私の番

脊髄の先が揺れた。

仕事帰りの体は慣性によって起こされた。

3歩不思議なステップを踏んで我に返った。

降りる際はご注意ください。

ここは最寄りだ。

木下はつり革から手を離した。

ずるんとしたこの行動は傍から見ても疲れていると見えるだろう。

電車を降りると赤子の体温程度の夜風が吹いた。


まだ暑いな。

負けじと鼻からため息を垂れた。

隣を歩く、自分より人周り年上のように見える男性はICカードを少し震える指で握っている。

可哀想な暑さだ。

木下は震える男性の横を颯爽と通り抜けた。

今日は改札の機嫌が良いようだ。

たまに急ぎ足だとエラーを食らう。

首を振り、階段を降りた。

ガラス扉を開けると熱風が出迎えてくれた。

首のエラから汗が垂れ出した。

これ、家に着くまでこの状態かよ。

やれやれで済まされないぞ。

重い足をズルズルと引きずった。

気を紛らわそう。

傍から聞こえる家庭の声に耳を傾けてみよう。


まずは1軒目。

いたぁぁぁぁい。いたいよ。

母親の声だろうか。

女性の声だが、少し渋みを帯びている。

火傷をしたのだろうか。

痛いんだって。痛い。

流石に振り返ってしまった。

ママぁ、違うよ。

あんたのせいでしょ。

何事だろうか。

背筋に金属棒を当てられた感覚になった。

後頭部に何かが突き刺さったように感じる。

ぶるっと身震いを起こしたのでさっさと歩いた。

(内容は作者本人が現実で聞いた経験があるお話です)


2軒目。

そういう事じゃないでしょ。

なんだその言い方は、俺を馬鹿にしているのか。

夫婦喧嘩が聞こえる。

どこが馬鹿にしているの。

私はお父さんの実家のお義母さんとルミ子さんから酷いこと言われたって。

だからそれが馬鹿にしているんだろ。

ああ、怖ぇ。

男女って難しいよな。

なんだか元カノのことを思い出した。

価値観のすれ違いで結局別れたが、もしその先も一緒だったらこういう風にもなっていたのかな。

変なことを考えた。

いや待てよ。

ふと考えると、今聞いた夫婦喧嘩、何だかおかしくなかったか。

木下は瞬時に頭を振った。

大型犬くらいの汗が飛び散った。

(この夫婦喧嘩は作者の親の実際にあったお話です)


3軒目。

ぎゃははははは。

なんだよそれー。

大学生の集まりだろうか。

古びたアパートの1階から聞こえる。

他の部屋から苦情が来そうだ。

でも大学生ってこんなもんだよな。

は?さえちゃんからのLINE、まだ返してないのかよ。

お前LINEまでゲットしたのに最後に既読無視とかキモすぎだろ。

さえちゃんがいるサークルの3年の先輩ってたかのぶさんだよな?

お前絶対無理だって、だったらLINEくらい返せよ。

やってんなあ。

なんて返せばいいかわからないなんて、そんな甘い青春、可愛いなあ。

自分でも気持ち悪いと思える口角の上げ方をしてしまった。

カーブミラー越しの自分に身震いした。


ナマズのようにヌルッとしてきた。

汗が粘膜のようにまとわりついている。

なんて気持ち悪いんだ。

やっと目の前に自宅が現れた。

後は階段をのぼるだけだ。

重たい足を階段に、はめ合わせた。

一段一段、噛み締めるように。

あの、木下さん。

後ろで声をかけられた。

振り返ると、髪の長い女性が扉から顔をのぞかせていた。

驚いて壁によりかかった。

驚かせてすいません、1階の宮田です。

あ、どうも。

夜分遅くにお声掛けしてしまい申し訳ないです、お仕事帰りでご迷惑だと思ったのですが、窓から木下さんの姿が見えたのでどうしても声をかけたくて。

あ、そうですか。

どうして僕が木下だとわかったのだろう。

言わないでおくか。

それで、どうされましたか。

実は今日、友達と部屋で飲もうとしてたのですが、急遽友達の方が別の飲み会に行くそうでおじゃんになっちゃって、用意したお酒が余ってしまったんですよ、さっきまで冷やしてた檸檬サワー、どうですか。

うわ、ありがたい、いいんですか。

私、レモン苦手なので。

首筋が冷えるのを感じた。

僕は好きですよ。

ほんとですか、ちょうど良かった。

今度、お礼させてください。

そんな、気にしないでくださいよ。

微笑みの綺麗な女性だ。

缶を差し出す手も腕も、シルク生地のように真っ白だ。

うっかり手に触れてしまいそうだ。

ありがとうございます、大事にいただきます。

こちらこそ助かります、では、おやすみなさい。

小さくお辞儀をして、宮田さんはパタンと扉を閉めた。

木下はしばらくぼおっとした。

廊下の窓から月が見えた。

今日は満月だ、ちょうどいい。

窓際までのぼりつめて、プルタブを上に押し上げた。

プシュッと人生最高値の音がした。

レモンの酸味と炭酸の痛みが脳天まで突き上げてきた。

この瞬間のために生きてきたのだ。

抜け殻のような、震える自分の体を今だけは抱きしめたくなった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

コオリ檸檬 童虎 @9609

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

フォローしてこの作品の続きを読もう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