たゆたう蛍にコーヒーを
杉野みくや
たゆたう蛍にコーヒーを
時刻は夜21時を回り出した。スクールバッグにしまったスマホがひっきりなしにその身を震わせている。それでも頑なに無視を決め込み、ひたすら道なりに歩いていく。
今夜の目的地である氷落大橋。その中央付近に到着すると、生ぬるい風が頬を強くはたいていった。足元では大きな川がごうごうと流れ、あらゆるものを飲み込まんとしている。
荒れ狂った川が流れる先、山のふもとの方に目を向けた。住宅街の明かりでまぶしいくらいに煌々としていた。
「はあ」
と漏れたため息が川の轟音の中に消えていく。それを「ロマンチシストだ」と揶揄するのであれば、それは間違いである。
世の中にはこの夜景を「綺麗だ」という人がいるらしいが、どうにも理解し難い。満点の星空の方が何倍も綺麗じゃないか。あの人工的な光のせいで、夜空に輝くほとんどの星が見向きもされないなんて、おかしいと思う。
でもわがままなことに、そんな星々が羨ましく思っていた。誰にも見られない星になれたらどれだけ良かったことか。
そんなことを考えていたら、思いだしくもない奴らのことを思い出してしまって、思わず唇をギュッと噛んだ。荒れに荒れまくった唇から血の味が滲み出た。
それを吐き出しも飲み込みもせず、風味がなくなるまでただただ転がしていく。
この鉄臭い味とも、今日でおさらばだ。
最後に、嫌な思い出を吐き捨てるようにふっ、と息を吐くと、橋の柵に手を置いた。
退屈で、理不尽で、薄汚いこの世の中からようやく離れることができる。痛いのはきっとほんの一瞬。今までに受け続けてきた苦痛の数々に比べたら、些細なものだ。
待ち望んだ状況、待ち望んだ最期が訪れようとしている。何度も描いた夢がすぐそばにある。
なのに、なのにどうして、現実はこうも私の邪魔をするのだろう。腕にグッと力を入れて身を乗り出そうとしたその時、背後からかけられた「おい」という声が体を引き止めた。
いつの間に近づいてきていたのか、そこにはビニール袋を持ったジャージ姿のおじさんが立っていた。薄い頭部にだらしないお腹、ぼろぼろのサンダルと失礼ながら少し近寄りがたい見た目をしている。
構う義理なんてないのだから、全然無視しても良かった。はずなのに、体が勝手に地面へと戻っていく。
「……なんですか?」
やや不機嫌みに尋ねると、おじさんは頭をポリポリかきながら口をわずかに引きつらせた。
「いやあ、そりゃこっちのセリフだよ。嬢ちゃんこそ何してんだい?」
「……」
やっぱり関わらない方が良かった。せっかく死ねるというのに、どうして不快な気持ちにならなくちゃいけないんだ。
そう心の中で憤慨しながら再び柵に手をかけた。
「もしかして、嬢ちゃんも命を捨てに来たのか?」
「っ!?」
心臓が一度だけ、ドクンと強く脈打つ。目的を言い当てられたせいか、体が変にこわばる。
だがすぐに、私は冷静さを取り戻した。少し考えれば誰にだって分かることじゃないか。
なんせここは。かの有名な『自殺の名所』なのだから。
「そんな目すんなよ。それよりもさ、嬢ちゃんの話、聞かせてくれないか?」
「はい?」
「ほら、なんでここに来たかってことよ。こんな暗い時間にほっつき歩いてるってことは、きっと何かあったんだろ?」
ビニール袋から缶ビールを取り出しながら、デリカシーの欠片もないことを聞いてくる。
いったいどういう人生を歩んできたらこんな人間に仕上がるのか。想像もしたくない。
「おお、そう睨むなよ。老い先短いおじさんに聞かせてくれたっていいじゃないか。冥土の土産話としてさ」
缶ビールの蓋を開け、ニヤニヤしながらせがまれる。状況が違えば、通報されるレベルの事案だ。
でも、まあいいか。どの道死ぬと決めたんだ。その時間がほんの少し遅くなるだけ。
