1、

 フリッカ・コロンナの人生を振り返る最初の場面には、狭い部屋の中いっぱいに積まれた本の山が映る。


 本棚に収まりきらなくなった古今東西の本はフリッカの父、ステファーノ・コロンナの蔵書だった。


 ステファーノはバナヘイムの軍人だったが、一人娘のフリッカが15歳になったときに「飽きた」と言って軍を退役。その後研究者になった。


 物心つく前から父の書物を読み漁っていたフリッカは、父と同じ研究者の道を志すようになる。

 母親は父の浪費に耐えきれなくなって家を出て行った。

 家計は火の車だったが、それでも父はいつも笑顔で娘に勉強を教えた。



「知らないことを知る。たまらないね。学問というのは最高の暇つぶしだよ」



 ステファーノの研究分野は宗教学、神話学だった。


 だからフリッカはよく、父親に創世神話を読んでほしいとせがんだ。





 ◆



 ずっとずっと古い時代。


 世界には陸も海もなく、たった1本の大木――“世界樹”のみがあった。


 世界樹の上で生まれた生き物は、世界樹の実りを食べて成長した。

 しかし、増え続けた生き物によって過剰な栄養を吸い取られた世界樹は枯れてしまう。


 世界樹が朽ち、実を得られなくなった生き物たちも次々に死んでいった。

 この生き物たちのからだが大陸をつくり、生き物たちの血が海をつくった。


 朽ちた世界樹は深い深い底へと沈んでいった。

 これが、大陸中央に開いた巨大な穴――“堕ちた森”である。


 枯れる前の世界樹が最後に生み出したのが人間だった。


 人間は長い年月をかけ、堕ちた森の周囲に国家を作った。



 ◆




「人間って樹から生まれたの?」

「そう言われているね。でも、嘘だろうね」


 ステファーノは楽しそうに笑って神話を全否定する。

 フリッカはびっくりした。


「世界樹が本当にあったかどうかは知らないけれど、樹から人間が生まれるわけがないよ。少なくともパパが調べている限りそんな痕跡はないね」


 証拠を集め、自分が見聞きしたことでしか物事を論じないステファーノの考え方はフリッカにも受け継がれる。


 フリッカは驚きの早さで知識を吸収していった。


 バナヘイム大学に入学するころには、9つの古代語を読み解き、国交が制限されている隣国に潜入して遺跡を調べ上げ、さらに借金をして地層を掘り起こした。


 当時バナヘイムに留学していたゲオルグにも遺跡調査を手伝ってもらい、世界創生神話と各地の文明とのつながりを解き明かしたフリッカは、大学卒業直前に『偽りの創世神話』という論文を書き上げた。


これがバナヘイムにある出版社の目に留まり「歴史を塗り替えることになる快挙だ」という社長の一声で、初版から大陸全土に頒布されることになる。


 「樹から人間が生まれるわけがない」というパパの発言の真偽が知りたい。

 そう思って長い年月をかけて証拠を積み上げたそれはフリッカの傑作と言ってもよかった。




 ―――この論文が、彼女の運命を大きく変えていくことになる。




 一方で、フリッカはモテなくなった。



 ブーゲンビリアの花に似た鮮やかなピンク。それがフリッカの目と髪色の特徴だ。

 母親譲りの可愛らしい色をした髪をポニーテールでまとめ、小動物のように小さい顔に小さな丸眼鏡をかけている。


 容姿は人形のように可愛いのだが、天才の異名が広まるにつれて皆がフリッカを敬遠するようになった。


「凡人には私の魅力が分からないんでしょうね」


 遠ざけられた原因にはフリッカの性格の悪さもあったが本人は気付いていない。


 ただ、このまま結婚できないかもしれないと思ったとき、フリッカは少しだけ寂しさを覚えた。なんとなく恥ずかしかったので誰にも言ったことはなかったのである。






 ◇





 最終チェックを終えたばかりの論文を封筒に入れ、私はバナヘイムの街中を走っていた。


 先を急ぐ私の前に、見覚えのある男が立っている。


 細長い体躯。ボサボサの髪の毛と無精髭。うだつの上がらない体裁。

 ゲオルグだ。


「フリッカ」

「あら、ゲオルグ! 相変わらずひどい髪の毛ね。髭は毎朝剃ったほうがいいって前にも言わなかった? 警備兵に連れていかれそうな風貌よ」

「ああ……次から気を付ける」


 こんなモサモサな外見をしていて貴族と言われても誰も信じないだろうな、と毎回思っている。


 ただ、頬にかかる髪をかきあげた彼の仕草は嫌いではない。というか見ていて少しドキドキする。

 ちょっと気だるげなこの感じ。もしかして大人の色気ってやつかな……。

 いやいや、彼に限ってそれはない。単にだらしないだけ。


「ところで何の用?」

「……その、良ければ今日、デートをしないか」


 モサモサの口からデートという単語が出てくるとは思わなかったので一瞬言葉を失う。


 クセの強い髪の下に隠れる猛禽類のような瞳が戸惑うように揺れている。

 普段言動に迷いがないゲオルグにしては珍しい。


 もしかして、この人……緊張してるの?

 傲岸不遜が服着て歩いているような男が? 帝国貴族が?


 プロポーズされたのは数日前だ。

 

 「いや物事には順序ってもんがあるでしょうよ」とジト目になった私にゲオルグはたじろいでいたが、彼の考えた末の行動がこれなのだろう。


 思わず頬が熱くなる。


「う、嬉しいお誘いだけど、 私はこれから出版社に行かなきゃいけないの」

「そうか。君の論文が本になるのが待ち遠しいな」

「ありがとう……」

「では、その前祝いも兼ねて夜に食事はどうだ」



 人生初のプロポーズ。

 人生初、異性に誘われた食事。



 私ははにかんだ。


「……うん。夜なら、いいよ」








 彼との会話はそれが最期になった。









 これまでに感じたことのない心の浮つきを自覚しながら街路を走っていると、突如その人影は現れた。


 黒い外套を羽織った、背丈が異様に高い男。

 手に持っているのは断頭台の刃に似た幅広の剣。


 まるでお伽話の中から出てきたような不気味な男だった。


「お前が」


 男の声はひび割れていて不快な響きを伴っていた。


「世界の真実を暴いた女か」


 そうして男が私の目の前に飛び出し、剣を振り上げたところで――世界は暗転した。

 フリッカ・コロンナとしての私の記憶はそこで途切れている。





 それでも、最期の瞬間に強く願ったことだけは覚えている。





 助けて、ゲオルグ。


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