⭐︎Dragon(龍の弟と、人の姉)

 1

 私の膝枕のうえで、幼い弟が寝息を立てている。安心しきった、スー、スーの音色が、心地よい振動となり、私の鼓膜を揺らした。

 弟の髪をそっと撫でる。細く、色素の薄い髪は、陽だまりのなかで黄金色に輝き、あらゆる存在を肯定するような眩しさを纏っていた。春の暖かな風が、弟の髪をふわりと靡かせる。

 人差し指を伸ばし、弟の二の腕を軽くつつく。半袖シャツからはみ出して、ぷくりと膨らんだ二の腕が、指を包み込み、ゆっくりと弾き返す。指を滑らせ、二の腕から手首までをなぞるように味わう。

 指が掌に辿り着く。私は五指を立て、くすぐるように、その表面を探索する。そこには、まだ丸みを帯びる肌とは対照的に、他人を拒絶するように硬く尖ったが生えていた。

 私は軋む音を立てる鋏を取り、鱗へあてがう。


 2

 パチン。軽快な音とともに、鱗がすべて切り離された。鱗は空中で半回転して落下すると、床と反発し、互いに共鳴するように揺れている。

 髪や爪と同様、鱗には痛覚がないらしい。弟はむにゃむにゃと寝言を呟き、寝返りを打った。眠りこける小学二年生の体温は高く、彼の頬を介して、私の腿がじんわりと熱を持ち始める。


 床に刺さっていた鱗を拾い、眺める。鱗の、深い紫は、澄んだ夜空を思わせた。その表面には幾千もの小さな気泡が浮かび、陽の光が差し込むと、星のように煌めく。

 母は「気味が悪い」と吐き捨てたが、私はそうは思わなかった。宝石のように、いや、宝石以上に美しいとすら感じていた。

 今日はこれにしよう。特に気に入った一枚を選び、ポケットにしまう。母から日課として"鱗剥ぎ"を命じられて以降、密かに綺麗な鱗を選別し、空き缶の宝箱へと貯め込んでいた。


