2、 神話と初恋

 フリッカ・コロンナの人生を振り返る最初の場面には、狭い部屋の中いっぱいに積まれた本の山が映る。


 本棚に収まりきらなくなった古今東西の本はフリッカの父、ステファーノ・コロンナの蔵書だった。


 ステファーノはバナヘイムの軍人だったが、一人娘のフリッカが15歳になったときに「飽きた」と言って軍を退役。

 その後研究者になった。


 物心つく前から父の書物を読み漁っていたフリッカは、父と同じ研究者の道を志すようになる。

 母親は父の浪費に耐えきれなくなって家を出て行った。


 家計は火の車だったが、それでも父はいつも笑顔で娘に勉強を教えた。



「知らないことを知る。たまらないね。学問というのは最高の暇つぶしだよ」



 ステファーノの研究分野は宗教学、神話学だった。


 フリッカはよく、父親に創世神話を読んでほしいとせがんだ。




 ◆


 ずっとずっと古い時代。


 世界には陸も海もなく、たった1本の大木――“世界樹”のみがあった。


 世界樹の上で生まれた生き物は、世界樹の実りを食べて成長した。

 しかし、増え続けた生き物によって過剰な栄養を吸い取られた世界樹は枯れてしまう。


 世界樹が朽ち、実を得られなくなった生き物たちも次々に死んでいった。

 この生き物たちのからだが大陸をつくり、生き物たちの血が海をつくった。


 朽ちた世界樹は深い深い底へと沈んでいった。

 これが、大陸中央に開いた巨大な穴――“堕ちた森”である。



 枯れる前の世界樹が最後に生み出したのが人間だった。


 人間は長い年月をかけ、堕ちた森の周囲に国家を作った。



 ◆



「人間って樹から生まれたの?」

「そう言われているね。でも、嘘だろうね」


 ステファーノは楽しそうに笑って神話を全否定する。

 フリッカはびっくりした。


「世界樹が本当にあったかどうかは知らないけれど、樹から人間が生まれるわけがないよ。少なくともパパが調べている限りそんな痕跡はないね」


 証拠を集め、自分が見聞きしたことでしか物事を論じないステファーノの考え方はフリッカにも受け継がれた。

 フリッカは驚きの早さで知識を吸収していった。


  バナヘイム大学に入学するころには、9つの古代語を読み解き、国交が制限されている隣国に潜入して遺跡を調べ上げ、さらに借金をして地層を掘り起こした。


 当時バナヘイムに留学していたゲオルグにも遺跡調査を手伝ってもらい、世界創生神話と各地の文明とのつながりを解き明かしたフリッカは、大学卒業直前に『偽りの創世神話』という論文を書き上げた。


 これがバナヘイムにある出版社の目に留まり「歴史を塗り替えることになる快挙だ」という社長の一声で、初版から大陸全土に頒布されることになる。


 「樹から人間が生まれるわけがない」というパパの発言の真偽が知りたい。

 そう思って長い年月をかけて証拠を積み上げたそれはフリッカの傑作と言ってもよかった。



 ―――この論文が、彼女の運命を大きく変えていくことになる。





 そんな真面目な話の裏で、もうひとつ切実な事情が進行していた。


 フリッカは、モテなくなっていたのである。


 ブーゲンビリアの花に似た鮮やかなピンク。それがフリッカの目と髪色の特徴だ。

 母親譲りの可愛らしい色をした髪をポニーテールでまとめ、小動物のように小さい顔に小さな丸眼鏡をかけている。


 容姿は人形のように可愛いのだが、天才の異名が広まるにつれて皆がフリッカを敬遠するようになった。


「凡人には私の魅力が分からないんでしょうね」


 本人は強がって見るものの、奇人と言われたフリッカも、誰かと結ばれるかもしれない未来に思いを馳せることはあった。

 だから、このまま結婚できないかもしれないと思ったとき、フリッカは少しだけ寂しさを覚えた。


 なんとなく恥ずかしかったので誰にも言わずにもじもじしていたのだが、思いあぐねたある日、フリッカは一度だけゲオルグに相談したことがある。



「俺は今のままでいいと思うが」


「え?」


 ゲオルグはそっけなく返した。



「勉学に励んで論文を書く君が一番魅力的だ」



 彼女はこの一言で恋に落ちた。



 大学に行けば目つきの悪いクセっ毛男を探し、勉学のやる気もさらに充実した。論文の執筆速度も上がった。


 彼女はその充実の理由に気付いていなかったが、いずれにせよフリッカ・コロンナの毎日は輝かしいほど色彩に満ちていたのである。

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