2-3


「私とバーナードさんは、会ったこともないんです。ノエルは姉の子です。父親にあたる男性が、アストン家のしんせきけつえんにあたると、ヘンリエットさまは仰っていました」


 チェリーの後ろから、ノエルはちらちらとベッドのキャロライナを見ている。目が合ったキャロライナは、にこりとおだやかに微笑んで「よろしくね」と言った。わ、と照れたように、ノエルはチェリーのスカートにかくれる。


「ノエル、挨拶しなさい。キャロライナさんよ」


 チェリーがうながしても、ノエルは人見知りをしたままだ。キャロライナは、その態度をとがめることもなく、おっとりとした口ぶりで続けた。


従兄いとこのライアンのことよね。私は、何年前かに一度会ったきりになってしまったけど。この子は、似てると言えば似てるかも? 私のお兄様にも少し、似ているかしら」


 スープの皿を下げて、しワゴンに乗せていたチェリーは、ドキリと心臓を高鳴らせて動きを止めた。

(ノエルが、バーナードさんに似ているってこと? 奥様もそう言っていたわ。バーナードさんは、私と五さいちがいってマリアさんが言っていたから、二十代前半?)


 チェリーは思わず、さぐるようにノエルを見てしまう。この子の二十年後って、どんな感じかしら? と。だが、まったく想像がつかない。

 チェリーの視線の先で、ノエルはスカートのかげから飛び出して、ベッドまで走り寄った。


「こんにちは!」


 キャロライナは、嬉しそうに笑みを広げて「きちんとご挨拶できて、えらいわ」と返す。

 そして、目を合わせたまま「いまはお姉さん同士で話しているから、少し待っていてね」と言い聞かせてから、チェリーの方へと顔を向けた。


「兄様のしょうぞう画があればお見せしたのだけど、うちはずーっとびんぼうだったから、そういうお金のかかるものはないのよ。ご先祖様の肖像画なら、しょさいにいくつかあったけど……兄様とはそんなに似ていないと思う」


 キャロライナは「寝込みがちで体が弱い」とマリアから聞いていたが、瞳がきらきらとしていて、ひとなつっこく話し好きのふんがあった。

 ノエルにも興味津々で「とてもわいいわ」と、嬉しそうに見ている。危険なひとではないと察したらしく、ノエルは早速何かとキャロライナに話しかけ始めた。ひとまずこの二人は仲良くやっていけそうと、ほっとしつつ、チェリーは部屋の中を見回した。


(マリアさんは、やむにやまれぬ事情からお屋敷のお仕事をなさっているとして、お洗濯以外のことは後回しにしていそう。このお部屋も、ずいぶん埃っぽい)


 もしかすると、マリアに対して満足な給料も確保できておらず、母子ともにマリアに対して仕事を頼むことに、えんりょがあるとも考えられた。洗濯をして、料理を作ってもらえるだけで十分だと。キャロライナの髪はくったりとしてつやもなく、いつ湯浴みやせんぱつをしたのかもわからない有り様である。栄養に乏しく、身の回りを構うこともなく、日がな一日ベッドで過ごしているようでは、具合が良くなりようもないと思われた。


「キャロライナさん、私、まずはこのお屋敷の掃除をしようと思っているんです。このお部屋も掃除していい?」

「お掃除、チェリーさんにお願いしていいの? チェリーさんは、使用人ではないわ」


 真面目な様子できっぱりと言い切られた。

 しかし、チェリーとしても、ここは譲れない。


「たしかに、奥様からもそう言われています。ノエルの世話をしてくれれば十分だと。でも、私はだんの世話はできますけど、当主教育なんか無理です。何をすればいいのか、想像もつかなくて……」

「まだ小さいから、本を読んであげれば良いのよ。あとは、テーブルマナーとか、楽器も出来た方が良いはず。ピアノだったら、私とお母様が教えられるわ」


 ピアノ、と聞いてチェリーは「それ!」と思わず食いついてしまった。


(うちには、そんな高価な楽器はなかったけど、「うたひめ」の姉さまがピアノに合わせて歌っているのは聞いたことがあるわ。ノエルはどうかしら? 姉さんの子だもの、楽器は好きになるかも……!)


