第5話

 春が来て、うっすら汗ばむ梅雨の時期になった。

 私はまだ高田とつき合っていた。高田は頻繁に私の家にくるようになっていた。文子はここ最近会っていない。


 ある日、文子のために用意した朝の食事を母が昼に食べていた。

「あれ、文子食べないの」

「ここずっと夜しか食べないのよ。それもほんの少しね。かわりにお母さんが食べなくちゃいけなくて……」

 母は悲しそうに言った。

「なんでたべないのよ」

「ダイエットでもしているんじゃないかしら」

「ダイエット? 確かに少しやせた方がいいわね」

「でも、あまりにも食べなさすぎよ。栄養失調で死にはしないかしら」

「心配しすぎよ。動いていないんだから、そんなに食べなくてもいいんでしょ」

 私は大して気にしていなかった。

 ある日の夜のこと、その日は満月で雲も少なく、夜空が美しい日だった。私は夢を見ていた。そしてそのまどろみの中、突如、高笑いが聞こえて、私は驚いて飛び起きた。

「あははは」

 それは紛れもなく文子の声だった。なぜ、こんな夜中に笑うのか。私は起こされたことに憤慨しながら、文子の声に耳を澄ましていた。

 狂気だった。恐ろしかった。やがて、文子の笑い声は止まった。私は実に嫌な気がした。なにか耐え難いぬかるみに埋まっている気分だった。


 夏の時期だった。高田は白い半袖のワイシャツにネクタイを締め、紺のズボンをはいている。それが制服だった。私の制服も、白い半袖のブラウスになった。まぶしい太陽が当たると、白いシャツがどこまでも真っ白に輝いた。高田の袖から伸びた、白い男らしい筋肉質な腕が、私にはなまめかしくみえた。薄着の高田はいっそう美しく見えた。

 私は高田を放課後待った。高田は遅れてやってきた。汗を掻いて髪の生え際が濡れていた。

「どうしたの、そんなに汗掻いて」

「ちょっと友達とバスケしてきたんだ」

「運動?」

「運動」

 高田の頬は上気していた。高田はすっと私の手を握った。汗で湿っていた。だが、握る手は力強かった。

「今日は、私の家に来て。アイス買っておいたから、一緒に食べよ」

「ありがとう。暑いからな。アイスが旨いだろうな」

 日差しが痛いぐらいに熱いので、私は日傘を差し、高田とあいあい傘をした。空気も風もむっと暑かった。地面が干からびて、もうもうと湯気がでていた。走っていく車のタイヤがアスファルトで焼けるにおいがした。

 私は高田を家に通した。家の中は母がクーラーをつけていたために涼しかった。

「あら、高田君いらっしゃい」

「おばさん、おじゃまします」

 高田と母は懇意になっていた。私たちは居間のダイニングテーブルの椅子に座り、私は冷凍庫からカップのバニラアイスを取ってきて、スプーンと一緒に二人分、テーブルの上に置いた。

「食べよ」

 私たちは食べた。母は洗濯物を取り込んでいた。

「美味しいね」

 バニラアイスが口の中で冷たくとろけて甘い味がすると、私は何とも幸福な気がした。

 高田はにこにこと笑っていた。彼の嬉しそうな顔が私には最大のご褒美だった。

「部屋にいこ」

 私は高田を誘って、自分の部屋に行った。居間でいちゃつくのは、母の目があるために気まずかったのだ。

 私たちはクッションの上に座り、キスをした。私は高田の体に抱きつき、頭を高田の腹に埋めた。高田はそんな私の頭をなでた。

 私は幸福だった。高田と二人きりになるだけで、胸が安らぎ、心地よかった。

「ちょっとトイレ貸して」

 高田が座を立った。私はマンガを読んで高田を待った。

 高田が戻ってきたとき、彼は変な顔をしていた。顔が赤くて、目が充血していた。

「さっき、すごい美人さんに会ったよ。誰?」

「え? 美人? そんな人いたの、お客様かしら」

「こんにちはっていわれた」

 高田は興奮していた。それが私の気に障った。

「ねえ、どんなひと」

「やせていて、目が大きくて、髪が長かった。可愛かったよ。声も可愛かった」

「やだ、私以外の人を可愛いだなんて」

 私は頬を膨らませて怒った。じとりと睨みつけると、高田は苦笑いした。

「誰なんだろう」

 そう言って高田はそわそわしていた。


 高田が帰った後、私は母に美人な客がこなかったか聞いた。母は来ていないと言う。じゃあ、誰なのかしら。

「文子じゃないの」

 母は言った。

「あの子、やせて可愛くなったのよ」

「え」

 驚きだった。

「いつのまに痩せたの。バカみたいに太っていたのに」

「一人でダイエットがんばっていたのね。ごはんも食べなかったし」

 あの子が痩せた? 嘘でしょ。それも高田が言う美人が文子だなんて。信じられない。私は胸が苦しくなった。私は確認したくて、居ても立っても居られない気がして、文子の部屋に向かった。閉ざされたドア。私はドアを激しくたたいた。

