互いが生きていくのにちょうどいい距離感を。
これまで通りをこれから先も、という共通幻想を支える共同作業。
傍目に見て少し冷めてしまうけど、それはそれできっと美しいことなんだろう。
他人事のように思うけどしっかりその分母に僕も含まれている。
どう転んだってこの先の未来に付き合わされるという諦めと実感。
せめてもと思いながら毎日、慣れないクロールで息継ぎするみたいにもがいて泳ぐ。
「まだ7月なのに暑すぎるだろ・・・」
ベンチの隣にいたリーマンが誰にともなくつぶやく。おっしゃるとおり。
ほんとにプールに泳ぎに行った方がいいのかもな。スーツなんて脱ぎ捨てて。
*
7月の最終週。
月末の請求書やら締め作業やらで気付けば過ぎ去って金曜日。
得意先にわざわざ紙で請求書を届けに行ったあと半休をとる。
ちゃんと戻ってこいよと上司に嫌味っぽく言われながらオフィスを後にした。
このまま永遠に戻って来なくても何の未練もねぇよ。
平日昼間の川崎駅は治安の悪さは感じない。
住宅街、ショッピングモール、ライブハウス、シアター、飲食店街、風俗街、工業地帯。
鮮やかなグラデーションで現代社会の光と闇を閉じ込めてみせる。
なかなか魅力的な街だと思う。住みたいとは思わないけど。
適当に時間をつぶすために映画を観ようと思ったが、
興味を引くタイトルが見当たらないので引き返してカフェへ。
ラゾーナの3階にあるスターバックス。
アイスコーヒーを注文してテラスの席に座る。そこから見える景色を眺めるともなく眺める。
テスラとタグホイヤーの店内は閑散としていて暇そうだ。
時間を持て余してここにいる僕が言えたことじゃないけど。
ブランドイメージに沿って区画化され、きれいに陳列された商品たち。
設計された、狙った層に訴求するための戦略。
人間社会の棲み分けもおんなじだ。規則正しく交わることのない世界線。
そんな固着したイメージをぶっ壊したくなる。
非日常の扉を開くために、出勤表を開いてコールする。
*
今回はまた別のマンションに通された。
単身向け高層マンションではなくふつうの雑居ビルみたいなアパートのワンルーム。
15,000円/90分指名料込みを握りしめて、オートロックの部屋番号410を押す。
無言で開けられるオートロック。
声を発さず応対するのがメンズエステの標準。
エレベータで4階まで。
角部屋に向かう途中に外を眺めると、美しい夏の夕日がビルの間に沈んでいくところだった。
インターホンを押す。
「またきてくれて嬉しいです」
美陽は今日もオフホワイトのTシャツと丈の短い黒のスカート。
初回と違うのは最初からマスクをしていないことだ。
笑顔が某坂道センターに似ていてすごく可愛い。
「紫外線が致死量に達した」とかなんとか言いながらシャワーを借りる。
彼女の部屋に2回目に遊びに来たときみたいな慣れた感じとほどよいリラックス。
服を脱ぐ。シャワーを浴びる。
体を拭く。紙パンツを装着する。
いつものルーティン。
部屋に戻ると照明は落とされていて、ベッドに施術用のクッションとタオルが敷かれている。
うつ伏せになってください、と促される。言う通りにする。
直接指圧をして欲しい、とオイルなしのマッサージでお願いしてみる。
そんなの研修で習ってないから無理だと思うけど、適当に撫でてくれれば大丈夫。
指名で2回目とはいえ、ふつうに考えるとご退室願いたいクソ客ムーブ。
美陽は快く受け入れてくれる。
ふくらはぎ、太もも、足の付け根と至ってノーマルな指圧を受ける。
さっき帰った客がまた耳を攻めてばかりいたとか、昼の仕事が忙しいとか。
僕もさっき紙の請求書を客先に届けた本当にくだらない話をする。
美陽の手が臀部から腰にかけて伸びてきたのとほとんど同時に、
脚の上にひんやりとした太ももが乗っかるのを感じる。
チャイエスやタイ古式で慣れて麻痺してるけど、普通の撫子エステで客の体に乗るような密着はなかなかない。
やっぱり撫子メンズエステならではの醍醐味ですよね、と心の中で熱弁。
密着がはじまったのを合図に、その腕や脚に手をまわす。
指名で2回目とはいえ、ふつうに考えると出禁になっても文句は言えないムーブ。
僕は体勢を変えて向かい合う。
