⭐︎Batter(四番打者)

 1

 九回裏二死ツーアウト満塁、追う点差は三点。

 俺に打順が巡ってきたのは、そんなヒリつく場面だった。電光掲示板に、俺の顔がデカデカと表示される。歓声に押し出され、わざと歩みをゆっくりにして打席へ向かう。敵投手と目が合った。俺を鋭く睨み、しきりに帽子を触っている。

 一打逆転の絶好機チャンスで登場した、本塁打王の姿に、自陣だけでなく敵陣の応援席でも、熱が高まっていく。鮮烈な逆転劇への期待は、熱気となって球場全体に充満すると、グラウンドに引かれた白線を猛スピードで辿り、打席に凝縮された。


 熱を溜め込んで爆発寸前となった打席に立ち、俺はバットを高く構える。


 2

 一球目は大きく振り遅れた。ストライクゾーンギリギリ、内角高めを攻めた速球に反応が遅れる。良い球だった。新人ルーキーとは思えない。電光掲示板が、本日の最高速を示していた。敵投手がニヤリと笑う。生意気だな。

 敵投手を讃えるように、スコアボードに光が一つ灯った。

 

 敵投手は好調だったが、俺が振り遅れた原因はそれだけではなかった。スイングに雑念が混じっていた。明らかに集中し切れていない。

 は、本気なのだろうか。素振りをし、昨日の電話に思いを馳せる。

 

 3

【回想】

「病院からです」


 そう言われて、マネージャーから電話を受け取った。耳を当てると、少年と思われる声がした。


「僕、手術を受ける勇気が出なくて……」


 ふっと、顔が綻んだ。こういう電話は時折きた。勇気を出す最後の一押ひとおしが欲しい。その一押しを俺のプレーに求めている。少年時代に憧れていたスーパースターになれた気がして、誇らしかった。


「不安だよな。

 でも大丈夫さ、絶対治る!

 じゃあこういうのはどうだい?

 明日の試合、おじさんはホームランを打つよ、君のために。約束さ。

 そしたら、君も勇気が出るかな?」


 電話口の吐息だけで、少年に希望が宿っていくのが伝わった。俺は目を閉じて、うんうん頷き、少年の返事に耳を澄ませた。


「ありがとう!

 絶対にホームラン打ってね!

 そしたら、僕も受ける!空を飛べるようになるんだ!

 約束だよ!」ガチャッ


「へ????」


 予期せぬ言葉に、受話器が手から滑り落ちた。俺だけが、混乱の渦の中へと取り残された。

【回想〆】


 4

 改造手術とは一体なんだろう。

 脇を締め、バットを、ぐぐぐ、と引きながら考える。


『空を飛べるようになるんだ!』


 少年は、そう言っていた。

 天使のように翼でも生やすのだろうか。あるいは、もっと機械的な、ジェットエンジン的なものを搭載するのかもしれない。

 そういった改造手術を、俺はこれまで聞いたことがなかった。自分の打球次第で、この世界に改造飛行少年が誕生してしまうかもしれない。責任重大すぎる。

 突如として背負わされた責任が重圧となり、本日の打席では、いずれも本領を発揮できていなかった。


 視線の先では、敵投手がすでに振りかぶっている。気持ちを切り替える暇もない。慌ててバットを握り直す。硬球が、脱力したフォームで、敵投手の指先から放たれる。


 二球目は、初球とは一変し、速度を抑えた変化球だった。緩やかに落ちていく球に、タイミングを外される。なんとか喰らい付こうと踏ん張るが、気持ちとは裏腹に、フォームを完全に崩された身体は言うことを聞かない。バットは硬球の遥か上で空を切り、その勢いに引き摺られるように、俺は無様な尻餅をついた。

 グラウンドの土に塗れて汚れる俺とは対照的に、電光掲示板に煌々と灯りがともった。


 ツーストライク。

 球場から、俺への熱が引き始めていた。


 5

 タイムをとり、ほどけた靴紐を結び直す。観客の落胆した空気が層となり、重くのしかかっていた。焦りから、靴紐を結ぶのに、やけに手こずる。思考が錯綜し、なぜか昔のことを思い出していた。

