第三章 手紙
3-1
夏が過ぎた
理由は単純で、バーナードが貴族階級の出身だからだ。
兵士には貴族も平民もいるが、メイスフィールドは伝統的に貴族制を
その方が、下の者も心理的に従いやすく、精神的な安定が得られる、と。
(貴族とは、決して横暴な支配者を意味しない。上に立つ者として、自己
事情は痛いほどわかるのだが、戦場において
「指揮官になると、
そのやりとりを見ていたコンラッドが、
自分も貴族の
*****
「さっきの件、ありがとう。今度は断りきれないと思っていたから、本当に助かった」
コンラッドにかばわれた形になったバーナードは、食事で顔を合わせたときに、
「その代わり、隊の再編制があっても、バーナード・アストンは常にうちの隊だとゴリ押ししておいた。俺にとっては役得だよ。お前がいると隊員の生存率、ひいては作戦の成功率が上がる」
「上がっても、たかが知れている。ここでは毎日あっさりと、あまりにも多くのひとが死ぬ」
「そう言うお前は、この部隊の中では一番最後まで生きて戦場にいるぜ。
バーナードは
コンラッドは、にやにやとしながら「お前は絶対に
「死ぬのがわかっていても、逃げ出す者は多くないんだけどな。その中にあって、逃げ出して生き延びた
「デマって、どういうことだ?」
「それこそ、自分が有利になるような、ありとあらゆることだ。なにしろ国を守って
それが、戦後に俺達が目にする光景だろうさ、とコンラッドは冷ややかに言い終えて を閉ざした。
バーナードは、無言のまま空いた左側の席を見た。
(昨日までそこにいたひとが、今日はいない。いなくなるその理由は
右側の席に視線を
「逃げた奴の言うことが正史になるというのは、どうなんだろうな。
コンラッドは、ちらっとバーナードに視線を流し「逃げるような奴には、それができるんだろうな」と答えた。
「『戦後』という未来を引き寄せるのは、いまここにいる兵たちだ。だが、たとえ生き残って帰っても、世界は戦場に立つ前と大きく変わっている。戦場で経験したすべてのことがその後の人生にのしかかってきて、口が重くなる。手を汚さぬまま逃げた奴は、ここぞとばかりに
バーナードは、ジャケットの胸ポケットの上から心臓を手で押さえた。
そこに、
なんだ? と数秒考える。その横で、コンラッドが話し続ける。
「その現実がわかっていても、俺たちはここに留まる。大切なものが
耳を
。
(なんだこれ。いつからここに入っていたんだ?)
思い起こせば、作戦前に受け取ったような
差出人を
チェリーより、とある。すぐには、
考えていてもわからないので、中の
【あなたが死ななければ良いだけでは?】
目に飛び込んできた文字列に、息が止まる。なんだこれは、と。
決して、うまくない字だ。情報も、全然足りない。
(これは本当に、
もう一度封筒を確認したところで、バーナードは自分でもびっくりするくらい、大きな声が出た。
「あっ! わかった!」
「なんだよ?」
コンラッドが、話を止めて|訝いぶかし》げな視線を向けてくる。
「このひと、俺の奥さんだ。奥さんから返事がきた!」
身を乗り出して「奥さん?」と手元をのぞきこんだコンラッドもまた、次の
「訳あり妻だ!」
「そう! 『チェリーさんは元気です』の、チェリーさん!」
「こう、思い切りの
コンラッドにしては
その気持ちも、わかる。たった一行では、感想を言うのも難しいだろう。
バーナードは便箋を見つめた。
書き慣れていないのか、子どものような字だ。
もしかしたら、チェリーという訳あり妻は、
どこかで訳ありの子どもを拾ってきて、家族に迎え入れた可能性も出てきた。
「返事を、書くんだよな?」
コンラッドが、探るように聞いてくる。バーナードは便箋を
「『死なないで』って言われてるんだから『俺は死なないよ』って返せばいいじゃないか」
「果たせない約束を書くのは、フェアじゃない」
「バーナード、わかっていないな。果たしたい約束があるからこそ、生きようと思うんだよ。『君を残して死ねない』って気持ちは、この先、お前の支えになるさ。必ず」
混ぜっ返そうにも、コンラッドの表情が
(まるで自分には、そういう相手がいそうなことを言う。俺にとって、チェリーさんは会ったこともない相手だぞ。思い入れなんて、何もない……)
なぜ自分と、見ず知らずのチェリーなる女性が結婚したのか。
前回の母親からの手紙の意味をよくよく考えた結果、母親と妹が遺族年金をあてこんだな、と思い至っていたのだ。この場合、家族の益になるのはバーナードの「戦死」であって「
「俺は、生きて帰っても、良いんだろうか……」
思わず
「良いに決まってるだろ。そんなわかりやすい手紙も、なかなかないぞ。訳あり妻のチェリーさんは、決してお前の死を望んでいない。さっさと返事を書いてやれよ」
力強く言われて、バーナードはひねくれた考えを、少しだけ反省する。
(コンラッドはこういうとき、いつも的を射たことを言う。情に厚くて、
バーナード自身、コンラッドには何度も死地を救われてきた。感謝というだけでは足りない恩があるとともに、いつか自分より先に彼が死ぬのではないか、とハラハラする気持ちにもなる。どこか危なっかしくて、見ていられないところがあるのだ。
「……わかった。俺はチェリーさんに返事を書く。コンラッドはどうする?」
「俺? 俺には手紙なんて来てないぞ?」
いきなり水を向けられたコンラッドは、
しかしバーナードは、コンラッドの視線が不自然に泳いだのを
「書きたい相手はいるだろ。そうじゃなきゃ、とっさにあんな言葉は出てこない。『君を残して死ねない』だなんて。そのひとのことを『守りたい』からコンラッドは戦場に留まっていて、戦後の世界をそのひとと見るために、生き残るつもりでいる。そういう相手がいるなら、お前がまず書けよ。俺に書かせている場合じゃない」
手紙を書きたいのは、コンラッドの方だろう、と。
「そんなに言うなら、何か書くさ。手紙じゃなくて、手記が良いかな。『戦場での日々』だよ。我々はいかにして、
コンラッドの
「そういうわけで、俺は手記を書く、お前は手紙を書く。善は急げ」
この日以降、コンラッドは取り
戦場を転々とする中で、コンラッドはそれを手紙としてどこかに送っていた。
そのコンラッドの横で、バーナードも、手記とは言い
二人の作業に気付いた仲間が、まだ死んでもいないのに「自分のことも書いてくれ」と言って近づいてきた。「お前は生きて帰れよ」と笑いあった三日後に、紙の前で彼にまつわる記憶を思い出そうとしていることもあった。
季節がまたひとつ
なお、戦地で書き記した文字数は多いのに、「妻」へ送った返事は、考えすぎたせいでたった一行になった。
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