 もしそうなったら素敵、と気が逸り、チェリーは前のめりになってキャロライナに切々とうったえかけた。


「では、お嬢様と奥様で、ノエルに貴族として必要なことを教えて頂けませんか? 私はその間手が空いていますので、お屋敷の中でお仕事をしています。掃除や料理の他に、家庭菜園もしてみたいなって思って。お野菜を、自分で作るんです」


 まぁ、とキャロライナはにこにこと笑いながらあいづちを打った。


「すごくたくさん、することがあるのね。私にもお仕事があるなんて、楽しみだわ」


 屈託のない笑顔を前に、チェリーは「お嬢様って品が良い」と、深く感心してしまった。


おんこうというか、気立てが良いというか。良いことなんだけど、心配になっちゃう。ヘンリエット様がしっかりなさっているのかしら? どろぼう)に入られたり、変な人に|騙《だまされたりしない? やめていく使用人にものを持ち出されたりなんて、よくあることなのよ)


 街育ちのチェリーは、ある程度の警戒心は備わっている。このうきばなれしたお嬢様には自分が気をつけてあげねば、と早くも決意を固めながら「片付けますね」と、ベッドの上の小さな折りたたみテーブルに手をかけた。使う前に少しだけいてみがいたそれは、にぶい輝きを放っている。値打ちものかしら、とふと気になった。

 戦争が長引き、生活にこんきゅうしてから、チェリーの一家は身の回りの品をずいぶん手放した。タダ同然の値段でも、背に腹はかえられぬと、中古として売ったりぶつぶつこうかんに使ってきたのだ。そのチェリーの目からして、小さなテーブルは、昨今のご時世でもそれなりの値段がつきそうに思えた。


「いけない。そんなこと考えちゃだめよ」


 口に出して、自分をいましめる。

 この屋敷のものは、チェリーのものではない。いくら屋敷の面々が生活に困っているとしても「売ってお金にしてみたら?」と言うのは、まさに出過ぎた発言というもの。


「チェリーさん? 何か言ったかしら?」


 背後からキャロライナに声をかけられて、チェリーは「なんでもないです」と答える。キャロライナはにこりと笑って「チェリーさんって、すごく声がれいね。お歌を歌ったら、きっとれてしまうわ」と、相変わらずのんびりと言ってきた。


「歌……は、私は歌わないんです。姉さまは上手うまかったんですが」

 仕事にもしていました、とのどもとまできていた言葉を、飲み込む。

(「歌姫」というせいの女性の仕事を、お嬢様はわかるかしら。たいで歌うこともあるけれど、った男の人ばかりの夜のパブにも出入りしていたと言えば、しょうのようなものと誤解する方もいるから……。姉さまは、そういうことはしていなかったと思うけれど)


 これから、貴族のあとつぎとなるノエルの生母なのだ。ふしだらな仕事をしていた女だと思われぬよう、時間をかけてゆっくり説明をしよう、と思った。

 ノエルは「ピアノってなに?」とキャロライナに尋ねている。「あとで見せてあげるわね」と答えてから、キャロライナはチェリーに向き直った。


「チェリーさん、ピアノはお好きなのでしょう? ノエルのおけいのとき、チェリーさんも一緒にどう?」

「いえいえ。私は聞くのが好きなんです。ノエルが上達したら教えてください」

「そう? じゃあ、ノエルがばんそうしたらチェリーさんは歌を歌ってくださる?」


 さりげなく食い下がられて、チェリーはどうしたものか、と困った顔をしてしまった。キャロライナは、すぐに申し訳無さそうな顔になった。


「ごめんなさい。従兄のライアンは、楽器も歌もとても上手かったの。ノエルも、教えたら好きになるかもしれないと思ったけど……。私、すごくおんで歌は教えられないのよ」


 不意に、ノエルの父親の話が飛び出してきて、ドキリとした。


(ラモーナ姉さまが、ライアンさんのどこにかれたのか、考えたこともなかったわ)