小さくうなずいてみせると、おじさんは私の隣に座り込んだ。私もなんとなく腰を下ろし、脳みその奥深くにしまいこんだ記憶を雑に取り出し始めた。
------
その日は突然始まった。
クラスのいわゆる『イケてる奴ら』が私を対象にし始めた。
原因は分かっている。委員会でアイドル似の男の子と話しているのを度々見られて、妬まれたんだ。
そんな幼稚な理由で、私の青春はぐちゃぐちゃにかき乱された。
露骨に避けられるというのはほんの序の口にすぎない。大抵は机に落書きされているとか、上履きがゴミ箱に捨てられているといった陰湿なものが多かった。無視されるなんてまだかわいいレベルだ。
放課後になると、部活終わりによく校舎裏に呼び出された。鬱憤を晴らさんとばかりに棒や素手で殴られ、みぞおちを何度も蹴られまくった。奴らの力が大して強くなかったのが不幸中の幸いだったけど、それでも痛いしあざにもなる。
雨が降った次の日には、水たまりに顔面から突っ込まれ、泥水を飲まされたこともあった。「ひっでぇ顔w」とか言いながらケタケタ笑うあいつらが同じ人間だとは到底思えない。
本当に辛い毎日だったけど、家に帰ればいつも家族が温かく迎えてくれた。これが唯一の救いだった。
お父さんとお母さんは一人娘の私のために仕事をたくさん頑張ってくれている。だからこそ、こんなことで迷惑をかけたくなかった。
だからいつも、「体育で怪我しちゃって」とか、「車が踏んだ水たまりがこっちにはねてきちゃって」とか適当にごまかしていた。それで最初はうまく隠せていたけど、いじめがエスカレートしていくにつれてだんだん難しくなっていった。
昨日は部活で使っていた絵の具を頭からかけられ、2本あった筆は両方とも真っ二つに折られた。ひとしきりサンドバッグになった後、帰る前に頭を洗い流し、筆を拭く用のぞうきんで唇の血を抑えた。部活で使ったばかりだから、絵の具を溶いた水の臭いが鼻を突き刺してきたのを覚えている。折られた筆は部活に入る時に両親が買ってくれたものだけど、さすがに捨てるしかない。学校で捨てるといろいろと面倒なことになりそうだったから、家に持ち帰ってぞうきんと一緒に押し入れの奥にしまった。
自分の部屋の押し入れなんてそう頻繁に開けることがないから、うまく隠せたつもりだった。
なのに今日、家に帰ったらお父さんとお母さんが暗い顔をしているのを見てしまった。テーブルには、真っ二つに折られた2本の筆と血にぬれたぞうきんが置かれていた。
バレたんだ、と瞬時に悟った。家にいるのに、詰まる思いが胸を強く締め付けた。
二人が名前を呼ぶよりも先に、逃げるようにして家を飛び出した。こうなったらもう、顔を合わせたくもなかった。
この日が来たら、この日が来てしまったら、ここに来ようと決めていた。学校にいるだけでみんなを不快にさせてしまう私が、大好きな家族の笑顔まで奪ってしまったら。
もう、生きている意味なんて。
------
私が話している間、おじさんは意外なことにひと言も発さなかった。時折足を組み替えながら、缶ビールをあおるばかり。
けれど変に反応を返されなかったせいか、私は溜まりに溜まった毒気をここぞとばかりに吐き出しまくっていた。話しているうちに目から涙がこぼれ落ち、息すらまともに吸えなくなっていた。
とても、苦しい。
苦しいけど、同時にどこかすっきりもしていた。およそ同居することのないであろうふたつの感覚に包まれた私は『生』というものを久々に感じていた。初夏の夜風がことさらに心地よく感じる。
このままぽっくり逝ってしまえば、きっと最高のエンディングを迎えられると思う。あの世に行く前に、「ああ、私も生きていたんだ」という証を感じることができて良かった。
