私のレッスンは、ひとまずおしまい。





どく、どく。

心の臓の跳ね回る音が外にまで聞こえるような緊張の度合い。少年のがちがちに固まった肩を、腰を、脚をそれぞれ、ぽん、ぱしん、ぴしりと少しずつ力を強めて叩く。



「70点!」


「わっ、つっ、痛いっ!

…な、何をするんだロザリィ!」


「くす。だってぇ、エドったら叩きたくなるような背中をしてるんだもの。かっちり固まっちゃって、まあいい音がしそうなことったら」


「なんだとぉ〜…!…って、あれ」


少年が全く同じ事をし返そうとして、しかし、まあ、見事に空を切る。そんなものお見通しだと言わんばかりに、くるりと肩の上に腕をかけておんぶのような形になった。


「ふっ」


「ひゃっ!」


どきり、と身体が一瞬揺れた。

その、耳部に吹きかけられた息は生きる為の器官から発せられたものではなくそれを模しただけのただの空気だ。そうであっても、だから湿っていて、温かった。


「あはははっ、変な声よエド。

それに膝から力まで抜けちゃって!変なの」


「お前、お前なあ!ボクがどれほど緊張していると…!」


「今は?」


「え?」


「今は、してる?」


「……して、ない」


「ん。そしたら胸を張りなさい」


「…うん」


「良し、それなら100点満点。

ようやく行けそうね」



今日は、件のダンス・パーティの日。

手紙に記されている時間が異なる事を先に調べ、正しい時間に目を覚まし。ずたずたになった服をするりと即座に縫い直して、準備は万端と相なった。でも、故にこそ恐ろしい。

そうだ、何故なら。



「……1人は、怖い?」


「…うん、怖いよ。ボクに到底できないんじゃないかと思った。いいや、思ってる。だからこうして馬鹿みたいに震えてるのさ。笑いたければ笑ってもいいさ。情けないだろ?」


そうだ。この先には1人で行かねばならない。確かに従者を備えて進む者はどこにでもいる。普通であるし、おかしいということはない。

だが、人形を連れて歩く子どもはどうだろう。ああ、あのような歳になっても人形離れの出来ない人間だと嘲笑の的になるだろう。また万が一にも喋り動き、歩く姿を見られてしまったらどうなるか。初めて、彼が邂逅した時よりも、ずっと大きなパニックが発生する。

だから彼は、1人で行かねばならないのだ。



「情けなくなんて、あるものですか」


いつかのごとく、久しぶりに。まるで予防線のように先に自らで自らを嘲って、拗ねるように下を向く少年を、人形は無理矢理に前を向かせた。そしてまた、いつかのように。ぎゅっと抱きしめた。


「怖がるということは、あなたは恐怖の価値を知っているということ。恐怖が何かを知ってる者の勇気は、それを知らない者の勇気より価値があるものよ。なにより、怖いもの知らずの蛮勇より、怖がりが出した勇気の方がずっとずっとかっこいいわ」


「怖がりじゃない…なんて、君の前じゃ言えないか」


「ふふ。…それに、怖がるということはそれから逃げたくて、仕方がないということ。そしてそれでも逃げない貴方は、何より立派。逃げ出したくて、今にも崩れそうでも。それでも立てる貴方はね」


「…もう、立派な大人よ」



その寂しそうな言葉を背中に浴びて。

そうしながら小さな主人は館を後にした。


「いってらっしゃいませ、ご主人様」



扉の前、『それ』は優美なカーテシーをした。お見送りをするメイドはその館には一つの影しかなく。その影の正体はつまり、人ですらない。

だけれどそれには、凡百のヒトよりも親愛と情を込もっていて、主の姿が見えなくなるまでずっと続けられていた。


その一つの影は、今は自分自身しかいない館をくるりと見返した。その、古びておためごかしのように見栄を張った無駄に大きな館。これはまさに、彼女の主人である少年を表していたようで、だからこそそれを磨き上げる事はロザリィは好きだった。


