<9・走れ、全力で!>

 それは本当に、一瞬の出来事だった。

 あっと思った瞬間、赤茶の毛の狼が白亜の頭を派手に殴りつけていたのである。血が出ていた様子はなかったから、多分爪は出していなかったのだろう。それでも、彼を気絶させるには十分だったと見える。


「白亜っ!」


 そしてれもんが駆け寄ろうとした次の瞬間、もう一匹が横から体当たりしてきたのだった。伸ばした手が宙を掻いた。れもんが派手に地面に転がるのと、一匹が白亜を背に乗せて走り去るのは同時で。

 れもんはその時、確かに見たのである。

 学校のフェンスの向こうから、まるで哀れむようにこちらを見る――あのローブ男こと、銀杏弦の姿が。


「ち、ちくしょう!」


 いくられもんの足が速くても、走り去る狼に追いつけるほどではない。あっという間に、彼らの姿は並木道の向こうに消えてしまったのだった。


――ざけんな……ふざけんなふざけんなふざけんなっ!こんな簡単に!


 冗談じゃない。守ると決めた矢先に、こうもあっさり奪われるなんて洒落にされなっていなかった。れもんは即座に立ち上がると、自分を吹っ飛ばしたもう一匹に対して蹴りを見舞った。ぎゃいん!と甲高い声と共に、狼は吹っ飛ばされて校舎の壁に叩きつけられる。

 気のせいか、昨日よりも攻撃力が上がっているような。狼は血を吐いて、そのままびくびくと痙攣し動かなくなってしまった。あるいは、モンスターの耐久力が弱くなっている、なんてこともあるのかもしれないが。


「おい、何があった!?」


 体育倉庫の方から、速人と稀の二人が走ってきた。騒ぎを聞きつけてきたらしい。さっきの狼の襲来は見ていなかったようなので、簡潔に説明する。


「白亜が不審者に誘拐された!」

「はあ!?」

「くっそ、マジで一瞬だった……!徒歩だったから、そう遠くは行ってないと思う。稀、警察に通報してくれねえか!?黒いローブみたいなもの着た、どっかの宗教団体みたいなおっさんなんだ!」

「わ、わかったよ!」


 とりあえず国家権力の力は借りておくべきだろう。稀に110番を頼んでおくことにする。


「宗教団体みたいなおっさん?普通の変質者じゃないのか?」


 れもんの言葉に引っ掛かりを覚えたようで、速人が尋ねてくる。こうなった以上、ギリギリのところまで話をした方がいいだろう。


「あんまりにもイカレてたんで話さなかったんだけどさ。なんつーか、昨日白亜を襲ったのカルト教団のメンバーぽい人だったんだよ。ローブみたいなもの着て、魔法使いっぽいコスプレしちゃってさ。で、白亜が魔王の生まれ変わりだから倒さなきゃいけないだのなんだの言ってて、マジ意味不明で。……何にせよ、誘拐されたら碌な目に遭わないのは確かだと思う。下手したら殺されるかも……」

「ま、マジかよ……」

「ここで変なことしなかったのは、人目を気にしたからだと思うんだ。速人、この近くに……多少大きな音出したり騒ぎになっても、すぐに人が駆けつけてこないような場所ないか?防犯カメラとかもなくて、人気がなくて、それこそ悲鳴が上がってもすぐにバレないようなところっつーか……!」


 あの銀杏という男は、理性のない人間ではない。むしろ、それが彼自身の任務達成にブレーキをかけているとも言える。

 何故なら、小学生である白亜を手にかけることに、明らかに罪悪感がある様子だったからだ。そして、れもんを巻き込むことに関しても抵抗を感じているようだった。そもそも理性がない人間ならば、さっきの攻撃で白亜を殺してしまえば良かったのである。

 そうしなかった理由として考えられることは二つ。

 一つは、小学校で大騒ぎになるのを避けたかったこと。あの場で子供が殺されるようなことになれば、間違いなく学校関係者が集まってきて騒動になる。彼自身がどうにか逃げおおせることができたとしても、明日の新聞やネットニュースの一面を飾るような事態になるのは避けられないだろう。彼の組織自体が明るみに出る原因を作るかもしれない。

 もう一つは、れもんの目の前で白亜を殺すのを避けたかったこと。これは恐らく、としか言いようがないが――さっきのあの男の表情。れもんの前で、友達が死ぬところを見せたくないという温情だったのではなかろうか。


――あいつは甘い。明らかに、甘さがある。だからこそ……つけ入る隙もあるはずだ。


 信じよう。

 白亜は、下級とはいえいくつも魔法が使える。この間も、一瞬で狼二匹を倒すだけの力を見せていた。意識さえ取り戻すことができれば、そう簡単に銀杏に殺されるようなことはないはずだ。