呼吸がある程度整ったところで立ち上がろうとしたそのとき、大きな咳払いが耳に入ってきた。
「ありがとうな、嬢ちゃん。いい酒のあてになったよ」
おじさんにとって私の話なんか、お酒のツマミ程度にしか思っていなかったんだろう。本当に人間として終わっている。
でも、家族以外の他人に感謝されるのなんて久しぶりだった。だからこそ、素直に喜んでいいものだろうか、戸惑いながらも「どう、いたしまして」と言葉をひねり出す。
「そういや、この先の森ん中に入ったことはあるか?」
「森、ですか?」
おじさんが指さした方をよく見ると、たくさんの木々が暗闇の中で静かに揺れているのが見えた。
「いや、ないですけど」
「そりゃもったいない。あそこはまさに秘境だ。死ぬ前に一度は見とかにゃ損だぞお?」
「はあ……」
そんなこと言われても、あまり興味はそそられない。
「よし。ここで会ったのも何かの縁だ。おじさんが案内してあげよう」
「え?」
「行かないのか?」
「私は、別に」
「きっとあの世で後悔するぞお?」
「でも——」
やんわり断り続けるが、おじさんはなかなか引いてくれなかった。あんまりにもしつこいものだから、最終的には私が折れて行くことになってしまった。
おじさんと向かった先には明かりひとつない鬱蒼とした森が広がっていた。どこから取り出したのか、懐中電灯で辺りを照らすと、錆びてぼろぼろになった鉄網が目に入った。その周囲を少しばかり歩いていくと、人ひとり通れるぐらいの穴が空いている箇所を見つけた。
「おっ、あったあった」
おじさんは『立ち入り禁止』と書かれた古びた看板を意にも介さず、鉄網の奥へと入っていく。
「あの、ここ入っても良いんですか?」
「いいんだよ細かいことは」
どのみち短い命なんだから、と半ばひとり言のように言いながらおじさんはずんずん進んでいく。
それもそうかと納得し、私も鉄網をかいくぐった。
新月の夜、立ち入り禁止の森の中。年頃の女子中学生が中年過ぎたであろうおじさんと二人きり。いけないことをしていると思うと、またも『生』を実感している気がした。
どうせもうすぐ消え去る命。最期ぐらい『生』を堪能したって、
道無き道をしばらく歩いていると、おじさんの足が止まり、気味の悪い笑みをみせてきた。
反射的に身構えると次の瞬間、懐中電灯の明かりがぱっと消えた。
「あっ。ちょっ、何も見えな――」
と言いかけたところで、おじさんが「しっ!」と遮ってきた。そのまま何も言わず、あそこを見ろと言わんばかりにちょんちょんと指を指し示した。
その方をよく見てみると、「うわあ……」と声にならない声が漏れ出てきた。
背の高い草が生い茂る、小さな広場のような空間。その中を、黄緑色っぽい光の球があちこちに浮かんでいた。
ある光はゆっくりと明滅を繰り返し、またたある光は辺りをゆらゆらと漂う。
あまりに綺麗で、それが蛍の群れだと気づくのに少々時間を要した。
ぽっかり空いた天井からは淡い月の光が優しく差し込む。中心には、ぺしゃんこに崩れた小屋が地面にその身を預けていた。その周りを名も無き蛍たちが取り囲み、ゆったりとした舞を披露する。
本当に、吸い込まれそうなくらい綺麗だった。
流れゆく時間も、心に抱えた痛みも忘れて、ただただ目の前の光景に見入っていた。
このまま永遠に見続けていたい。
そんな気持ちが胸の奥底からじわじわとあふれ始める。だが、何事も始まりがあれば終わりがあるものだ。
しばらく堪能しているうちに、蛍たちの光がだんだんまばらになってきた。残念ながら、天然のイルミネーションもそろそろお開きみたい。
最後の光が闇の中へと消えていくまで見届けると、映画を鑑賞した後のあの満たされるような心地で胸がいっぱいになっていた。こんな気持ちになったのなんていつぶりだろう?