「文子、文子!」

「なに」

 部屋の中から声がした。可愛い声? 確かに文子の声は少し高めで、少女のようなかわいらしさがある。今まで気にした事なんて無かったけど。

「ちょっと出てきて」

「なんで」

 私はなかなか出てこない文子に腹が煮えくり返るようだった。私は過度に興奮していた。

「顔がみたいのよ」

 突然文子が笑い出した。人をバカにしたような笑い。私はむっと腹が立って、呼吸を荒げた。私はなにも言わず耐えていた。

「いいよ」

 文子はそう言うとドアを開けた。出てきた文子は本当に痩せていた。そして、こんな美人居たのかというくらいに美人になっていた。

「あなた、文子なの?」

「そうよ」

 文子は伏し目になって、もったいぶるように、顎をあげて言った。私は目の前の事実を信じたくなくて手がぶるぶると震えた。私は今まで文子を見下していた。それが見下せる相手じゃなくなったことが恐ろしかったのだ。

「痩せたわね」

 私は目をぎらぎらさせて文子を見つめた。このときから私は未来起こることを予見していたのかもしれない。

「あたい、頑張ったのよ」文子は言った。

 私は青くなった。唇がわなないた。文子が恐ろしい。私は文子に驚異を感じた。高田が文子に奪われるかもしれない。突然そんな思いが浮かんだ。そんなことあるわけないでしょ。ぱっとでの文子に。私と高田は何年愛し合っていると思っているの。

 文子は余裕ありげに私の体を上から下へじろりと眺め、はんと鼻を鳴らした。

「姉ちゃんの彼氏、かっこいいよね」

 意味ありげに文子は笑った。

 私はぎくりとして、全身が氷のように冷たくなった。

「なにを考えているの、あなた」

「なにも。ただ格好いいよねって言っただけでしょ。過剰に反応しないでよ」

「あなたのことだから、私の彼氏を奪うような事考えているのかもしれないけど……」

「ひどいわ、姉ちゃん。あたいがそんなことするわけないじゃない。あなたのことだからってなに。あたいがいつも悪いことするみたいに。性格悪い……」

 私はかっとした。

「だって、あなた昔からそうだったでしょ。人の物欲しがって」

「そんなことしていないわ」

「していたわよ」

「うそつきよ、姉ちゃん。酷い」

 文子はむすっとして、ドアを閉めた。

「もう話したくない。姉ちゃんなんか嫌い」

 私は目の玉の奥がむずむずした。酷く疲れて、胃がずしんと重くなった。私は不安でしょうが無かった。高田の文子に対する態度を頭の中で何度も思い出した。充血した目で頬を染めていた。まるで恋しているみたいだった。私はうっと嗚咽がこみ上げてきた。

 ショックだった。今起ころうとしている未来が怖かった。

 私は憂鬱になって、自分の部屋に入った。そして、ベッドに横になり、不安で悶々としていた。息苦しくて、頭がくるくると回転していた。悲しくなって涙が出てきた。

 次の日、私は学校で高田にあうとその側から甘えた。私は高田に抱きつき、高田が人目を気にして恥ずかしがって、私を引きはがそうとすると、私は意地になって高田にしがみついた。幸い、ほかに人がこない廊下の空き教室の前だった。私は高田から静かに身をはがし、潤んだ瞳で高田の黒い瞳をのぞき込んだ。

「どうしたの」高田は不思議そうに聞いた。

「私のこと好き?」

「好きだよ」

 そんなことを言われても私は安心できなかった。

「他の人を好きになったりしない?」

「しないよ。どうしたの。変だよ」

「不安なのよ。不安で怖いの」

 高田は私の頭に手のひらを乗せて、ぽんぽんと優しく頭を撫でるようにたたいた。

「俺がお前以外を好きになる訳ないだろう」

 私は、昨日の高田の態度のことを言いたくなった。しかしそれを言ってしまえば、高田が恋を自覚しそうで嫌だったので、私はあえて言わなかった。

 私が無言で居ると、高田は誰も来ないことを確認して、私の唇にキスした。小鳥が土をついばむように何度もキスをした。

 私は幸福で脳天までしびれる心地がした。愛なのだこれが。私は果てしない大きな物に包まれている気がした。これを失いたくない。私は心にきつく思った。

 悔しい。

 私は美人になった文子を思いだした。高田をときめかせるなんて。あの子が。悔しい。私は唇を食いしばり、震えながら出てくる涙をこらえた。だが、涙は自然にせりあがり、下瞼の上をこぼれ落ち、滴が一滴二滴と落ちた。私は息を荒げ、嗚咽をかみ殺した。

「なんで泣いてんの」

 高田が当惑して聞いた。

「……辛くて」

「俺が居るのに?」

「あんたを失うのが辛い」

「なんで?」

「だって、いつか私から離れて行っちゃうんじゃないかって思って、怖くて……」

「離れないよ」

「うそつき」

 私は、未来に対する不安が強すぎて大切な恋人の言葉すら信じられなかった。

「ほんとだってば」

 高田は怒ったように目を険しくして私の顔をのぞき込んだ。

「抱きしめてもだめ、キスしてもだめ、優しいことを言ってもだめ。どうしたら、お前を安心させられるのか、俺にはわかんねえな」

 私は泣きたくなった。大声を上げて。

 すると、高田は私の体をぎゅっと抱きしめ、背中をぽんぽんとたたいた。そして、あやすように少し体を揺らした。

「絶対離れない」

 高田の優しい言葉が私の心に深く突き刺さった。

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