コオリ檸檬

童虎

AIの番

「コオリ檸檬」


夏の夕暮れ。湿気を含んだ空気が、ネクタイを緩めた田中の体にまとわりつく。ビルの谷間を抜け、彼はいつも通り駅に向かって歩き始めた。今日は特に何も変わったことはない。ただ、暑いだけだった。


アスファルトは熱を帯び、靴底を伝ってその熱がじんわりと足元に届いてくる。通りを行き交う車のエンジン音と、遠くで鳴る蝉の声がかすかに聞こえる。田中はいつもと同じペースで歩き続け、何も考えない。時折、額の汗をハンカチで拭いながら、目の前の道だけを見つめている。


ふと、通りの向こう側に目をやると、「コオリ檸檬」という看板が一瞬だけ視界に入った。薄いレモン色の文字が古びた木の板に書かれている。いつも見かけるその小さな氷菓子店だが、田中は今日も特に気にせず、視線をすぐに前に戻した。店に入るつもりはない。ただ、歩く。


商店街を抜け、徐々に夜の気配が迫る中、空はオレンジから紫色に変わり始めていた。街灯が一つ一つ点灯していく。人々が行き交う中、田中はその流れに身を任せ、ただ足を運ぶ。目の前には、自動販売機の光が輝いている。冷たい飲み物が欲しいとも思ったが、歩みを止めることはなかった。


次第に街並みは住宅地へと変わり、ビルの影が長く伸びる。彼の足音だけが響く静かな道。頭の中には何も浮かばない。仕事のこと、家庭のこと、考えようと思えば考えることはたくさんあるが、今は何も思考したくなかった。無機質なアスファルトと、立ち並ぶ同じような家々。目に入るものはすべて日常の風景で、特に目を引くものはない。


途中、コンビニの前を通り過ぎる。中では涼しい空気が溢れているように見えるが、田中は入らない。ただ歩く。腕時計を見ると、もう20分ほど経っている。それでも、目的地まではまだ距離がある。彼は黙々と歩き続ける。


路地を抜けたところで、再び「コオリ檸檬」のことがふと頭をよぎった。あの看板はいつからそこにあったのだろう? 特に意識したことはなかったが、ずっとそこにある。子供の頃に通った覚えもないし、友人と話題にしたこともない。田中はそのまま足を進め、再び思考を断ち切った。


風が少しだけ吹き始めたが、熱を冷ますにはほど遠い。ビルの隙間から見える空には、一番星がちらっと輝き始めていた。田中はやはり、ただ歩き続ける。

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