第4話『透明人間は名前を持たない(前編)』

多くの謎を持ち、また多くの仮面を持つ。「怪人」のように在ることは、私にとってひとつの矜持だ。


傾けたグラスの中で揺らめく赤を眺め、そのかぐわしい香りを楽しむ。燃える炎に溶かされるような舌ざわりをもつ「炎の唇」、ラベルには"忘れられない口づけを"と添えられた上物のワイン。それを一口含み、十分に味わいながら、私が主催するダンスパーティーへの招待客の候補者リストに目を通す。資産家や役所の要人、加えて裏社会の有力者など、この街の重要人物たちの名を集めたこのリスト……、これらの中で、どの名前が私の"仮面"に相応しいか──を、じっくりと値踏みしていた。


……私が、まだ幼かったころの話だ。厳格な父の目を盗み、彼の書斎へ忍び込んだある日、私はその物語と出会った。「透明人間は名前を持たない」──背表紙に書かれたそのタイトルを、私は一目見て惹かれるように手に取った。男は、生まれた時から名を持たなかった。他の誰もかも、彼を認識せず、彼の傍を通り過ぎて行った。その代わり、彼は"何物にも成ることができた"。仮初めの名を名乗り、その名を仮面として、多くの人々と繋がりを持ち、多くの世界を渡り歩いた。一人の人間には不可能といえるほどの経験を得て、……しかし、男は嘆いたのだ。「誰一人として、己のほんとうの姿を知るものはいない」。

何者にも成り替わることができる目まぐるしい世界の中で、誰も己の姿を知らず、ただの独りきりである寂しさ。私は彼のその孤独を思い、身体の芯が熱くなるような興奮と、憧れを持った。

そうなりたい、いや、そうなる"べき"だ。私がこの物語を手に取った時から決まった、運命のように感じていた。私には名があった。この名に縛られていては、彼の様にはなれない。幼い私は画策した。邪魔なこれを捨て去るには、他の人々との"繋がり"である名前を失うには……、


結論から話そう。私は、「私の名を知る人間をすべて殺した」。幸い、ほとんど家から出されることのなかった私の名前を知るものは少なく、父のコレクションの中から毒薬を盗み出し、その日の晩餐のあいだに、すべてのつながりを消すことができた。

彼らに恨みなどはなかった。ここへあるのは、純なる親愛だけだった。ただ、「透明人間」であるあの男、「怪人」のようなその姿への憧れと興奮、それだけが私を突き動かしていた。毒に苦しみ喘いでいた最後の1人が息絶えたその瞬間、私の心臓は鼓動を止めた。ガタガタと震える身体は、氷のように冷え切っていた。私の名を呼ぶ者たちの声、その姿、あらゆる"思い出"が頭を駆け巡り、眩しい光が幾度となく視界にあらわれる。床に膝をついてそれらに耐えていると、やがてその症状はおさまり、あとには静寂だけが残った。


私は、実感と確信を得ていた。もう、私という存在を知るものは誰もいない。己の名も、とうに思い出すことが出来なくなっていた。私はここへ独りきり、名前を持たない"透明人間"、その孤独を手に入れたのだ、と、あまりある喜びに打ち震えていた。満たされるような快感、あの物語を手に取った日にさだめられたこの運命、その達成。否、これはまだ始まりに過ぎない。名前を持たない透明人間から、「怪人」へと変貌するためのその一歩──、私の生まれた意味は、その人生は、その為にあった。私は父と母の亡骸に口づけを落とす。あの物語に私が出会えたこと、そして私がこの瞬間を手に入れられたこと、……すべて、貴方がたのおかげであった、と。


──過去の記憶を手繰りながらリストの確認を終えたころ、部屋の扉をノックする音に気付いた。

どうぞ、と返事をするとまもなく扉は開き、使用人がファイルを持って私の部屋へ入ってきた。


「失礼、主様。リストに更新がありましたので、お知らせに参りました」


「ほう?何方かね」


こちらの方です、と使用人が差し出した資料を手に取り、その記述に目を通す。コールネームはフランツ、マスコミ関係に人脈を持つ資産家の息子。近頃話題のホワイト・リリィのマジックショーのスポンサーなどから支援を受けているという、最近になって界隈で台頭し始めた若き有力者……、ふむ……、──悪く無い。私の"仮面"となる役者としては十分な人物だ……、それにあのマジック・ショーへのコネクションといえば、私もどう手に入れたものかと、丁度考えあぐねていた案件だった。


「ご苦労、決めたよ。すぐに彼へ招待状の手配を」


「承知いたしました」


使用人はそう返事をして頭を深々と下げると、私の命令に応じるために部屋を出ていく。手に取ったグラスの中で揺れるワインを見つめながら、私はゆったりと背をソファに預ける。

「忘れられない口づけを」──、ああ、若く才のある青年の相手となるなら、これがいい。言葉巧みに彼を誘惑しては口づける"炎の唇"……、すでに手の中にある"仮面"の中から、とびきりの美しい女性を選び取り、鏡の前に立つ。……手を、ひらりと顔の上で返す。ふわりと舞った甘い香り、白く滑らかな肌をなぞり、優雅なシルエットで広がる赤いドレスの裾……、


あの日夢に見た「怪人」は此処にいる。──鏡の前で微笑んだのは、「私」ではない、「私」だ。

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