第3話

 ある日の日曜日、私は、ことり、という音で目が覚めた。私は忌々しげに隣の部屋とつながる白い壁を睨みつけた。文子が生存していると考えただけで虫ずが走った。気持ち悪いものが私の体に這い回り、追い出したいのに追い出せないそんな感じがした。カーテンを開けると、朝の白い光がまぶしく部屋の中へ入ってきた。私は一気に頭のてっぺんからつま先まで光に身を包まれる心地が癒されると思った。自然は無害だ。私は自然は憎くなかった。それより、人間の文子が憎かった。なぜ、人間は憎いと思うのだろう。それは感情があるからだ。自分と同じ形をしているのに、受け入れられない汚さがあるからだ。私は部屋を出た。部屋を出て文子の部屋の前の閉ざされたドアの前を通るとき、また何か中からことりと音がした。私は鼻にしわを寄せて不快を露わにした。音が聞こえると、この中に文子がいるのね、あの太った醜い文子がと、陰険で、じとじとして、顔に陰がかかったような文子が、私はおぞましい気がした。さぶいぼがたって身震いした。ああ、私は文子が嫌いだ。ひきこもりで、蟻みたいに穴の中に引っ込んで、時々出てきて、黒々しい目で見てくる。いや、彼女は目を合わせない。私を無視しようと意識している姿が憎々しかった。

 私は階段を下りて、下の階に行った。家具が狭苦しく並べられた居間を通って、私は台所で朝食を作る母の前に立った。

 パンとハムのサンドウィッチ。それからオレンジジュース。それを母はお盆に乗せた。文子のところに持って行くのだ。

「文子に三食与えるのやめたら?」私は不愉快に言った。

「どうして」母は笑いながらたずねた。

「だって、あいつ太ってるよ。食べ過ぎだよ」

「そういっちゃいけないわよ」

「どうしてよ」

「お母さんは文子に食べることでせめて幸せになってほしいの」

「甘やかしているよ。あんな気持ち悪い奴、なんとかしてよ」

「文子だって考えがあるのよ。きっと。何か怒らせるのもあの子の為にならない気がするわ」

「お母さんは、あの得体の知れない文子が怖いんでしょ。何かされると思っている」

「そんなことないわよ」

 母はにわかに動揺して、笑顔をひきつらせた。

「さ、文子がお腹を空かせているわ」

 母はペットに餌をやるように文子に餌を持って行った。私はダイニングテーブルの椅子に腰を下ろすと、テーブルの上に乗っている小さいテレビのスイッチを入れた。天気予報がやっていた。今日は雪、明日も雪、明後日も雪。毎日雪が降る。エアコンの暖かい風にもみあげの毛を揺すぶられながら、私は一人で朝食を食べる。トーストにバターを塗って食べた。トースターで、よく焼けた耳の部分が歯茎に刺さって痛かった。私はテレビのニュースを見る。母は二階から降りてきて、洗濯を始めた。そして、掃除機を出して家の掃除をし始める。私は物思いに耽ったように母を眺めていた。母に言いたいことがあった。彼氏がいると、言おうと思った。高田を家に連れてきたとき、びっくりされては困るから。母に動揺を与えたくなかったし、それを見て、高田も気まずい思いをしてほしくなかった。言わなくてはいけない。私はパンを平らげ、水を飲み、皿とコップを洗って、仏間に掃除機をかけている母の元へ行った。母は腰を曲げながら畳をこするように掃除機をかけていた。掃除機のうるさい音で声が掻き消えないように私は声を張り上げた。腹の底から声を出して、妙に喉太い怖い声がでた。母は振り返り、掃除機のスイッチを消した。

「なに」母は忙しそうに、ひどく面倒そうに言った。

 仏間の天井にかけた白黒写真が私と母を怪しげに見つめる。

「お母さん、私ね、言っておきたいことがあって……」

 私は変に口ごもって小さい声で言った。さっき喉太い声がでてびっくりして、なにかさっきのは私の声じゃないような気がしたので、今はいつもの自分の声にしようと声を抑えたのだ。

「なによ」

 母は気になるとでも言いたげに目を見開いた。

「私、今、彼氏さ、いるんだ」

「あら」

 母は面白がってにやにや笑った。私はそれが恥ずかしくて耳を赤くした。

「あんたももうそんな年なのね。いいじゃない」

「でさ」

 私は顔をひきつらせた。これから言おうとすることに吊られ、文子のことを考えたのだ。私は不安に襲われながら言った。

「彼、時々家につれてきてもいいかな。私の部屋にあげて遊ぶだけだから、お母さんが相手しないといけないわけでもないけど。お母さんには迷惑かけない。」

「家につれてくるの? いいんじゃない」

 母は以外と素っ気なかった。私は母の言葉のリズムに吊られて安心した。

「文子がいるから嫌がると思ったんだけど」

「文子? あの子も余所の人がきたら新鮮でいいでしょう」

 母は嬉しそうに言った。

 文子が良くても、私がイヤなのだ。私は苦い心地がした。

 母から彼氏を連れてきて良い、許可を得たのに、私は文子のことを考えて、あまり嬉しくなかった。文子が家に居るのが嫌だった。文子の気配に気を使いながら高田と過ごさないといけないのかと思うと、胃のあたりがぐるぐる黒い渦で巻かれるような不快になった。母も文子のことを一番に不快に思ってほしかったのに、母はそれほど気にしていないようなので、私は共感されなかったことに満たされない思いがした。私は母を少しだけ遠くに感じた。

