⭐︎Dragon(龍の弟と、鱗を剝ぐ姉)
1
私の膝枕のうえで、幼い弟が寝息を立てている。すー、すーの音色が、心地よい振動となり、私の鼓膜を震わせた。
ベランダに吹き込んだ風により、弟の細い髪がふわりと靡き、陽だまりのなかで黄金色に輝いた。
人差し指で、二の腕を軽くつつく。ぷくりと膨らんだ二の腕は、指を柔らかく包み込むと、ゆっくりと弾き返した。弾力のままに指を滑らせ、二の腕から手首までをなぞるように味わう。
まだ丸みを帯びる肌を堪能した先には、他人を拒絶するように、硬く尖った鱗が生えていた。
私は軋む音を立てる
2
切り離された鱗は、空中で半回転して落下すると、床と反発し、互いに共鳴して揺れる。
髪や爪と同様、鱗には痛覚がないらしい。むにゃむにゃと眠りこける小学二年生の体温は高く、彼の頬を介して、私の腿がじんわりと熱を持ち始める。
床に刺さった鱗を拾い、眺めた。澄んだ夜空を想わせる蒼い紫は、光に照らされ、オーロラのように煌めいた。
母は「気味が悪い」と吐き捨てたが、私は違った。宝石のよう、いや、宝石以上に美しいとさえ感じていた。
今日はこれにしよう。綺麗な鱗を選別し、密かに空き缶の"宝箱"にしまう。母から"鱗剥ぎ"を命じられて以来、密かな習慣となっていた。
窓を挟んで、部屋の奥から、布団が擦れる音がした。続けて、肉と肉が激しくぶつかる音が響く。カーテンの向こうで、母が知らない男に抱かれていた。
母の
黒板を引っ掻くように、脳の敏感な部分に爪を立てると、蓋をした記憶を抉り出した。
3
【回想】
◇
弟が生まれた頃、私は五歳だった。
その頃から母は見知らぬ男との性交を繰り返しており、鱗の生えた弟もまた、何処の誰との子なのかわからなかった。
それが引き金だったのだろう、母と、当時まだ家にいた父は、日常的に罵り合っていた。
よく雷が轟いていた記憶がある。
何もかもが恐ろしかった。
私は便所に避難し、生まれたばかりの弟をぎゅっと抱きしめた。
「だいじょうぶ。おねえちゃんがまもる」
そう鼓舞し、弟の手から生える一枚の鱗を撫でた。
◇
弟が一歳になる前後で、父は家を去った。
その当時の記憶は私から抜け落ちている。しかし、最近になって、泥酔した母が父への侮辱と罵倒を交えながら語ったことで、事情を理解した。
父は、鱗の生えた弟を憐れみ、各地の宗教団体に熱心に足を運んだそうだ。そして、ある高僧からお告げを受けた。
曰く、アレは人と龍の間の子だ、人に成るには「浴」で心身を清める必要がある、と。
信心深い父は、お告げに従い、
その金を、母が使った。
若い愛人と、酒と、賭博で溶かした。
「私が龍と寝ただぁ?本当に馬鹿だねぇ。
詐欺坊主に貢ぐより、私の方がよっぽど有意義に金を使えるさ。
お前もそう思うよな?お前は私に似ているから」
呂律の回らない口調で言い切ると、母は、おそらくは父にやったのと同じように、私に煙草を吹きかけ、歯垢の詰まった歯を見せながら、醜く嗤った。
【回想〆】
『お前は私に似ている』
母の言葉は理解できなかった。自己中心的で、欲を満たす考えしかない。そんな母に似ている自覚もなければ、似たくもなかった。
ただ、母が私に比較的優しかったのは、母に似ていたからか、と妙に納得した。
反対に、母が弟を嫌悪しているのは、鱗のせいで母と似ていないから。
それなら。
弟が人に成れば、弟にも優しくなる筈だ。
人に成れますように。そう願い、私は弟の白い頬に口づけをした。
4
窓を叩く音で振り向くと、下着姿の母が立っていた。ずり落ちてた肩紐を気にもせず、私に左手を向ける。
鱗を要求していた。