半ば放心状態になった意識は、横からの「はあ゙あ゙」というおっさん臭いため息によって現実へと連れ戻された。人間くさいその仕草は案外嫌いじゃなかった。こんな状況じゃなければ、私だってだらしなく大きなため息をつきたいもの。
そう思っている間に、おじさんは来た道を何も言わずに戻り始めていた。
やや遅れてそのことに気づいた私は、何かひと言くらい声をかけてくれればいいのに、と文句を募らせながらその場を離れていった。
あの橋へと戻ってくると、川の轟音や少し冷えた夜風が帰りを出迎えた。スカートの裾が静かに膝をくすぐってくる。気のせいか、最初に来たときよりも空気が澄んでいる気がした。
思った以上に胸の内がすっきりしている。お礼のひとつでも言わないと、閻魔様にきっと怒られるだろう。
「あの」
「ん?なんだい?」
「その、ありがとう、ございます」
「……」
お礼を言われたことが予想外だったのか、おじさんは少しだけ目を丸くしてみせた。
おじさんはビニール袋から取りだした缶を私に押し付けてきた。
「コーヒー?」
「おじさんからのお供えもんだ。ここでもあの世でも、飲みたい時に飲みゃいいさ」
「あの、私、コーヒー飲めないんですけど——」
「んなこた知らねえよ。じゃ、あの世でも達者でな」
おじさんは手をひらひらと上げながら森とは反対の方へと歩いていってしまった。
後を追おうと前進しかけた足をすぐさま引っ込める。追いついたところで、きっと無駄足に終わるだけだ。
おじさんが何者なのかは分からずじまい。だけど、おかげで死ぬ前に良い思い出ができたのは確かだ。
柵の方に体を向け、1年以上お世話になったボロボロのスクールバッグを置いた。缶コーヒーは何となく手に持っておきたかったからしまわなかった。
柵の遥か彼方に見える街明かりはこころなしか暗くなった気がする。今が何時なのかもう分からない。
暗闇の中でうごめく大きな川は、あらゆるものを飲み込まんと大きな口を開けて待っている。改めて見ると、なんとも肝の冷えそうな光景だ。
ひときわ強い風がびゅっと体に当たってくる。制服が肌にこすれるこの感触ともここでお別れ。
風が止むのをまってから、最初に来た時と同じく、柵に足を掛けようとした。
「……っ」
足が上がらなかった。
もう一度、今度はお腹にぐっと力を入れた。つもりだった。
「……っ、はあ、はあ」
怖い。
怖くて体が動かない。
足元を流れる川を見ていると、恐怖がどんどん体を縛り上げていった。
望んだはずの場所。望んだはずの景色。望んだはずのシチュエーション。さっきは何も躊躇わなかったのに、今は見下ろすことすらできない。
この恐怖の根源たるものを必死になって手繰り寄せる。
そうして掴んだものを見るや否や、すぐに投げ捨てたくなった。
『生』だ。『生』が私の体をがっしりと掴んで離さないんだ。
どうして?最期の最期になってどうして邪魔をするの?
「うっ……、うぐっ、ひっく……」
力が抜け、その場に座り込む。今までの思い出したくない記憶とあの神秘的な時間とが頭の中で混在し、情緒をぐちゃぐちゃにかき乱していく。
「死にたい」という意志と、「生きたい」という本能。2つの相反する勢力に挟まれた私はただ涙を流すことしかできなかった。
その後、私は巡回していた警察官に見つかって交番まで連れていかれた。スマホを見ると、親からの着信が数分おきに届いているのが分かった。きっと、お父さんとお母さんはとても心配している。そんな表情なんて考えたくもない。
今から起こるであろうもろもろの事象から目を背けようと、おじさんにもらった缶コーヒーのふたを開けた。コーヒー独特の重ったるい匂いがパトカーの中に広がっていく。
おそるおそる舌の上に流してみると、強烈な苦味が襲ってきた。反射的に顔をしかめる。
やっぱり私には早すぎた。
それでも、またひとくち流し込む。とにかく今は、いろんなことから目を背けたい。
さらにひとくち。涙がとめどなく溢れてくる。
コーヒーの苦味と香りが私の心をじんわりと包み込み、優しくさすってくれる。舌に残る苦みが悲痛を中和してくれる。
交番に着くまでの間、スッキリとしない後味が口の中に残り続けていた。
たゆたう蛍にコーヒーを 杉野みくや @yakumi_maru
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