1、
最終チェックを終えたばかりの論文を封筒に入れ、私はバナヘイムの街中を走っていた。
今日は出版社の社長とのアポイントメントがあるから、遅れるわけにはいかない。
先を急ぐ私の前に、見覚えのある男が立っていた。
「お?」
細長い体躯。肩まで伸びたボサボサの髪の毛と無精髭。うだつの上がらない体裁。
ゲオルグだ。
「フリッカ」
「あら、ゲオルグ! 相変わらずひどい髪の毛ね。髭は毎朝剃ったほうがいいって前にも言わなかった? 警備兵に連れていかれそうな風貌よ」
「ああ……次から気を付ける」
あまりにもひどい風体だったので気持ち程度の指摘をしてあげた。
こんなモサモサな外見をしていて貴族と言われても誰も信じないだろうな、と毎回思っている。
ただ、頬にかかる髪をかきあげた彼の仕草は嫌いではない。というか見ていて少しドキドキする。
ちょっと気だるげなこの感じ。
もしかして大人の色気ってやつかな……。
いやいや、彼に限ってそれはない。単にだらしないだけ。
「ところで何の用?」
「……その、良ければ今日、デートをしないか」
モサモサの口からデートという単語が出てくるとは思わなかったので一瞬言葉を失う。
クセの強い髪の下に隠れる猛禽類のような瞳が戸惑うように揺れている。
普段言動に迷いがないゲオルグにしては珍しい。
もしかして、この人……緊張してるの?
傲岸不遜が服着て歩いているような男が? 帝国貴族が?
プロポーズされたのは数日前。
「いや物事には順序ってもんがあるでしょうよ」とジト目になった私にゲオルグはたじろいでいたが、彼の考えた末の行動がこれなのだろう。
思わず頬が熱くなる。
「う、嬉しいお誘いだけど、 私はこれから出版社に行かなきゃいけないの」
「そうか。君の論文が本になるのが待ち遠しいな」
「ありがとう……」
「では、その前祝いも兼ねて夜に食事はどうだ」
人生初のプロポーズ。
人生初、異性に誘われた食事。
私ははにかんだ。
「……うん。夜なら、いいよ」
彼との会話はそれが最期になった。
これまでに感じたことのない心の浮つきを自覚しながら街路を走っていると、突如その人影は現れた。
黒い外套を羽織った、背丈が異様に高い男。
手に持っているのは断頭台の刃に似た幅広の剣だ。
まるでお伽話の中から出てきたような不気味な男だった。
「お前が」
男の声はひび割れていて不快な響きを伴っていた。
「世界の真実を暴いた女か」
そうして男が私の目の前に飛び出し、剣を振り上げたところで――世界は暗転した。
私の意識もそこで途切れた。
何が起きたのか全く分からなかった。
それでも、最期の瞬間に強く願ったことだけは覚えている。
助けて、ゲオルグ。
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