第7話『リリィ・ティア・トゥルース』

白百合は嫌いだ。たとえどんなにそれが僕に相応しい花と言われたって、それじゃあ、あんたの目は節穴なんだねと返す以外、僕にはない。自らを誇るように咲くすがたも、存在を嫌でも焼き付ける濃い香りも、清純を気取るあの純白も、きらいだ、だいきらいだ、なにもかも癇に障る。僕のこのみすぼらしい心をみつけてくれたたった一人が、僕にとって唯一の、――


薄く降りてくる暗闇に身をひそめる冷気が、ゆっくりと這い出てくるような時分。路地で待ち伏せていた僕は、仕事からの帰路につくお前と、目論み通りに対面することができた。今までどこにいたんだよ、急にいなくなって心配したんだぜ、なんか悪いことが起きたのか、なあ、なんか言えよ。投げかけられる言葉に、僕はただ黙って微笑んだままでいる。お前は随分驚いていて、──まあ、無理はない。1年は経ったか?突然姿を消した僕へ、それでも向ける感情は親愛のようだった。よかった、また会えて。ずっと探してた。僕は応えない。代わりに歩み寄る。なんだよ、だからなんか言えよ、へらへら笑いながらそう言うお前を意に介さず、さらに距離を詰めた。雲行きが怪いという具合に、お前の表情から笑みが徐々に消えていく。なあ、どうした?やっぱり、なんかあったのか──戸惑いながら僕を見上げたお前の首を掴み、壁に叩きつけて、締め上げる。引き攣った声が漏れる。僕は笑う。笑って、耳元で囁いた。


「撃てよ。なんのための銃だ」


混乱しているお前の視線に、敵意は芽生えない。さらに力をこめた。声にならない声。ようやく恐怖の色が滲む。そう。それでいいんだよ、お利口さん。必死に動かした手が銃を探り当てる。躊躇う隙を与えないよう、怯えるお前を僕は追い詰める。「ねえ、このままじゃ死んじゃうね。」


銃声。腹部に数発。痛みと衝撃で後ろへ倒れこむ僕、呼吸を取り戻そうと大きく咳き込んだお前。ふらふらとした足取りでこちらへ寄って、膝をつく。泣きながら、なにか喚いている。銃を握りこんだまま手放せないでいるお前の手を、僕は掴んだ。お前は僕の顔をみて絶句する。それが面白かった。昔みたいな気持ちになった。もっと脅かしてやろうかな、"フツーだったら"、間違いなく致命傷なんだけどさ。どろどろと血を流している上半身を起こす。掴んだままのお前の手を、銃口を、僕の心臓へ押し当てた。──僕は笑む。親友でいられたあの日と、なんら変わらずに。


「僕はもう戻れない」

「お前がもし僕を救えると思うなら」「あの頃が、まだ愛しいと言えるなら」

「そのとき、僕をもう一度撃て」


そう言って、あっけないほどに軽く手を離した。僕は立ち上がる。血塗れのコンクリートに座り込んだお前は茫然としていたが、なにかしら理解は及んだのだろう。去っていく僕の背に、力なく漏らす。「お前が帰ってきて、それで、全部元通りになるんだと思ったのに。」苦笑した。言葉は返さずにいた。夜はすっかりお互いの姿をくらましてしまって、これがもうきっと一生かかっても届かない距離であることを、僕もお前も思い知る。……残念。元通りになんてなれっこないね。けど、なあ、お前なら、僕を──、


1年前、何があったか。17歳の、冬の日だ。白む息、日に日に深くなる冷え込みを気鬱に感じながら歩む街中、ふいに背後から肩を叩かれて振り返る。僕はめいっぱいの不快感を露わにした。……気安く身体を触られるのは嫌いだ。僕のその表情をみて、相手は少しだけ申し訳なさそうな仕草をした。細身のスーツにコートを羽織った、眼鏡の男だ。ごめんね、ちょっといいかな。勧誘かなにかだろうか。面倒だ。スカウトの類も容姿のせいか嫌というほど機会があるが、顔も知らない大多数の人間にむやみに消費されるような場に、僕は自ら出たいとは思わない。ひらひらと手を振って興味がないことを示し離れようとすると、相手はとっさに僕の腕を掴んできた。鬱陶しいな。やめてくれ、とそれを拒絶したが、相手は手を離さず、気味が悪いほど親切な笑顔でこう告げた。


「言うことを聞いてくれたら、きみは妹さんともう一度会える」


耳を疑った。僕の妹は数年前に死んでいる。交通事故だった。ひき逃げした犯人は未だに捕まっていない。ある程度噂にはなったが、特定できるほどの情報があったわけではないはずだ。それを、僕と、僕の妹のことだと、見ず知らずのこの人物は嗅ぎつけたのか?、知らずにでたらめを抜かしていたとしても、反射的に抑えきれない感情が沸き上がる。