オフホワイトのTシャツをはだけさせて首筋にキスをする。
いやらしいフェロモンの匂いが鼻腔を満たす。
「あたらしい下着つけてきたんだけど、どうかな?」
どちらかといえばシックなデザイン。黒を基調としたシンプルな模様の入ったブラ。
短いスカートもはだけていて、ペアの黒いパンツが覗いている。
とても素敵で似合っているし、わざわざ今日のために新品をおろしてくれて嬉しいと素直に伝える。
メンズエステはマットの横に鏡が配置されていることが多い。
これはしっかりと指圧をしているかどうか確認するため・・・ではなく
ソープランドの天井が鏡貼りになっているのと同じような意味だろうな。
その鏡に、ちょうど美陽の首の下から体が映るように、体の向きを変えさせる。
後ろから胸や秘部をまさぐるようにさわる。
「なにこれすっごいえっちだね・・」
吐息と息遣いが荒くなって、敏感な部分が熱くなってきた。
女性はエクスタシーを感じている時が一番美しく見える。
男性はエクスタシーを感じさせている時が一番かっこいいのかもしれない。
あたらしい下着を全部脱がして、お互い裸に。
用意しておいたゴムを装着する。
互いに一瞬目を見て、触れたかどうかの短いキスをした。
前回よりゆっくりとしたテンポ。手と指と舌で愛撫。
美陽が短く声をあげて、快感の頂点に登ったことを伝える。
美陽の体をそのまま施術マットの枕にもたれかけて、足を広げさせる。あてがっていた部分を、そのまま奥まで。
「ちょっと痛いかも」
先端にすごい圧迫感を感じる。
ごめんね、ゆっくり入るからちょっとだけ我慢して。
全部入りきる前に快感が迫って来ていて、中途半端な挿入でピストン運動。
1,2分で射精感がこみあげてきて、我慢できずにそのまま中へ。
「すっごい出たね」
外したゴムに少し血が滲んでいて申し訳なくなる。
持参したミネラルウォータを半分こにする。
「ふだんは自分でシないってことは性欲が低いってこと?」
二人で下着だけ身に着けて後片付けをしながら、日常会話。
「人並みかな?他の人はどうか知らないけど。
性欲に動かされているというよりも性欲をどう活かすか、いつも考えてる」
性欲に動かされて、今日この場に足を運んだのかもしれないけれど。
確かに通じ合った感覚はあった。だが想像していた以上の疲労感と倦怠感が襲ってきていた。
「先にシャワー使ってて、あたしこれでシフト上がるから残り片付けちゃう」
「このあとちょっとだけ話さない?駅前のカフェで待ってる」
いいけど、時間かかっちゃったらごめんねという言葉に了承してシャワー。
体を洗う、顔もよく洗う。
体を拭く、服を着る。
今朝ジムに寄ってから来たから、既にこのルーティンは2回目。
2回目の方は、二人で運動した分の充実感があった。
*
部屋に戻ると美陽は私服に着替えていた。
ファンシーなデザイン。あざやかなグリーンのワンピース。
肩のあたりが少し露出していて夏らしくセクシーな雰囲気。
アイドルっぽいルックスにとてもよく似合っていた。
「かわいい君によく似合ってる。なかなか素敵。メロンパフェみたいで」
それって褒め言葉なの?と美陽は笑う。
じゃあまたあとで、と口約束してバイバイ。
410号室をあとにする。
エレベータから下りて地上に踏み出すと、うだるような空気が今は夏だということを、しっかりと思い出させてくれた。
気まぐれにカフェに誘ったけどきっと来ないかもな。
言い出したのは僕の方だから駅前のルノアールへと向かう。
「今は一人なんですけど後から来るので二名です」
とウェイターに伝えて奥の席へ通してもらう。
メニューを開いてレモンアイスティとサンドイッチを注文。
適当にスマホでWebサイトを眺めて時間をつぶす。カフェでスマホいじってばかりだな。
30分経過。
サンドイッチが空になってアイスティもほとんどなくなった。
そろそろ帰ろうか、もう少し待つか。
45分が過ぎたあたりでトイレに立って、帰るつもりで席に戻る。
だらだらもう少しだけスマホをいじって待つ。
ちょうど入店してから1時間経ったころ「遅くなってごめん」と美陽が席まで駆けてきた。
「ほんとに来てくれたんだ」
思ったことがつい口から出てしまう。
僕はもう食べてしまったけど、何か注文する?