手入れを、する。小さな主人が居ないうちに、いつものように。あの頭でっかちの少年がよく入り浸り、忙しそうに、されど楽しそうに筆をとる車庫の机を拭き支える。毛布をかけた追想に、微笑む。

ふいごを吹かれたように、赤々と燃える夕焼けを窓から眺めて、暫くぼうとしてから、簡素な夕餉を作り始める。上手く行くにせよ、行かないにせよ、緊張で食事など碌に喉を通らないだろうから。




ぱき、り。

少し、連日無理を通しすぎたか、身体からあまりよくない音が鳴る。そんな体を、人形は俯瞰するように見返した。自分の忌まわしい体を、そうして見た。

ふと、身につけた服の全てを脱ぎ散らして、鏡の前でそれを見たのは、どうした気持ちだったろう。

少なくとも、ロザリィの幼い主人がいる時にはできない事だった。官能的な脱衣も、自らへの嘲りも。



(……ふふ)



醜い、アンバランスな体。

醜さとは形だけではない、意図も含め。きしりと軋む球体の関節や、取り出し洗浄もできる碧玉の眼球に、不自然な人形線。それと不釣り合いなように誇張された胸部、臀部はシリコーンじみた弾力のある素材で作られ、舌の根と先がざらつき、溝の彫られている。彼女の身体は、つまりは『そうした』こともできるように作られている。変態的な欲求を満たす為の、醜い体。

だが醜さの本性は、そうだからではない。

彼女の醜さの本質はそんなものではない。

彼女の呪いと醜さはつまり、作られた方法に依る。



そうして見返して、想う。

生意気に見えて何よりもまっさらで、ただ心を守る為に、防衛機制での反発を繰り返していた彼のこと。彼と初めて出会った時のことを。

この体で幾らでも腑抜けにすることもできた。またその宿る呪いで、気を失っている間に精神の均衡を奪うこともできた。ところが、彼女はそうはしなかった。

なぜだったのだろう?赤ん坊のように隙だらけだったから、いつでもそうできるだろうという油断からだったろうか?


彼女自身、よくわかっていない。

そんな揺らぎは、まるで人のようだ。


人よりも完璧に。だけれど人らしく。

そんな矛盾じみた偏執と狂気から産まれた呪物だからだろうか、彼女のおぞましい実態はしかし、人によく似ていて、それ故に人から遠い。人よりも優れていて人に近い故に、人からは最も遠い。



(そろそろ潮時、かしら)


永遠の幼生はいつまでも横にいることを担保する。だけれど、だからこそ。輝かしくある未来に、自らのような呪われた穢れた存在を横に置いてはならないのだと、思うことが多くなった。

気まぐれに、彼を育てた。

籠絡でも支配でもなく、成長を望んだ。

そうした故に、彼は大人になりつつある。


だから大人にはもう、遊戯の人形は要らないのだ。



「…あら?」


人の気配がする。

想像よりもずっと早い帰宅に、慌てて衣服を改めて纏う。黒く、ひらひらとした蝶のようなゴシックの服は改めても美しい布で出来ていた。濡鴉の色とは、髪を例えるにのみ使う言葉。しかしその服の色はそうとしか喩えることができない。



「おほん。お帰りなさいませ、ご主人様」


「よしてくれよ、ロザリィ。

今更そうされても、違和感が凄い」


「あら。要所要所ではちゃーんとこの使用人モードでちゃんとしてるでしょ?失礼ね、まったく。

…にしても、随分と早いご帰宅だったわね、エド。上手く行かなくて、尻尾を巻いて逃げてきたの?」


「バカ言え、上手くは行かなくても逃げなんてするものか。そうじゃなくて、ボクはその、なんだ。途中でやっぱり、悩んでたんだけど、思い直してだな」


「なあに、煮え切らないわね。

男の子なんだから、まず結論を最初に」


「…うん。だから、その。一緒に行こう、ロザリィ。ボクの晴れ舞台の横には、君が必要だ」


少年はそう、言う。

少しバツが悪そうに。それでも迷わずに。



「…は?あなた、ね。

前も散々話したじゃない。ドールを連れてあるく男なんて、そんなの有り得てはならないの。だからいくら一人で不安であっても私は──」


「違う、そういうのじゃないんだ!

