第2話 エスケープ問題

 草薙市に位置する「すみれの郷」は、緑豊かな環境に囲まれた介護施設として知られている。そこでは、多くの高齢者が穏やかな生活を送っていた。しかし、施設内の平穏が突如として乱される事件が発生した。


 夜間の施設内は静寂に包まれていた。深夜2時を回った頃、施設の職員である中村は、廊下を歩く不審な音に気づき、その音の発生源を確認するために動き出した。彼が辿り着いた先には、90代の入居者である鈴木が玄関へ向かって歩いている姿があった。


 鈴木は認知症を抱えており、徘徊行動が見られることは珍しくなかった。しかし、この夜の彼女の動きには、異様な緊張感が漂っていた。中村が声をかけると、鈴木は「家に帰らなければならない、あの人が待っている」と、意味深な言葉を口にした。


 施設内では、鈴木以外の入居者にも異常行動が増加していた。複数の入居者が「迎えが来る」と口にし、誰もいない場所に向かって話しかけたり、手を振る姿が目撃されていた。このような現象は認知症の進行に伴うものと考えられていたが、鈴木をはじめとする複数の入居者が同時期に同じような言動を示すことは、職員たちの間で不安を広げていた。


 中村は、これらの事象が単なる偶然ではなく、施設内に何らかの要因が潜んでいる可能性を疑い始めた。


 異常行動の原因を突き止めるため、中村は同僚と共に施設内の監視カメラ映像を確認することにした。すると、鈴木が徘徊していた際、彼女が見つめていた方向に、不明瞭な人影が映り込んでいることが判明した。その人影は、しばらくの間静止していたが、次第に形を崩し、最後には消え去っていた。


 この不可解な現象が、入居者たちの異常行動と関連しているのではないかという疑念を中村は持った。

 入居者の徘徊がエスケープ問題と呼ばれているを施設長から教わった。


 草薙市の介護施設「すみれの郷」で異常行動の増加により、施設内の緊張感は高まっていた。そんな中、職員である中村は、調査を進める傍らで、徐々に職場内での人間関係に苦しむようになっていた。


 中村は誠実で責任感の強い性格から、異常行動の原因究明に熱心に取り組んでいた。しかし、その姿勢が周囲の職員、特に他のヘルパーたちとの間に溝を生むこととなった。


 蜂須賀蛍、赤澤龍子、折原拓也、西澤映の4人は、それぞれの立場や経験を活かして業務をこなしていたが、いずれも中村とは異なる考えを持っていた。彼らは、中村の調査活動や、入居者に対する過度な気配りが、自分たちの仕事の負担を増やしていると感じていた。


 特に、蜂須賀蛍は施設内で長年勤務しており、他の職員から一目置かれる存在だった。彼女は、業務を効率的にこなすことが最優先であると考えており、中村の姿勢が「甘さ」として映っていた。


「中村さん、あなたがそんなに一人で頑張っても、誰も感謝なんてしないわよ。無駄なことはやめて、業務に集中しなさい」


 蜂須賀は冷たく忠告し、他のヘルパーたちも彼女に同調した。赤澤龍子は、若手ながら自信家であり、中村に対して「無駄な努力」を繰り返していると公然と非難した。


「あなたが勝手に調査を進めているせいで、私たちの仕事が増えているのよ。もっと現実を見なさい」


 折原拓也は、その不満を表に出すことは少なかったが、影で他の職員たちと中村を皮肉る言葉を交わしていた。また、西澤映も業務の忙しさを理由に中村を責め、さらに彼の行動を疎ましく感じるようになっていた。


 次第に中村は孤立していった。彼の意見や提案は、他のヘルパーたちから無視されるか、揶揄の対象となるようになった。業務上の意思疎通も滞りがちになり、何をしても冷たく扱われる日々が続いた。


 中村は業務に集中しようと努めたが、心の奥底には次第に無力感と苛立ちが募っていった。入居者のために最善を尽くしたいという思いと、同僚からの冷遇の狭間で、彼は次第に疲弊していった。


 ある日の昼休み、職員用の休憩室で中村が一人で食事をしていると、蜂須賀たちが入ってきた。彼らは一瞥もせず、あたかも中村が存在しないかのように会話を始めた。


「最近、仕事が遅い人がいるせいで、こっちがどれだけ迷惑してるか…」赤澤がわざとらしく声を上げた。


「ほんと、無駄なことばっかりやってる人がいるから困るよね」折原がそれに続け、西澤は笑みを浮かべながら頷いた。


 その言葉が中村の心に深く突き刺さった。彼は食事を終えることなく、休憩室を後にした。


 それでも、中村は自分の信念を曲げることはなかった。彼は自らの力で真実を明らかにし、施設内の異常行動の原因を究明することを決意した。彼にとって、この施設に住む高齢者たちの安全と幸福が何よりも優先されるべきだった。


 夜になると、中村は再び監視カメラの映像を確認し、さらに施設の歴史について調査を続けた。彼は、自分が孤立し、周囲から疎まれていることを痛感していたが、それでも手を止めることはなかった。


 その過程で、中村はかつてこの地に存在した集落の詳細を知ることになる。過去に起きた悲劇は、単なる事故や災害ではなく、もっと深い闇が隠されていることを示唆していた。


 しかし、その闇に近づくにつれて、中村はさらに困難な状況に直面することになる。彼が追い求める真実は、単なる歴史の一部ではなく、今もなお生き続け、施設内の人々に影響を与えているのかもしれない。


 中村は、己の使命感と、同僚たちからのパワーハラスメントとの間で葛藤しながらも、ついに施設内で起きている異常事態の核心に迫りつつあった。そして、その核心には、誰も予想し得ない衝撃的な事実が隠されていた。

 

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