「信じると思うか?僕の苦しみを、彼女の死を、侮辱するな」


ずっと抱え込んできた行き場のない憎しみと悲哀を、忘れることのできない思い出を、お前なんかにどうこうされてたまるかよ。僕の返答を受けて、相手はやっと僕の腕を放し、そっか、ごめんね、傷つけちゃったね、などと間に合わせのような謝罪の言葉を並べ、僕から離れていった。指先は冷え切っていたが、怒りはふつふつと熱を持ち、僕はその方向をしばらく睨んでいた、やがて踵を返して速足で歩き出す。いやな、感じがした。あれが人混みの中に消えていくとき、こちらにやった視線。……もう逃げられないものをみて、嘲笑うような視線に。


数日後のことだ。自宅の郵便受けに宛名の無い封筒が入れられていた。差出人の記述もない。不審に思った(し、興味もなかったから)僕は中身も確認せずに処分しようとした。封がされておらず、中身がばさばさとゴミ箱の中に落ちる。見知ったものをとらえて視線がうつる、……、なんで、これは──、僕はとっさに携帯電話を手に取る。履歴からすぐに通話を繋ぐ。数度のベルのあと、応答がある。僕は安堵した。今から会える?お願い、待ってて。すぐに迎えに行くから。突然のことに少し驚いた様子で君の返答が返る。わかりました、なるべく急ぎますね。僕はありがとう、愛してる、と告げて通話を切る。手近にあった上着を羽織って家を出る。とにかく、足を急がせた。


駅を出てすぐの街路樹と青色のベンチの並び、いつもの待ち合わせ場所に君はいなかった。往来に君の姿を探しながら、電話をかける。ベルが鳴る。応答はない。何度も繰り返す。ベルが鳴る。応答はない。次に応答がなかったら、少し遠いけれど直接家まで行こう。大丈夫。もしかしたら電話を置いて家を出てしまったのかもしれない。あと5分後には君がここに現れて、ごめんなさい、僕、電話を家に、って慌てて事情を話してくれて、僕は少し笑って君を抱きしめる、大丈夫、きっとそうなるから、言い聞かせる僕の思考は、途切れたベルと同時に停止した。聞き覚えのある声だった。君じゃない。君じゃない、


「早く来ないと、君の大事な人が冷たくなっちゃうよ」


封筒の中身は数十枚の写真だった。写っていたのは、僕の恋人だ。とにかく今すぐに君と会って無事を確かめたくて、僕は問い詰める。何があった、お前は誰だ、彼は今どこにいる。……相手が薄ら笑うのが、わかった。「だいたい、君が想像する通りだと思うけどね。」


「……何が目的で、」

「ハハ、オーケイオーケイ。詳しいハナシは現地でしよう」


相手は僕の言葉を軽薄な調子で遮り、この駅から"現地"への経路を告げる、体は勝手に動いていた。雪がちらつきだしていた、……気がする、寒さなんてものも、ほとんど感覚していなかった、とにかくただ、走った、流れていく街と人々と、焦りでひりつく心を覚えている。たどり着いたのは、人気のない倉庫街だった。


「ようこそ。お待ちかねのご対面だ」


ガラスの棺。香りだつ白百合の群れの中眠る君はきれいだった。駆け寄って名を呼んだ。触れた。おそろしく冷たかった。黒髪を撫でた。さらさらと痩せた白い肌の上にそれが落ちても、少しも、うごかなかった。男が、あのとき僕の腕をつかんで、「傷つけちゃったね」と言って嘲笑ったあの男が、君を見つめたまま動かない僕の後ろへかがんで、言う。お願いを聞いてくれれば、全部元通りになるよ。断る理由なんてひとつもなかった。"君"以外に、僕の世界なんてないんだから。


そこから先はよく覚えていない、契約書にサインが必要で、あの男と、あの男に顔が似た女が笑っていた、あなた花みたいね、花開いた姿を手折られ、飾られてもてはやされて、それでもやがて枯れ捨てられる花のように美しいひと。よくわからなかった。でも、君も、妹も、気づいたら僕のそばにいたから、逆らう理由がなくなってしまった。女の言うとおりに高い服を着て舞台に立った。微笑んだ。それだけで沢山の人たちが僕に夢中になった。なんて簡単な世界だろうと思った。だからどうでもよかった、もう、なにがどうなろうとなんだっていいや、もう君とずっと一緒で、ないしょだよ、おにいちゃん、ないしょだよ、ってくすぐったい声で妹が僕の耳に触れる日が帰ってきて、これ以上の幸せがどこにあるのだろう、僕は戻れない、戻る必要がないから、だからいつか使い捨てられる日が来ても、僕は全然構わなかった、"お前"に矛先が向くと知らなければ。


僕だって信じられないけど、どうせ巻き込むなら、じゃあ、お前の手で終わらせてほしかった。──それだけだよ。ほんとうに、それだけ。

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