「お腹すいたあ。ホットコーヒーとナポリタンにしよっかな」
ウェイターに注文して、ついでにアイスティのおかわりもお願いする。
「片付け色々とあって大変だったでしょ。来てくれてありがとう」
「タオルとか思ったよりあって時間かかっちゃった」
生活感のある会話。その二人は仕事帰りのスーツ姿とおしゃれなメロンみたいなお出かけコーデ。
今までどこで何をしていたのだろう、という訝し気な視線が隣のテーブルから注がれている気がする。
指名で入ったメンズエステの嬢とふつうのサラリーマンが、ちょっとした親密な時間のあとカフェで落ち合いました。
お互いの身の上の上話。あまりプライベート過ぎない範囲で語る。
あたしは小学生のころから男子に好奇の目で見られていたと思う。
上京して学校の同級生と別々の職場になった。今でも仲が良くて遊びに行ったりもする。
エステと掛け持ちしているけど、たぶん本職の方は転職する。
そんなとりとめのない会話。
「最近はあまり休みが合わなくて会えてないなぁ。吉祥寺にあるリアル脱出ゲーム行ってみたいけど、誰か行ってくれないかな」
ここで「じゃあ僕と一緒に行こうよ」と答える世界線もきっとあった。
その場合二人はLINE交換をして、今日はありがとうとか送りあって細かい日時を決める。
当日を迎えるまでに通話や近況報告なんかもするかもしれない。
リアル脱出ゲームに成功したお祝いに、パンケーキにホイップを大盛にする。
そのあと街を散策して、ちょうど目についた二人きりでゆっくりできる場所へ三時間くらい行くのかもしれない。
そんな未来を想像した瞬間に虚しくなる。
脱出ゲームの話題は聞き流して、またとりとめのない会話へ戻る。
*
カフェの会計は僕が全部支払った。せっかく来てもらったから。
川崎駅まで歩く。
背丈がけっこう違うから歩幅も違う。
違う場所で生まれ育って、違う進路を選んで、別々の場所へと帰っていく。
そんな二人がたまたま一緒にいる時間を共有できたこと。美しく儚くて不思議だ。
「じゃあ」
またね、とは言わず別々の階段へと向かう。
反対方面のプラットフォームに立つ美陽と互いに手を振りあう。
先に向こうの電車が到着して、グリーンのあざやかなアイドルを駅から連れ去っていった。
残された僕は持っていた空のペットボトルを鞄から引っ張り出してゴミ箱に捨てる。
代わりにキャラクターイラストが入った缶コーヒーを自販機で買う。
そして美陽と二度と会うことはなかった。
*
しばらく経ってから出勤表を確認すると、美陽はお店をやめていた。
なぜかは想像できる気がするけれど、それを確かめる術はない。
美しい夏の太陽みたいな笑顔のアイドル。
エステ用のシャツとスカート、あたらしい下着、グリーンのワンピース。
忘れることはできないけれどきっと、時間と共に忘れていくんだろうな。
もしも「これこそまさに探し求めていたものだ」とわかる日がきたとする。
それが確実にそうだといえる判断基準はその人の心の中にすでにあるものだ。
有象無象、千変万化、移ろいゆく現世。
そんな中で一瞬手が届いては遠ざかっていく。
僕たちは相も変わらず繰り返していく。
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