 身分ちがいのこいが生まれて二人が結ばれたのは、「歌」が関係していたのかもしれない。

 思いがけない話を聞いて、胸がじんわりと温かくなる。


「そういうことでしたら、考えておきますね。でも、私は人前で歌ったことがないので、期待しないでくださいよ」


 キャロライナのお願いに対して、チェリーは少しだけ折れた。キャロライナはぱっと顔を輝かせて、胸の前で手を組み合わせる。


「ありがとう! 私だけじゃなくて、兄様も歌はすごく下手なの! 聞いたらびっくりするわよ! 私が赤ちゃんの頃、私のまくらもともりうたを歌っていたらしいのだけど、私が音痴なのはそのせいかもしれない。絶対に、ノエルの前で歌ってほしくないわ」

「そ、そうなんですね」


 ライアンに続いて「夫」であるバーナードの名前が出てきたところで、今度こそチェリーは心臓が止まりそうになった。

 そんな自分の反応に、自分でびっくりする。


(バーナードさんは、戦地から、帰ってこないかもしれないひとなのに……)


 ラモーナとライアンのように、身分をえた恋に落ちることもない相手なのだ。名目上のふうでしかないのに、意識しすぎだと、頭の中からい払う。


「ノエルががんっている間、私も自分にできることを頑張ります」


 バーナードの音痴には触れずに、チェリーはそこで話を切り上げた。

 話し好きらしいキャロライナは名残惜しそうにしていたが、早速ノエルの相手をしてくれるとのことで、お礼を言ってチェリーは部屋を後にする。

 掃除や料理、家庭菜園作り。若奥様の仕事とは違うかもしれないが、チェリーには当面やらなければいけないことがたくさんある。


「よし、がんばろう」


 自分に言い聞かせて、埃のろうを歩き出した。



*****



「へぇ~。これって、貴族の奥様がベッドで朝のお茶を飲むときに使うテーブル? アーリーモーニングティーって言うんだっけ? 売っちゃっていいの?」


 チェリーが持ち込んだシルバーの華奢なテーブルを手にして、小間物屋のリンダはものめずらしげに高くかかげて、下からのぞきこんでいた。

 リンダは、艶のない金髪をざっくりとい上げた、三十がらみの女性である。

 戦争が長引く中で、いまは「何でも屋」であり、しちのようなこともしている。

 チェリーとは、長屋暮らしをしていた頃から、家族ぐるみの付き合いだ。

 カウンターの上に、さらにしんちゅう製のしょくだいを三つ並べながら、チェリーはてきぱきと言った。


「砂糖と塩がどうしても足りなくて。それと、お金が余ったらお庭が広いから畑を作る資金の足しにしたいと思っているの。たねいもや種を分けてくださるひと、知らないかしら」


 リンダはチェリーを見つめ、声をひそめて確認してきた。


「本当に、とうひんじゃないんだよね?」


 予期していた質問に対し、チェリーは「違います」と、きっぱり答えた。


「私がいまお世話になっているお屋敷で、奥様とお嬢様に断りを入れて預かってきました。売れるなら売っても良いし、生活に必要な物とこうかんでも良いって」

 アストン家にチェリーとノエルが暮らし始めて、一週間が過ぎた。

 手始めにキャロライナとヘンリエットの部屋を掃除して、他の閉ざされた部屋ものぞいてみたら、案の定「貴族の屋敷にあるべきもの」がずいぶんと姿を消した後だったのだ。

 置物や絵画。鏡、本など。

 この屋敷の当主にあたるバーナードが、自室や書斎はかぎをかけて閉め切っていったらしく、開かずの間になっていたが、それ以外の部屋はあらかたがいにあっていた。


(ベッドカバーやシーツまで、根こそぎなくなっている部屋もあるんだもの。お屋敷を去る使用人たちが、ごっそり持っていったのよ)


