風に隠した

たちばな

風に隠した

 ざざーん、と涙の音がする。海特有の、潮の匂いが鼻をくすぐった。青く濁った海の色と、隣に立つ先輩の沈んだ目の色がよく似て見えた。

「さすがに人いないっすねー。まだ七月っすもんね」

「だなー」

 あたしが呼びかけると、先輩は生返事をした。明らかに心ここにあらず、みたいな、ぼんやりした声。先輩がこう静かだと、どうにも調子が狂う。それに、心配だ。だから今日は部活もサボって、先輩を海に連れてきたのだ。

 先輩の視線を感じて、あたしは先輩の方を見た。そんなわけないのに、目は海風で揺れるあたしのスカートと、その下の足に注がれてるような気がして、ちょっとからかってみる。

「あーどこ見てんすかあ? 先輩のえっちー」

「見てねーし」

 ぷい、とそっぽを向いた先輩のワイシャツが、風にざあっとさらわれていく。高校はクールビズ期間に入ったのに、まだつけたままのネクタイが、風ではためいて先輩の顔にびたんと当たった。

「うおっ!」

 驚いた声と顔が、何だかおかしかった。あたしは思わず吹き出す。

「あはは! 先輩、びっくりしすぎっすよお」

「びっくりするだろー。くそ、明日からネクタイつけるのやめるわ」

 明日から夏休みなのに、先輩はそうぼやいた。お互い何となく黙ってしまって、あたしは水平線を見つめた。曇り空だから、はっきり見えない。

「先輩。せっかくだし、入りましょうよ」

「入る? ……って、紺野は水着持ってきてんの?」

「ばかですねえ。持ってきてるわけないでしょう、足だけ入るんすよ」

 あたしはローファーと靴下を脱いで、浜辺に置いた。細かい砂粒がくすぐったい。

「ほら、先輩も」

「お……おう」

 あたしに言われて、先輩も若干困惑しながらスニーカーと靴下を脱いだ。スラックスの裾をまくっている。

「気合い入ってるっすねー」

「いや、こうしないと濡れるだろ? 紺野も……って、あースカート短いから良いのか」

「ガン見しないでくださいってば」

「見てねーから」

 あたしを笑いながら睨んで、先輩は案外躊躇なく海に入った。「あー、ぬるいな」と残念そうな顔をしている。

「ぬるいっすか?」

 あたしも海に入った。波が足の指の間を通り抜けていく。思っていた冷たさはなくて、確かに、ぬるい。

「……あーぬるいっすねえ」

「だな。まー曇りだし、そんなもんだろ」

「そっすね」

 先輩は足でばしゃばしゃ、足だけは楽しそうに水を跳ねている。でも顔は、水面に視線を落として暗いまま。

 あたしは少し悩んで、両手に水をすくった。

「先輩」

「ん?」

「いきますよー!」

 勢いをつけて、あたしは先輩に水をかけた。ばしゃ、と軽い水音。「うわ!」と先輩は悲鳴を上げて、ばしゃばしゃと足踏みをする。顔に水が跳ねたのか、先輩は頬を拭っている。

「ちょ、急に何すんだよ!」

「あははー、隙だらけっすねえ。やり返して良いんすよ?」

「良いのかぁー? 俺は手加減とかしねーぞ?」

「あらあら、大人気ないっすねー」

「たった一個の年の差だぞ! 大人気ないも何もあるかっ」

 本当に手加減を知らない先輩は、大きい手で水をすくって容赦なくあたしにかけた。腕にかかった水は、冷たかった。

「きゃっ! もー、冷たいなあ」

「ほらほら、やり返してみろよー」

 あたしがやり返す。先輩がまたあたしにやり返す。そんな中で、先輩はにやにや笑っていた。あたしが顔を狙い過ぎたせいで、先輩の顔は水できらきら光っていた。

「……あー、疲れたっすね」

「だなあ。こんなにはしゃいだの小学生の頃以来だ」

「あたしもっす」

 はしゃぎ疲れて、あたしと先輩はぼんやり海に立った。何だか足がくすぐったいので、波打ち際を意味もなく歩く。先輩は濡れてぺたっとしてしまった癖っ毛がうっとうしいのか、しきりに顔を触っていた。

「……ねえ先輩」

「んー?」

「……今なら、顔についた水は全部海水、ってことにしてあげるっすよ」

 風の音に混じって、先輩が息を呑む音がやけにはっきり聞こえた。顔を見ると、目を真ん丸にして、眉を歪めている。

「……何、言ってんだよ」

 先輩の唇が震えている。明らかに上ずった声。あたしの知らない先輩に、ちょっとどきりとしてしまった。でも、続けて言った。

「今だけ、っすよ。あたししか見てないっす」

 ざざーん、という遠い波の音と、先輩がずっ、と鼻をすする音が重なった。先輩の顔を、ぽたぽたと水が伝っている。

「……なん、で、紺野」

 先輩は立ち尽くしたまま、片腕で目元を隠した。ひく、ひく、と肩が震えている。

「何で……」

 それをきっかけにして、先輩はうつむいてしまった。表情は良く見えない、けど唇を噛んでいる。

「……何か、あったんすよね」

 あたしが訊くと、先輩はそのままの姿勢で顎だけ動かした。

「……好きな、人に、……告白して、フラれた」

「……」

「他に、好きなやつが、……いる、んだってさ……」

 頼りない語尾が、波の音に消される。先輩の喉から、うぅー、と細い唸り声が漏れた。

「フラれたら、っこんなに悲しいんだな。俺、っ、初めて知ったわ……」

 いつもの明るい感じとは対照的に、先輩はぐずぐずと鼻を鳴らしている。あたしはポケットからハンカチを出して、先輩に近づいた。

「良かったら、どうぞ。あんまり泣くと目が赤くなるっすよ」

「……ん、大丈夫。……それに、俺は泣いてない。……これは海水だ、って、紺野が言ってくれたんだろ」

「……あ。あはは、そっすね」

 先輩は片腕をどけて、ぐいと口角を上げた。目元に水が光っている。つうっと一粒、その水は頬を伝って海に吸い込まれるみたいにして落ちた。

「紺野さあ、何で分かったの」

「……。簡単っすよ。先輩がいつもの間抜けな笑顔してないから、何かあったのかなあ、って」

「間抜けは余計だろ。……そっかー、俺そんな分かりやすいのかあ。はは、だせー」

 ださくなんてないっすよ。とは、言わなかった。先輩は再び、波打ち際を歩き始めた。まだ鼻はすすっているけど、最初に海に入った時より吹っ切れたみたいな顔で水面を見ていた。

「……ありがとな、紺野」

「ん、何がすか」

 あたしは先輩の顔を見た。潤んだ綺麗な目が、あたしをまっすぐに見ていた。

「俺がへこんでんの見て、海に連れてきてくれたんだろ。紺野がいてくれて良かった、って思った」

「……そっすか」

 とくん、と心臓が苦しくなる。ほんの少し先輩から離れて、あたしはゆっくり笑顔を作った。

「あたしは先輩の友達、っすから」

 ……そう。あたしは先輩の、。先輩がまた笑顔になってくれればそれで良い。先輩の笑顔のためなら、あたしは自分の本当の気持ちも無視できるんだ。

 先輩はいつもみたいに間の抜けた、あたしの見たかった顔で笑ってくれた。風がまたざあっと吹いて、あたしの熱い頬を冷やしていった。

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風に隠した たちばな @tachibana-rituka

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