1回目 後編
──鬼の住処での暮らしは……意外なことに、そこまで悪いものではありませんでした。悪くなかった、と言うよりは『嫌な記憶が無い』と言ったところでしょうか。いつも頭がぼんやりしていて、どこか夢見心地のようだったのです。
鬼は、身体が大きくて毛むくじゃらな男の鬼と、髪の毛がモジャモジャの女の鬼の二人しか見ませんでした。男の方が赤鬼で、女の方が黒っぽい鬼でした。男の鬼はいつもお酒臭くて、お寺さんで見せてもらった地獄絵みたいに、腰巻きひとつの姿でした。女の鬼はいつも洋服のようなものを着ていましたね。
──そこでの生活は……朝起きると、女の鬼が食事を持ってきてくれます。女の鬼は私が食べ終わるまでは部屋の隅に立っていますが、食べ終わるとサッと食器を片付けていなくなってしまいます。その後は窓の外をぼんやり眺めたり、部屋に置かれたお人形で遊んだり……。部屋の扉は鍵がかかっていて、それは内側から開けられないようになっていましたし、窓にも錠がつけられていたので、自由に外に出ることは出来ませんでした。時折、女の鬼が窓から見える草原へ連れて行ってくれたように思いますが……何故か、あまり覚えておりません。
男の鬼は普段はこの住処にはいないようでした。何日かおき──あまり時間感覚がなかったので定かではありませんが──に何処からかやって来ているようでした。男の鬼は足音も声もうるさくて、来るとすぐにわかりました。そうして私の部屋にやってくると……あの不思議な香りが匂ってきて……気が付くと私はベッドの上で寝ているのです。もうその時には男の鬼はいなくなっています。その後は決まって身体のあちこちが痛くて、痣になっているところなんかもありましたので、きっと私は意識を失っている内に地獄の責め苦を受けさせられているんだろう。と、そう思いました。
──え? ああ、地獄の責め苦を受けていたのに『悪くない生活だった』というのはおかしいんじゃないかって? まあ確かに、言われてみればそうですね。ただ、実際にその責め苦を受けている間の記憶はありませんし、何より食べるものに困ることがありませんでしたから。うちは貧乏で、ひもじい思いも沢山したので……。
とにかくそんな毎日で、常に何処か夢見心地というか、現実感のない日々でした。最初のうちは家に帰りたいと泣くこともありましたが、段々と慣れてしまって……ただただぼんやりと過ごしておりました。
──そこでの暮らしは、体感としては数ヶ月程度だったように思います。でも実際には、やっぱり何年もいたんだと思います。その家に初め来た時と比べて背が少し伸びて、あの……胸も膨らんできたり、月のものも……ねえ、色々と……身体は確かに成長していましたから。でもどうにも……そんなに長いこといたような気がしないんですよ。鬼が住んでいるような場所ですから、時間の流れがこちらの世界とは違ったのかも知れませんね。
……ごめんなさいね。ずいぶん昔のことなので、覚えいるのはそれくらいなんですよ。以前はもう少し覚えていたと思うんですけれど……。
──ああ、はい、こちらの世界に戻って来た時の話ですね。ええ、もちろんそれは覚えております。
鬼の住処に来てからかなり経ったある日、男の鬼がバタバタと慌てた様子でやって来ました。珍しく洋服を着ていたので、私はちょっと笑ってしまいました。だって、ねえ、何だか可笑しくって……。男の鬼は私がクスクス笑っているのを気にもせず、私の腕をグイッと引っ張って部屋の外へ連れ出したのです。女の鬼が慌てて何かを叫んでいました。そうするとまたいつもの香りが漂ってきて……。
次に気が付くと、私はいつか見た、あの暗い景色の中にいました。そうです、あの真っ暗で、汚らしい匂いのする部屋の中にいたのです。たぶんそこは、此の世と彼の世の境目のような場所だったんだと思います。私は暗闇の中で耳を澄ましてみましたが、誰の声も息遣いも聞こえませんでした。やはり遠くからごーっと低い音だけが聞こえていました。
──ああ、いえ、特に恐怖は感じませんでした。……何故? 何故かと言われましても……そうですね、家に帰れるんじゃないかという期待もありましたし、鬼の住処より悪いところには行かないだろうという希望的観測もありました。子供だったんだと思います。
暫くすると──笑わないで下さいね──緊張感のない話ですけれど、だんだんと眠くなってきました。私はベタベタとして生臭い床の上に横になり、目を閉じました。
目を覚ますと、私は夜の港に立っていました。辺りを見渡してみましたが、誰もいないようでした。暫くぼうっと突っ立っていたのですが、鬼達もいないようでしたので、私はふらふらと歩き始めました。足にはいつの間にか、見慣れない靴を履かされていました。こんな風に自由に歩いたのは久しぶりで、私は段々、楽しい気分になってきました。
その時「おい」とか「ちょっと」とかいった声が何処からか聞こえてきました。男の人の低い声です。あの鬼かと思って身が竦みました。しかし、後ろの方から歩いて来たのは、懐中電灯を持った人間の……人間の男の人だったのです。
──ほっとした、というよりは……やっぱりちょっと怖かったですね。驚きましたし。その男の人は「こんなところでどうしたんだ?」と、優しく声をかけてくれたのですが、私も、ねえ、どうしたんだか、ちっともわからなかったもんですから……。黙っていたんです。そうしたら、事務所のようなところへ連れて行って下さって。
事務所に着くと、男の人はお茶の入った湯呑みを渡してくれました。久しぶりに飲んだお茶の味は、何だか身体に染み渡るようで、ああ此の世に帰って来たんだという実感が湧いてきました。おせんべいも食べましたよ。美味しかったですねえ……。
……ああ、そう、それで男の人はまた「こんなところでどうしたんだ?」と聞いてきました。ですが、私は「わかりません」としか答えられませんでした。そうしたら今度は名前や年齢、住んでいるところを聞いてきました。名前はすぐに答えられましたが、年齢はやはり「わかりません」としか答えられませんでした。なので「今は昭和何年ですか?」と聞いてみたら、なんと「昭和二十三年だ」というじゃないですか。私、驚いてしまって。だって、ねえ、彼の世にいたのは長くても数年のことと思っておりましたから……。私は指を折って計算して「(数えで)十八」だと答えました。そうしたら男の人は訝しんだ顔をして……後から聞いたら十二、三歳に見えていたそうですよ。やっぱり彼の世と此の世じゃ、時間の流れが違うんですねえ……。
──ああ、それで自分の家は何処にあるのかと聞かれたので、秋田県のI村だと答えました。そこで初めて知ったんです。そこが横浜の港だったって。
こうして、私の初めての神隠しは終わったのです。
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