1回目 前編
──生い立ち、ですか。いえ別にね、そんな生い立ちだなんて大層なものでは無いんですけれど……。
私が生まれたのは昭和六年、四月です。秋田県の、I村という村なんですが……もう、ねえ、今は村もなくなっちゃったそうで…………。
──え? ああ、方言……。方言はねえ、もうすっかり。すっかり忘れちゃってね……。本当に、寂しいことですね……。もう昔のことは余り……ずいぶん昔のことなのでねえ。ごめんなさい。
──ええ、きょうだいは二つ上の兄が一人と、弟と妹が一人ずつおりました。私はお兄ちゃん子で、兄──壽一というのですが──の後ろをいっつも追いかけていました。本当はね、弟と妹にもっと姉らしい事をしてあげなきゃいけなかったんでしょうけれど……全く、甘えん坊で、本当に恥ずかしいですね…………。
──ああ、ごめんなさい。初めて神隠しにあった時の話ですね。ええと……あんまりお喋りは上手じゃないものですから……。わかりづらいところや忘れているところもあるでしょうけど……ごめんなさいね。
あれは……私が八歳の時、昭和十四年の二月のことでした。兄は家の仕事を手伝っていて、私は弟妹と三人で、近くの神社で遊んでいました。お守りですね。下の子達が、大人達の仕事の邪魔にならないようにと。
その日は二月にしてはお日様が暖かくって……。隠れん坊だとか鬼ごっこだとかさんざん遊んだ後、境内の隅っこで──罰当たりなことですけれど──こう、ね、三人でごろんと寝転んだんです。三人でね「疲れたね」だとか「休んだらまた鬼ごっこしようよ」だとか……懐かしいですね……。
そうしたら私、ついうとうとと、眠ってしまったようなんです。
気が付くと、知らない雑木林の中におりました。初めは夢か何かだと思いまして、特に怖がるということもなく、寝転んだままぼんやりと景色を眺めておりました。
──ええ、見覚えのない場所でした。うちの村の近所にも、雑木林だとか森だとかありましたけれど、はっきりとそこは、ええ、見覚えのない場所でした。
しばらくして、私、弟妹がいないことに気が付きまして。はい、飛び起きました。まだ数えで五つと三つの子なので。姉である私と、あまり離れては危ないですから。それに……もし怪我でもさせたら、父と母に怒られますし……。ねえ。
それで私、二人の名前を呼びながら、雑木林の中を探し回ったんです。林はかなり広くて……終りが見えないくらい広かったんです。二人も全然見つからなくて……。
どれくらいでしょう、ずいぶん長いこと探していた気がしますが……多分、実際には大した時間は経っていなかったような気もします。突然、体に何かがどしんとぶつかってきまして。そうしたら、ふうっと眠くなるような心地で、私は意識を失いました。薄っすらと、体がこう、宙にね、浮いたような感覚だけを覚えています。
次に気が付くと、見覚えのない、何だか汚らしい部屋の中にいました。汚らしいといっても、真っ暗で良くは見えなかったのですが、何だかとっても汚らしい匂いがしたのを覚えています。何となくですが、部屋の中には私以外、誰もいないように感じました。遠くの方から、ごーっとか、ゴリゴリとか、そういった低い音が聞こえていました。空気は湿っていて、ひんやりとしていました。
私、怖くなって逃げようと立ち上がったんですけれど、どうやら酷く狭いところに入れられていたようで、半分立ち上がったところで天井に頭をぶつけてしまいました。「助けて」と叫ぼうかとも思ったのですが……。いえね、真っ暗なこともあってか、父や母から聞かされていた鬼や天狗の話なんかを思い出してしまいまして。これは、神隠しにあったんだ、と気付いたんです。だから叫んだりしたら鬼や天狗に食べられてしまうと思って、怖かったんですけど、必死に口を塞いでおりました。その後しばらくは気を張っていたのですが、まだ子供でしたので、いつの間にか、眠ってしまったようでした。
その後は……かなり記憶が曖昧なのですが……次に頭がはっきりとしたとき、私は、草原に寝そべっておりました。暖かい風がそよそよと吹いていて、とても気持ち良かったのを覚えています。可愛らしい蝶々が、鼻先を飛んでおりました。
起き上がって見ると、私は真っ白い服を着ていました。見覚えのない服です。私のではありません。──ええ、そう、まるで死人が着るようなね、着物に見えました。おかしいな、と思ってぼんやりしていると、遠くから声が聞こえてきました。
声のする方を向くと、鬼が──ええ、はい、鬼です、鬼。鬼が私を、こう、手招いて、何か言っていました。鬼は、その、上半身裸で、毛むくじゃらでねえ、絵で見た地獄の鬼そのものでした。何を言っているのかは解りませんでしたが、とにかく恐ろしくて……私は叫んで走り出しました。何処へ逃げたら良いのかなんて、全く分かりませんでしたけれど、とにかくがむしゃらに走りました。
そうしたら、視界の隅から女の鬼──こう、ね、髪の毛がモジャモジャしたやつです──が飛び出してきました。すると、何処からともなく良い匂いがふわあっと漂ってきて……私の意識はまた遠ざかっていったのです。
目を覚ますと、見知らぬ部屋の中にいました。鬼の住処だと思いました。ですが、そこは鬼の住処には似つかわしくない、見たこともないような可愛らしい家具に囲まれていて、窓の外から差し込む光に満ちていました。私は、これはきっと鬼の見せる幻覚なのだろうと思い、部屋の隅で怯えて小さくなりました。
しばらく震えていると、部屋の扉の向こうから、鬼の野太い声で意味不明の言葉が響いてきました。私は家具──とても大きなベッドでした──の下に咄嗟に隠れました。声はすぐに聞こえなくなりましたが、私はそのままじっと息を潜めていました。
どれくらいそうしていたのでしょう。窓の外が段々と暗くなってきました。私は……恥ずかしながら尿意を覚えてきました。鬼の気配はしませんでしたので、私は慌ててお手洗いに駆け込んだのです。……不思議でしょう? 初めて見た部屋のはずなのに、お手洗いの場所──それは部屋の中にありました──も、その使い方もわかったのです。だから、私は「ああ、これは夢なんだ」と思いました。よくよく考えてみれば、着ている服も可愛らしい家具たちも、いつか何かで見た西洋風のデザインと似たものでした。弟妹たちと鬼ごっこをして、いっぱい走って疲れてしまって、神社の境内で眠ってしまったんだ……ここは夢の世界なんだ……。そう思うと、少しだけ気持ちが楽になりました。
お手洗いから出ると、私は念の為、またベッドの下に隠れました。緊張が少し解れると、ふいに眠気を感じました。夢の中で眠気を感じるなんて可笑しな話ですけれど……。そしてそのまま、眠ってしまったのです。起きたら、きっと神社の境内に戻れるのだと信じて……。
しかし、それは夢ではなかったのです。
目が覚めると、私はベッドの上に寝かされていました。体があちこちいたかったのは、床で眠ってしまったからでしょうか。目の前にはあの女の鬼がおりました。私はまた叫びそうになったのですが、金縛りにあったかのように声が出ませんでした。部屋の中には、草原で嗅いだのと同じ良い香りが漂っていました。女の鬼は私の目の前に、御膳に乗った食事を運んでくれました。野菜のスープと、潰したお芋だったと思います。食欲は無かったのですが、女の鬼がこちらをじっと見ていたので、仕方なく口に運びました。私はただただ恐ろしくて……味なんて全然わかりませんでした。
それから、私はその鬼の住処で暮らすことになったのです。
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