「ちょっと、あんた、暇なら買い物してきてちょうだい。大根とキュウリと人参とジャガイモと、それからお醤油が無かったわね。ラップも買ってきて」

「そんなこと文子にやらせればいいじゃない。あのこ暇でしょ。なにもしないで家にいるより買い物でもさせて、人とふれあうように訓練しなきゃ」私はいらいらして口をとがらせて言った。このまま文子が誰とも会わず、暮らしていく先のことを思うと、彼女の精神にも悪い気がして私は心配して言ったのだ。

「文子が嫌がったらどうするの」

「嫌がっても無理矢理さ」

 母は私の言葉を聞くのも面倒だというように微笑した。私は私の意見を無碍にした、そんな母が少し嫌いになった。母は、鞄から財布を持ってきて私に渡した。

「買うの覚えてる? メモして」

 私は広告の真っ白な裏面に黒いマジックで買うものリストをメモした。大きな字で書いたから、目の見えにくい老人でも読めるだろう。大きな字で書いたのは私の反抗心からだった。何で私がやらないといけないの。文子は家にずっと居て。私は寒い外にでて重いものを運ばなくちゃいけない。それでも私はコートを着て、毛糸の帽子をかぶり、毛糸の手袋をはめた。買い物袋に財布をいれ、玄関で真新しい紺色の長靴を履き、外にでた。文句があっても素直に従うのが私なのだ。雪が目の前をちらちら降っていた。ひんやりとした外気が私の顔をなでて、寒さに顔の皮膚がぴんと張りつめた。とがったものでも私の顔に触れれば、すぐに皮膚が破け血でも出そうだった。息を吸うと、肺に冷たい空気が入ってきて、体の中まで冷える心地がした。ぐっぐっと私は雪の上を歩いていった。後で家の前を雪かきしなくてはならない。道路は除雪車によって除雪されていたが、歩道には雪がたまっていた。私はその上を歩いて、雪に足を取られるようにして進んでいった。スーパーに着くと、私は、暖かい店内の空気にほっと心が安まる気持ちがした。買い物かごを取って、リストにある物を次々とかごに入れていく。ビニール袋を広げ、段ボールに無造作に入れられた、ごろごろとしたじゃがいもを取ろうと手を伸ばしたとき、指の細い白い手とぶつかった。

「すみません」私は驚いて手を引っ込めながら、とっさに言った。

「いえ、こちらこそ、ごめんね」

 その人は、明るい声ですらすらと謝りなれた調子で言った。見ると、細面の睫の濃い、口の小さな色白美人だった。はっとするような美人であった。彼女は私のことをみて、親切そうに微笑した。私は緊張とすばらしい物に出会った興奮で胸がどきどきした。美人は二十代前半くらいの年で、黒いダッフルコートを着ていた。良く似合っていた。私は羨望のまなざしを彼女に送った。私は美人になりたかった。だから、美人がうらやましい。自分の顔もそこそこ整っているのだろうが、今会った美人にくらべると、月とすっぽんだ。私は本物の美人に近づけたらと思っていた。感動と共に美人の背中を目で追いながら、私は沈鬱な気分にひたった。あんな美人の人生ってどんなだろう。きっと私じゃない人生だ。みんなが優しいわがままも何でも聞いてくれる人生だろう。私の人生じゃない人生だ。

 私は快く嫉妬していた。買い物を済ませ、私は家に帰った。

 今日の昼飯は、コロッケとわかめと豆腐の味噌汁とご飯だった。私はコロッケが大好物だったから、この温かい食事を文子も温かいまま食べられるのかと思うと、不公平な気がした。もし、冷たい食事だったら、いくらか気分が紛れたろうが、母は差別をしないところが長所だったので、私は腹に嫌な虫を抱えながら、お盆に乗せて食事を文子に持って行く母の後ろ姿を眺めた。私は文子が不快だったから、文子への不快な感情をどうやってかあらわせないかと常日頃思っていたのだ。嫌だという気持ちをどうにかして、文子に突きつけたいような意地悪な感情が芽生えていた。自分の中のもやもやをどうにか本人に擦り付けていじめてやりたかった。そうしないことには、嫌な気持ちで自分がどんどん醜悪に飲まれてしまい、自分が真っ黒になってしまう気がしたのだ。

 午後、私は部屋で昼寝した。怖い夢を見た。文子が首を吊って死んだ夢だった。私は息が詰まって、驚いて涙もでないで、声も出せないのだ。起きてから私は泣いた。ぬるい涙が目尻をつっと落ちていく。仰向けに寝ながら泣いたので、こめかみの髪と枕がびしゃびしゃに濡れた。

 私は文子を嫌いだと思っていた。でも、嫌っていなかったのだ。心の底では家族なのだ。そう思っていたのだ。それが新鮮な気がした。私はまだ文子に優しい愛情が残っているのだと思うと、心が安らかになる気がした。

 夜、ご飯を食べ、お風呂に入り、髪を念入りにトリートメントした。明日高田と会うとき、綺麗なさらさらの髪で出会いたいから、明日のために高級なヘアトリートメントを惜しげもなく使った。顔に化粧水のパックをし、私は明日のために眠った。

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