 背後で、慌ただしい音が響く。誰かが、急かすように玄関で鍵を挿入していた。母が男を連れ込んでいるのだろう。扉越しなのに、なぜか安酒の臭いが鼻をついた。

「帰ってきた」と弟を揺する。

 眠い目をこする弟の手を引き、母と男に見つからないように部屋を出る支度をする。


 3

 いつもの公園で、弟がブランコに揺れている。

 前へ、後ろへ。振り子の反復は徐々に激しくなる。同調するように、私の意識も次第に過去へと移ろっていった。

 弟のブランコが一際大きく、後ろへ振れた。


【回想】

 ◇

 弟が生まれた頃、私はまだ三歳だった。母と、まだ家にいた父が、激しく罵り合っていたこと、そして、外で轟く雷が酷く怖かったことをよく憶えている。

 とにかく、すべてが恐ろしかった。

 私は、便所に避難すると、生まれたばかりの弟をぎゅっと抱きしめた。


「だいじょうぶだからね。おねえちゃんがまもるから」


 そう鼓舞し、弟の手から生える一枚の鱗を撫でた。


 ◇

 当時の母は、見境なく男を連れ込み、性行為を繰り返していた。

 鱗の生えた弟もまた、何処の誰との子どもなのか知れなかった。

 それでも、父は弟の鱗のため、医療機関から宗教法人に至るまで足を運び、ある高名な僧のお告げを受けた。

 曰く、アレは人と龍の間の子だ、人に成るには「浴」で心身を清める必要がある、と。

 父は貯金をはたき、両親に頭を下げ、高額な費用を準備した。


 その金を、母が使った。若い愛人に奢り、高価な装飾品を買い、賭博で溶かした。

 震える父に、母は煙草を吹きかけ、ヘラヘラと嗤った。


「龍の子?馬鹿か?そんな詐欺坊主に貢ぐより、私の方が有意義に使えるよ。

 騙された罰だね。次からは私に話を通しな」


 煙草を押し付けられ、黒く焦げた通帳には、無慈悲な"0"が刻まれていた。

 すぐ後に、父は家を去った。


【回想〆】


 笛の音が聴こえ、われに帰る。驚いた私を見て、弟が笑った。

 弟が困ったときのために、私があげた笛だ。

「この笛を鳴らしたら、お姉ちゃんが助けにくるからね」と。

 弟が再び大きく頬を膨らませ、笛を鳴らした。甲高い音が、夕方の公園に響く。

「はい、はい」と駆け寄り、弟を腕で包む。母は私に対して暴力を向けることはなかった。私の顔が母によく似ていたからだろうか。

 いつか、弟の鱗が消え、人に成れたら。母は弟も愛するようになるだろうか。

 その日を願い、弟を強く抱き締めた。


 4

 願いが届いたのか、母は弟に優しくなった。だが、弟の鱗が消えたわけではない。

 母が連れ込んだ男の中に、宝物商がいた。宝物商は落ちた鱗を見つけると、母に頼み込んだ。「美しい。買い取らせてくれ」と。


 その日から、弟は"金の卵を産むガチョウ"となった。私の宝箱はこじ開けられ、お気に入りの鱗はすべて売り払われた。上機嫌の母は、弟を褒め、父の悪口を吐き、私に向けてボソリとこぼした。


「お前は女だからね。売れば金になるから大事に育ててきたが。アイツがいればもう十分だねえ」


 5

 弟で稼げるようになると、母の金遣いは以前にもまして荒くなった。味もわからないのに、高い酒を朝から浴び、吐瀉物を道に落とすようになっていた。

 必然、求める鱗の数も増えた。鱗が少ない日は、母は弟を怒鳴りつけた。蹴り飛ばし、痣を刻むようになった。

 しかし、どういうわけか。弟が苦しむと鱗の数は決まって多くなった。法則に気づいた母は高く笑い、弟を踏みつけた。


 弟の左腕全体に、鱗が発現していた。私は、それを鋏で切り落とす。

 弟の手に、私があげた笛が握られていた。どこかで私に助けを求めて鳴らし、母の癪に触ったのだろう。笛は無惨に壊されていた。

 泣き叫ぶ弟の心を映し出すように、豪雨が窓を叩いていた。


 6

 母は弟への虐待をやめた。無論、慈愛に目覚めたわけではない。「質が落ちた」と宝物商から買取拒否されたためだ。虐待後の鱗は、歪な形や、濁った色が多かった。

 弟が苦しみさえすれば、鱗は増える。母は標的を私に変えた。


 鏡に映る、腫れ上がった自分の顔を見て、母の言葉を思い出した。


『アイツがいればもう十分だねえ』


 思ってはいけない言葉を、胃液ともに飲み込んだ。


 7

「騙された!」「殺してやる」「金だ!金」

 深夜に帰宅した母が金切り声を上げる。半狂乱で皿を割り、カーテンを裂いた。

 寝たふりする私の腹を蹴り、弟を掴んだ。


「鱗を出せ!早く」


 両頬を何度も拳で打たれた。

 すぐに弟の顔が苦悶に歪み、両腕を鱗が覆う。


「まだ足りないねえ」


 母の手で、包丁が光る。震える足で逃げる私の髪を掴み、母が。

 熱。激痛。左の眼窩で灼熱が迸る。無数の神経が絶たれる。暗闇。左眼を潰された。不能となった眼球が、血の濁流で溺れる。鼓膜に、母の高笑いが響く。

 直後、巨大な影が私を覆い、静寂が訪れた。右眼を動かし、母の姿を確認する。

 上半身は喰い千切られ、仁王立ちの半身から血と臓物をボタボタと落としていた。

 

「流れの急な龍門という河を登りきった、試練に耐えた鯉はになる」。そんな伝説がある。

 弟もまた、想像を絶する辛苦を耐えた。

 私は弟を愛し、人に成ることを願ったが、皮肉にも、弟に苦痛を与えるための最大の餌となっていた。


 私が願ったせいで。


 弟は完全な龍と成った。


 8

 弟が啼いた。巨躯を激しく左右にくねらせると、勢いよく宙を這い、頭から窓へと突進した。粉々に割れた窓硝子が、暴風雨とともに、壁に叩きつけられる。

 弟が飛び出す寸前、私は、眼前を横切る、長く太い尾に手を伸ばした。

 そこには、かつての柔らかさや温もりは微塵もなく、あらゆるものを拒絶する、硬く尖った冷気だけが宿っていた。

 鱗に触れた掌が裂け、血が滴る。


 砕け散った窓の外では、轟き続ける雷鳴と吹き荒ぶ狂飆が夜の空を蹂躙し、その中で、壊れた笛の音が、細く鳴いていた。





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二度寝と白昼夢 真狩海斗 @nejimaga

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