2回目 後編
それからの日々は……決して、楽しいものではありませんでした。正直、あまり思い出したくは……。
──ああ、いえ。大丈夫です。今日は、お話するつもりで来ていますから。はい……。
洞窟の中には窓がなかったので、時間の感覚はありませんでした。ただ、その、最初に見た怪物──ひょろっと背が高かったので、私は勝手に『セイタカさん』と、心の中で呼んでいました──が食事を運んでくれるんですね。その内容で「ああ、これは朝ご飯だな」とか「これはお夜食ね」とか、何となくわかりました。
私を、抱きに来る怪物は……毎回同じというわけではありませんでした。大きいのや小さいの、太ったのや痩せたの。色々でした。同じ怪物が何度も来ることもありました。
そう……要するに、私は怪物の為の娼館みたいなところへ、攫われてきたんですね。
──そうですね。辛かったです。自分の体も、とても辛かったですけれど、何より娘のことが、ずっと……ずっと心配で……。怪物へ、娘は何処にいるのか、無事なのか、と問いかけても、言葉が伝わらない様子でした。
ひとつだけ癒やしだったのが、猫ちゃんですね。ことが終わると、セイタカさんが私のところへ連れてきてくれるんです。よく懐いてくれて、本当に可愛くて……。ああ、あと、ご飯は美味しかったですし、着る物にも困りませんでした。温かいお風呂に入れるのも嬉しかった……。だから元の暮らしを思うと……ほんの少しだけ……いえ、あくまでも今思えばですけれど、元の暮らしよりはマシかも、と思うこともありました。本当に時々……現実逃避に過ぎませんけれど……。
ですが、そんな僅かな喜びも吹き飛ばすくらい、怪物との交わりは悍ましいものでした。中には優しくしてくれるものもおりましたが、多くのものが叩いたりひっかいたり……ひどいと噛みついたり首を絞めたりしてくるものまでおりました。だから、いつも傷だらけで……。その傷をね、猫ちゃんが舐めてくれるんですよ。本当は痛いから嫌だったんですけど、でも、嬉しかった……。
──数年が経ちました。きちんと数えていたわけではないので、実際に何年経ったのかは、ちっともわかりませんでしたけれど。暑さ寒さや、食事の内容なんかで、何となく季節はわかりました。
冬のことでした。
ここひと月ばかり、頻繁に来る怪物がいたんです。
最初のうちは、比較的優しい方で。『あたり』って言ったらあれですけれど、まあ楽な『お客さん』でした。
ですが、ある時を境に──何がきっかけなのかは全くわからないのですが──少しずつ変わっていったのです。
はじめのうちは、こう、ことの最中にピシャリとお尻を叩いたりね。それぐらいでした。それがだんだん叩く強さや回数が多くなっていったり、爪を立てるようになったり、噛みつくようになったりと、過剰に痛めつけてくるようになったのです。
ここまで酷く痛めつけてくる客は稀でしたし、常連さんの中ではそこまで酷いことをしてくる怪物はいなかったので、その怪物が来るのが、日に日に恐ろしくなってきました。
ある日、私が猫ちゃんを膝に乗せて、ぼんやりと蝋燭の火を眺めていると、遠くからどしどしと、怒ったような足音が聞こえてきました。何か揉めているような、そんな話し声も聞こえます。何だろうと思っていたら、足音の主は私の──私の部屋の前まで来て立ち止まりました。
それは例の常連客でした。そいつは手早く格子の鍵を開けると、小柄な身体を捩るようにして入口を潜りました。私は恐ろしくて……小さく叫んで後ずさりました。
怪物はその短い腕を素早く私の方へ伸ばしてきました。そして……私の膝の上の猫ちゃんをひょいと摘み上げたのです。
直感的に「食べられてしまう」と思い、大声で「やめて」と言いながら猫ちゃんを取り返したのです。怪物は腹が立ったのか、私の頰を一発、思いっ切り叩いてきました。壁まで吹き飛ばされ、背中を強か打ちました。
通路の向こうからセイタカさんが走ってきました。見たことのない怪物二匹も一緒でした。怪物達は常連さんの肩を掴んで、何か怒鳴っていました。しばらく、何かやりとりをしていました。少し落ち着いたのか、常連さんは私を一瞥すると、他の怪物達と一緒に部屋から出ていきました。
セイタカさんが最後に出て鍵を閉めました。その時、私に向かって何か言いました。たぶん、心配してくれているのだろうと、声色でわかりました。なので私は「大丈夫」と一言、返しました。
その夜はお客さんは来ませんでした。少し背中が痛みましたが、猫ちゃんが無傷だったので、私は満足でした。
数日後の、昼間のことでした。
食事の時間でもないのに、セイタカさんがやって来たのです。これは、初めてのことでした。
セイタカさんはぼんやりしている私に、ひとつの包みを渡してきました。不思議に思いながら開いてみると、中には大人用のものと子供用のもの、二組の洋服と靴が入っておりました。どうやら、着替えろと言っているようでした。
反抗する理由もないので、私は膝から猫ちゃんをおろすと、着ていた着物を脱いで、大人用の洋服に着替えました。
着替え終わって後ろを向くと、セイタカさんが『こっちへ来い』と言うように手招きしてきました。お風呂やお手洗いの時以外で部屋から出るなんて、今まで一度もありませんでした。
私が立ったまま逡巡していると、セイタカさんは優しく私の手を取りました。ふふ……見た目に似合わず、温かい手でした。
セイタカさんは私の手を引いて、部屋の外へと連れ出しました。猫ちゃんは私の後をついて来ます。
通路を右に左に、くねくねと曲がって、階段を上りました。その間、他の怪物には出会いませんでした。
ひとつの扉の前で、セイタカさんは足を止めました。周りを警戒しているようです。そうして、扉をそうっと開けると、私に「行け」と手招きしました。
忍び足で扉を潜ると…………そこは、外のようでした。『ようでした』というのも、お日様が眩しくって、しばらくの間、何も見えなかったのです。突っ立っている私を、セイタカさんが後ろから抱きかかえるようにして歩かせました。
だんだん目が見えるようになると、周りの建物や、道行く人々の姿が見えてきたのです。──そう、そうなんです。私はてっきり怪物の世界の只中に連れ出されたのかと思ったのですが、そこは人間の世界だったのです。
ふと、気がつくと、セイタカさんの姿が見えませんでした。呼ぼうにも名前を知らないので、どうしようもありませんでした。
呆然と立ち尽くしていると、足元で猫ちゃんが「にゃあ」と鳴きました。
するとどうでしょう、猫ちゃんの姿がみるみる変化して、人間の、女の子になったのです。その女の子は……その女の子は……ええ、ずいぶんと大きくなっていましたが、母親ですもの。見間違えるはずがありません。私の……私の娘だったのです。
娘は、私の手を掴んで、不安そうに見上げていました。
私は、しゃがみ込んで、娘の体を強く抱き締めました。
その時、私の足元に何かが置かれていることに気が付きました。それは洋服が入っていた包みでした。何気なく持ち上げようとすると、ずしりと重たくて。何だろうかと包みの隙間から覗いてみると、それは沢山のお金でした。
私、びっくりしちゃって。包みを抱えて、娘の手を引いて、冬の町を走り出しました。
こうして、私の二度目の神隠しは終わったのです。
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