母は、私が拾い集めた鱗を無言で受け取ると、害虫でも見るように弟を一瞥し、男の元へと戻った。
弟の鱗は、ある頃から、わが家の貴重な収入源となっていた。
きっかけは、母が連れ込んだ男の中にいた、宝物商だ。下着を履こうとして屈んだ宝石商が、床に刺さる鱗を見つけた。そして、言った。
「美しい。買い取らせてくれ」と。
幻想的な鱗の噂は広がり、それを求めて、各地から人が集うようになっていた。
それを知った私の感情は三段階だった。
まず、鱗の美しさを理解するものが存在したことを喜んだ。
次に、私だけの特別でなくなることを寂しく思った。
最後に、弟の柔肌は独占できていることに至福を感じた。
男を見送った母の手に、真新しい札の束が握られていた。それはたしかに大金ではあったが、弟の価値には、まるで見合っていないと感じた。
5
弟で稼ぐようになり、母の金遣いは一層荒れた。朝から高い酒を浴び、窓から吐瀉物を溢していた。
鱗が少ない日には、弟に当たり散らした。
「化け物」と蔑み、蹴り飛ばして痣をつくる日もあった。
しかし、弟が
その奇妙な法則も後押しし、「質が落ちた」と買取を拒否されるまで、母は弟を虐め続けた。
母は、歪な鱗や濁った鱗の山に唾を吐くと、暴力を私に向けるようになった。
腹を蹴られ、私は便所で嘔吐する。
青痣の目立つ太腿をさすりながら、しかし、私は倒錯した悦びを感じていた。
弟を守れた。鱗の発芽を抑えることができた。
吐瀉物を手で拭い、抵抗する弟の腕を掴んだ。
人に成りますように。
そう祈り、鱗を切断する。
弟の叫びと呼応するように、豪雨が窓を叩いていた。
6
「騙された!」「殺してやる」「金だ!金」
深夜に帰宅した母が金切り声を上げた。
寝たふりする私の頬を踏み、弟を掴む。
「鱗を出せ!早く」
母の恫喝に、弟の顔が恐怖で歪み、両腕が鱗で覆われた。止める私に、母が激昂する。
「お前は女だからね。売れば金になるから大事に育ててきたが。アイツがいればもう十分だねえ」
私の頭部に、母が酒瓶を振り下ろした。痛みで揺らぐ視界を、頭から垂れる血が赤く染める。
「足りないねえ」
赤い世界で、割れた酒瓶を握った母が、弟に迫る。私が割り込む隙もなく、母は弟を、刺した。
弟の腹にどろりと、血が滲むのが見えた。続けて、鱗が侵蝕する。
倒れる寸前、弟は、笑っていた。
7
巨大な影が私を覆い、母の高笑いが止んだ。母の方を向く。
上半身を食い千切られた、仁王立ちの下半身だけが残っていた。
『流れの急な龍門という河を登りきった、試練に耐えた鯉は龍になる』
そんな伝説がある。
弟もまた、想像を絶する辛苦を、試練を耐え、完全な龍と成っていた。
あゝ美しい。
牙の並ぶ口を大きく拡げ、弟が咆哮する。咆哮に導かれるように、私が貯め込んだ鱗が"宝箱"を破壊して、弟の身体の、在るべき場所へと飛んだ。
弟は空中でその巨躯を激しくくねらせると、速度を上げ、窓を突き破る。粉々に割れた硝子は、暴風雨に掴まれ、壁に叩きつけられた。
弟が飛び出す寸前、私は、眼前を横切る、強靭な尾に手を伸ばした。
そこには、かつての温もりは微塵もなく、何物をも拒絶する、鋭い冷気だけが宿っていた。
鱗に触れた掌が裂け、血が滴る。痛みとともに、弟の本心が伝わり、脳を刺した。
(ヤット、成レタ)
人に成ることを願い、苦痛を横取りし、鱗を剥ぐ私は、弟には邪魔でしかなかったのだろうか。
『お前は私に似ている』
母の言葉を
私の正体を晒すように、血と臓物が母の死骸から溢れ、私の顔面をぼたぼたと覆う。赤黒く臭う世界のなかで、雷鳴と
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