 すっかり忘れていた記憶が糸となり、靴紐を触る手つきに合わせて、手繰り寄せられる。


【回想】

 目の前には、小学六年生の俺がいた。薄暗い公園で、ひたすら素振りをしている。バットを振る度に、顔から汗と、涙が飛んでいた。

 ああ、そうか。あのときか。一軍から外れ、補欠のままで夏の大会を終えた、当時の自分がいた。

 悔しさを振り払うように、遮二無二バットを振っている。

 野球が好きだった。プロになりたい。憧れのスーパースターになりたい。その夢は変わっていなかった。

 だが、両親は違った。


「今から補欠じゃ、プロは厳しいんじゃないか」


「中学からは勉強も頑張らないとね」


 優しい両親は、俺に気遣いながらも、現実を諭してきた。

 やはり、無理なのだろうか。

 自分を応援してくれる味方が誰もいない。孤独を感じていた。気を紛らわそうと、バットを振った。


「坊主、良いスイングだな!」


 突然、不審者に声を掛けられた。年齢は四十歳前後だろうか、無造作の髪に、半笑いの男が立っていた。男が近づき、小学生の俺が後退あとずさりする。

 男は構わず、話しかけた。


「坊主、プロになるのか?」


「うん…ううん、僕は補欠だから」


 小学生の俺が、言い淀んで答える。両親の顔が浮かぶのか、表情に迷いがあった。


「なんで!絶対プロになれるさ、おじさんが応援してるよ」


 男が大きく声を張り上げた。

 小学生の俺の顔が、パァッと輝いていく。

【回想〆】


 審判から急かされ、試合中だったことを思い出す。

 靴紐は、決意を示すように、固く結び直されていた。


 6

 三球目は、硬球の下を掠り、ファウルとなった。三振を期待したであろう、敵投手から舌打ちが漏れた。

 バットを構え直す。

 今思えば、あの不審者はただの酔っ払いだったのだろう。手にはワンカップの安酒が握られていた。小学生の俺を無責任に応援したことも、きっと翌日には忘れているはずだ。

 だが、それで良かった。

 誰かが応援してくれている。それだけで勇気をもらえた。結果的にプロの夢を諦めていたとしても、あのときの心強さを忘れることはないだろう。

 

 四球目もファウル。鋭く弾いた打球は、白線を僅かに逸れた。観客の熱が戻り始める。

 飛行少年もきっと同じではないだろうか。未知の挑戦を、反対されたろう。応援してくれる誰かを心から求めている筈だ。

 だったら、俺が──。


 五球目。敵投手が豪快に振りかぶり、投げた。放たれた硬球は暴風を纏い、恐怖すら覚える速度となって、俺に襲いかかる。


 だったら、俺が応援する。

 野球は、"繋ぐ"球技だ。

 前の打者が、観客が、希望を"繋いで"くれたおかげで、俺はこの打席に立てている。

 少年の元へと、球場中の熱と希望と応援を"繋げ"よう。俺のホームランで。

 無事に飛行少年が誕生したら。その先は全く考えていなかった。無責任だろうか。だが、それでいいと思った。

 体重を後脚へ移し、力を溜める。後脚が一本の軸を形成する。深く刺さったスパイクを通して、地面から熱が伝導する。反動で、前脚が上がる。

 腰が回転し、熱を上へ上へと、押し上げる。

 豪速球が間近に迫っていた。だが、問題ない。回転する縫い目の一本一本まで視認できた。

 スライダー気味に回転する硬球が必死に外へと逃げていく。

 逃すものか。スイングに合わせ、畳んだ肘を解放する。バットが伸びる。前脚を強く踏み込んだ。

 硬球を、バットが、真芯で捉えた。


 7

 打球はライナー気味の軌道から、加速度的に上昇する。

 行け。行け。

 熱と希望と応援を溢れんばかりに乗せた打球は、重力に逆らい、勢いを増し続ける。ついには球場の殻を打ち破り、場外へ、少年の元へと駆けていった。


 耳が破裂するほどの大歓声の中、遠くの空で、硬球を掲げる少年が見えた気がした。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る