 彼はまだ生きている。そう信じて、自分達にできることをしなければ。


「……その男、どっちの方に逃げた?それから、その狼みたいなのは?」


 速人は存外冷静だった。壁に叩きつけられて伸びている狼を見て言う。


「あっちの方。その狼みたいなやつ、カルト教団みたいなやつの飼い犬みたいなんだ。この間も、その犬っころをけしかけてきた」


 れもんはあっち、と学校から見て南、正門の方を指さす。ぶっ飛んでいる狼はまだかろうじて息があるようだった。お前が倒したのかよ、と速人はあっけにとられている様子である。


「ほんと馬鹿力だなおい。……南に逃げたなら、河原の方じゃないよな。防犯カメラを避けたいなら、街中の方にも行かないはず。つか、その犬っころ?みたいなのを連れて逃げてるなら余計目立つだろうし」

「だよな?じゃあ……」

「……いや、待った。一丁目のシャッター街なら話は変わるかも。あそこの商店街、どんどん店がつぶれて廃ビルだらけだから……南の方だし。ていうか」


 速人は狼を見、南の方に視線を投げた。


「俺の勘。そっちにいるんじゃねえかって、そんな気がする」

「わかった、信じる!あたしはそっちに行くから、警察来たら教えてあげて!」

「お、おい!本当に勘だからな?確証は……っ」


 背中から速人の声が聞こえてくるが、スルーして走り出していた。校庭を突っ切るのは面倒だ。ひとまず学校の外へ出ようとして、裏門の方へと駆ける。この時間帯、裏門は閉められているのが普通だった。いつもならばよじ登って飛び越えるところだが、今日は妙に体が軽い。

 ジャンプ一つで、飛び越えていた。自分でも、驚くほどの力が湧いてくる。まるで心臓の奥から、誰かが叫んでいるかのように。


「は!?なんかすごいことしてるんですけど!?ちょ、れもん?れもん―!?」

「れ、れもんちゃん!?」


 突っ込む速人と、電話を終えてひっくり返った声を出す稀。二人を置き去りに、れもんは身一つで道路を失踪した。スマホはポケットに入ったままだし、まあなんとかなると信じよう。

 花宮町には、旧商店街と新商店街の二つがある。旧商店街は一丁目にあり、速人が言う通り現在ではシャッターが下りたままの店舗と使われていないビルが殆どになってしまっていた。店の多くが潰れたか、もしくは新商店街に移転してしまったためである。

 旧商店街の建物の多くはバブル前に建築されたため、建築基準法を満たしていないものが多く、老朽化も進んでいて危なくなっていたからというのが大きいらしい。建物を建て替えるくらいならば商売をやめるか移転してしまえ、というところが大半だったようだ。

 そのため、ちょっとしたゴーストタウンのようになっている。夜は非常に治安が悪く、不良崩れが河原以上にたむろしていると聞く。昼間とはいえ、自分の家に帰るためにはあのあたりを通らなければいけないという速人は、“なんていうか、昼間でもなんか出そう。カヤコとかサダコっぽいの”と微妙な感想を漏らしていた記憶があった。

 確かに、あそこならば防犯カメラもあるまい。

 そして、多少騒いでも気づかれにくいだろう。場所が場所なだけに“不良が騒いでいるだけ”とみなされて放置されそうなところだ。


――問題は。使われてないビルなんていくらでもあるんだよな。どこだ?どのへんだ?


 平日の昼間ともなればよりいっそう、旧商店街に人気はない。奥の方の錆びたシャッターの前で、年配のおじいさんが座り込んでうつらうつらとしているだけだった。手元にビールの缶がある。酔っぱらっているのだろうか。


「そこのおじいちゃん!」


 れもんは臆することなく老人に話しかける。


「こっちに、変な狼みたいなの走ってこなかった!?あたしの友達が、攫われちゃったんだ!」

「んあ?……お嬢ちゃん、学校は……」

「そんなの今どーでもいいから!とにかく、誰か来なかった、こっちに!」


 酔っ払いの証言などアテにならないかもしれないが、今は藁にもすがるような心地である。必死な様子の女子小学生に驚いたのか、老人は目を丸くして、ええっと、と言った。


「さ、さっき、潰れた八百屋の角を……なんか赤茶の犬みたいなのが凄い勢いで走っていった気がしたが……あ、でも気のせいかも……」

「さんきゅ!」


 きっと、酔っぱらったせいで見た白昼夢だとでも思っていたのだろう。れもんは彼にお礼を言うと、すぐさま地面を蹴って走り出したのだった。

 必ず間に合わせる。――自分はまだ、白亜のことを何も知らない。これから知っていかねばならないのだから。

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