だからだな、ボクは…ッ」



かあ、と頭に登った血を下ろすように、そっと深呼吸をするエド。そうしたところからも、ああ、この子はもう大人になりつつあるのだと、実感する。



「…ボクが今、こうなれているのはキミのおかげだ。こうして着ている服や、礼儀に、その全てが。

こうして立っている全てがキミのおかげなんだ。だから!…だから、一人だと不安だからとか、一人だと出来ないとかそういう意味じゃない。だから、つまり、ボクは一人のレディとして。キミを招待したいんだ」



「だから、レディ・ロザリィ。

ボクに貴女を、エスコートさせて欲しい」



主人が跪き、彼女の手を取り口付けをする。

それは有り得てはならないこと。

主従関係の意味でも、そして、人と造られた人形という意味であっても。だけれどそんな関係の当たり前など、彼らにどれほどの意味があろうか?それこそ、今更だ。



「………あ、きれた。私を、エスコート?

それに、その、なに。えっと…」


彼女、らしくもなく。歯切れの悪い事を言って。そう暫くしてから、諦めたような一言。



「………いいの?」


「うん。ずっと、悩んでいた。

だからもう、迷いはないんだ」


「…今の、いいの?って質問はつまり、これから先貴方は晴れ舞台に人形を連れて行くような変人として扱われるわよ、ってこと。社交場に愛玩用のドールを連れてくるような、とんだど変態として、ずっとね。それでもいいの、って聞いてるのよ」


「それでいい」


「………まったく。まだまだ、子どもね」


諦めて、笑うように手を握り直す少女。

心の奥底とは、真逆の言葉を口にして。

その一言に安心したように、エドが頷く。



「…うん。ボクは…ボクはまだ、子どもでいい。

それなら…」


「それなら、なあに?」


「そうでいる限り、ロザリィがいてくれる」



…薬と毒の間に、それらを区別する確かな違いは無い。ただそこにあるのは、人に益をもたらすか有害か、というだけ。だから、その呪いは毒であった筈だけれど。ただ少年には、苦薬であって、そしてまた蜜より甘い、甘露だった。それはそして、少年を確かに救ったのだから。



「…さあ、行きましょうか、エド。

貴方の言う通りに、ついて行くわ。

ああ、だけれど、さすがに他の人がいる所で喋ったり動いたり、アドバイスしたりはしないわよ?私だって壊されたりするのは怖いもの」


「うん、それでいい。

…その、急に無茶を言って、ごめんな」


「いまさら、よ。それにそういう時はごめんじゃなくって……」



「…うん、ありがとうロザリィ。僕の…」


「僕の、なあに?」


「…思いつかない。

メイドみたいで、姉みたいで、母上みたいで。違うな、もっと色々喩えられそうなんだけど、それでも」


「くす、くすくす。そんな悩むことなんて、無いわ。それはわかりきってることでしょ?」



「わたしは、あなたの、人形よ。

ね、ご主人様」



そうして、彼らは手を繋いだ。

不釣り合いな背丈と、おかしな見た目。

だけれどそれは、彼らには何も関係ない。

関係の流転と転換なんて幾らでも起きてきたことだ。とうに、飽きるくらいに。


だから、レッスンは一度おしまい。

教えるものが、なくなったとしても。

それでも子どものままでいいと思ってくれるのならば、それは人形の本懐。それがたとえ、成長を妨げる呪いであったとしても、それこそは呪いの人形の、本懐だ。


呪いの人形は、そうして彼を愛したのだ。

その顔を、ただ心からの笑みに歪ますほど。




……




その、舞踏会がどうなったか。

それについては語る口はない。

ただそれがあったという、事実は残る。




そして、これもまた事実として。


幾年が、経つ。

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