二度寝と白昼夢
真狩海斗
⭐︎Angel(天使)
1
気温が三十五度を超えると、蚊も飛ばないらしい。久しぶりにみた蚊は、
八月に入り、連日更新される最高気温に「猛暑日」は形骸化し、異常気象は日常となっていた。人間の脳にとって最適な気温は、二十二から二十四度だという。最適を遙かに超えた気温は、脳味噌を底から茹だらせる。
世界が狂って見えるのは、俺の脳の異変か、それとも世界が本当に狂ってしまったからなのか。
窓枠で切り取られた世界の中で、活動を停止した蚊に代わり、"天使"が空を舞っていた。
2
天使が初めて確認されたのは、今年の初めのことだった。
その日、新宿の雑居ビルで大規模な火災が発生した。テレビは片時も目を離さず、その動向を熱心に中継し続けた。犠牲者が発表されるたびに、扇情的なテロップとともに悲劇を伝えた。
懸命の消火活動は深夜まで及び、現場のリポーターの表情にも疲れが現れていた。スタジオからの問いかけを、二度、聞き逃した。誤魔化すように、犠牲者を悼む表情を慌てて取り繕った。
カメラが天使を捉えたのは、そのときだった。
炎が昇り続ける雑居ビル東側四階の窓に、白く輝く人影が飛来した。
テレビ画面に映るそれは、殆ど点のように小さかったのに。何故だろう。
頭部の光の輪も、背中に生えた翼も、美しい容貌も、はっきりと視認することができた。人間の深層心理に刻まれた、原始の奇蹟体験が呼び起こされていた。誰もが、その存在を、天使だと確信していた。
ああ、天使だ。天使が魂を
火災の最終的な犠牲者は二十六名。未曾有の大惨事ではあったが、天使の出現を前にして、そのような些事を気にする者は、何処にもいなかった。
その日を境に、天使は市街の至るところで確認されるようになった。
側溝に挟まり、力尽きた徘徊老人。
交通事故に巻き込まれた児童。
逆恨みの末に刺された若者。
死を間近に控えたあらゆる人々のもとに、天使は平等に訪れ、最期を看取った。
反応は様々だった。マスコミは騒ぎ立て、役所職員は対応に奔走し、専門家は議論に紛糾した。宗教関係者は、これを機に躍進する者と衰退する者とに二分した。
天使の登場は、巷の人々の心にも静かな変化をもたらしていた。
最期には、必ず天使が迎えに来てくれる。
「祝福」に来てくれる。独りじゃない。
それは一種の救いとなり、天使を見ると「祈り」を捧げる習慣が根付くようになった。
3
窓から視線を外し、財布を拡げて思案する。ワンルームの部屋の中は息が詰まるような暑さで、首を傾けると大粒の汗がボタリと落ちた。冷えた酒とアイスでも買いに行こう。度数が高いやつがいい。一週間前に、電柱にもたれて死んでいた若者からくすねた財布には、皺のついた五千円札が一枚と、千円札が三枚残っていた。ふと、札を数える指先に、先ほどの蚊の脚が二本付着していることに気づく。
(コンビニに行くなら、わたしは酎ハイが良い)
脳内で声が響いた。音としては、虫の羽音に近いのに、不思議と意味は理解できる。部屋の隅、クローゼットの傍に視線を向けると、天使がいた。
透き通るような白い肌に、吸い込まれそうなほどに大きな瞳。あまりの美しさに、何度見ても息を呑む。尋常のものではない美貌は、それだけで彼女が人外であることを理解させた。
だが、少し衰弱しただろうか。頭の光の輪は頻繁に点滅し、足元には白い羽根が埃と一体となって落ちていた。美しさは一切損なわれていないが、その目は深い絶望に沈んでいた。
首に嵌められた鋼鉄の首輪は、痛々しいまでに彼女を縛り、幾度も破壊を試みたのだろう、彼女の指には血が滲んでいた。
一週間前、彼女が電柱で死体に覆い被さり、「祝福」しているところを、俺が捕獲した。周囲を見渡し、「祈り」を捧げるものがいないことを確認すると、背後から近づいて、改造スタンガンを押し当てた。錯乱した彼女の翼が激しくばたつき、やがて不規則な痙攣へと収束したのを覚えている。
もう一週間が経つのか。ずっと風呂に入れていないため、
「天使の癖に、『拾った財布は交番に届けましょう!』とか言わないんだな」
軽口を叩き、ウェットティッシュを数枚抜き取った。天使の肢体を拭いてやる。ウェットティッシュはすぐに黒ずみ、どこか黄色みを帯びていった。
(天使だからって、善良で優等生なわけではないから)
脳に直接返事がきた。人間に身体を拭かれることが屈辱なのだろう。目線を虚ろに逸らし、噛んだ唇からは血が滴っていた。
「たしかにな」
ウェットティッシュを放り捨て、天使の黒髪を撫でてやる。綺麗に揃えられたショートボブは、天使の幼くも大人びた容貌を完璧に引き立たせていた。髪はその一本一本が艶だち、指を絡めると、魔法のようにするりと
乱暴に撫で回してやったところ、不機嫌に睨まれる。まだそんな気力が残っていたか。下腹部にゾクゾクとした、薄暗い興奮が芽生える。天使の反応に、陰部が隆起し、脈を打つ。
ご褒美を与えてやりたくなった。俺はカッターナイフを手に取り、ちきちきちき、と刃を伸ばす。刃の先には、黒くなった血液が固着していた。天使の瞳に輝きが戻り始める。俺はカッターナイフを自らの左手首に添え、無数の線が刻まれたその肌に、新たに赤い線を一本引いた。
4
自傷行為によって「死」に一歩近づいた俺を、天使が勢いよく押し倒す。首輪を繋ぐ鎖が限界まで引っ張られ、せがむように金属音を立てていた。
『天使だからって、善良で優等生なわけではない』
彼女の言葉が
天使を有り難がるもの、天使を崇めるもの、天使に「祈り」を捧げるものは、きっと知らないのだろう。
死者を迎える天使がどんな顔をしているのか。
俺の眼前で、俺を「祝福」する天使の頬は紅潮し、間近に迫る「死」の気配に蕩けていた。
興奮した天使の翼が大きくはためき、テレビが倒れた。魂の離脱に必死で抗いながら、俺は天使と唇を重ねる。快楽を肉体と魂の両方で味わい、身震いする。
天使が、俺の指を口に含んだ。涎を垂らし、子猫のように小さな舌でねっとりと舐め回す。お返しに、俺は彼女の柔らかい部分へ指を滑らせる。脳内に彼女の嬌声が直接響く。脳髄に電流が走った。
漠然と思った。これほどに「死」を求め、悦ぶ
天使が得意げに舌を見せる。指に付着していた蚊の脚は、舐め取られ、消え失せていた。その瞬間、かつての世界が永劫に
蚊はいつから死骸だったのだろう。天使が出現したときだろうか。それとも、とっくの昔から、ずっと死んでいたのだろうか。
点けっぱなしのテレビが、どこかの国で戦争が始まったと報じていた。
窓の外に目をやる。夕焼けに染まった真っ赤な空を、天使の群れが黒い塊となって覆い尽くし、何処かへ向かって飛んでいった。
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