 チェリーはヘンリエットにそう訴えかけたが、青灰色の目を細めたヘンリエットは少しのちんもくの後「給金の代わりに、あげたものです」と答えた。

 それが、使用人たちをかばっての発言というのは、すぐにわかった。

 なにしろ、ヘンリエットは「物がなくなっている、だれかにち|逃《に

》げされていますよ」というチェリーの訴えを、はじめはよく理解できなかったようだったから。

 だが、事情を飲み込むなり「埃をかぶるだけの物が、生活の足しになるのなら良いでしょう。家令が気のいた者でしたので、私の代わりに配分したのだと思います」と表情も

変えずに言い切ったのである。

 底なしのおひとしなの? と、チェリーは面食らってしまった。屋敷の女主人がまったく知らないのなら、使用人たちをまとめていた家令こそが黒幕かもしれないじゃない、と。

 そのおくそくを、チェリーは口に出さずに腹の奥底までしずめた。

 屋敷の財産は、チェリーのものではない。

 管財人たるヘンリエットが「譲った」と言い張るなら、責めるのはおかどちがいというもの。

 ただ、物に対してしゅうちゃくが無いのなら、売れるうちに売ってしまった方が良いかもしれない。

 そこで、思い切って「屋敷にあるものをかんきんして、食糧を買いたい」と申し出たのだ。

 ヘンリエットは表情を変えることなく「よござんす」と、それをりょうしょうした。

 キャロライナに至っては、チェリーが言う前から「そろそろベッドを出て、食堂で食事をしようと思っていたところなの。これは無い方がいいかも」と、自分からさっさと銀のテーブルを渡してきたのであった。


(私が、テーブルを気にかけていたのに、気づいていたみたい。おっとりしているけど、しっかり見ていることは見ているお嬢様なんだわ)


 かくして、チェリーは屋敷を歩き回り、他にも値打ちのありそうなものをつくろって、顔見知りの小間物屋まで足を運んだのである。


「貴族のお屋敷からのしちながれ品、最近ではよく見るけどね。食うに困っているのはしょみんだけじゃないんだねえ」

 銀のテーブルをカウンターに置き、並んだ燭台に視線をすべらせて、リンダはしみじみと言った。チェリーはさりげない調子で「お屋敷には、これ以上のものはもうあまり残っていないわ」と言いえる。


「そうなの?」

「ええ。もうあらかた全部処分した後よ。本当に何もなくて。これを持ち出すのも、じゅうの決断だったわ。素敵でしょう?」

 真鍮の燭台を手にして、リンダに見えるように傾ける。


(立派な品を一度にたくさん売りに出してしまえば、他にもまだ何かあるかと、欲を出した泥棒にぎつけられるかも。他にもまだあるけど、小出しにして様子をみましょう)


 いざというときは、手つかずのバーナードの部屋もある。

 部屋の鍵はヘンリエットが持っていて、「けっこんしたことは、本人に手紙で伝えてありますので。あなたが整理して構わないですよ」とチェリーに渡して来ようとしたが、断固として受け取らなかった。

 掃除もして欲しい、という意味合いだったかもしれないが、形式だけの妻が不在の当主の部屋の鍵を預かるのも、部屋に出入りするのも荷が重すぎる。


「あんたが長屋から消えたって聞いたときは、何かあったのかと思ったけど。元気そうで一安心だよ。ノエルがいたら、工場で働くのは難しいもんねぇ。良かったね、働き口があって」


 実に悪気のない様子でリンダに言われ、チェリーは口をつぐんだ。

 勤めではなく、アストンしゃくの「妻」で若奥様なのである。しかも、おいのノエルはバーナードとの間に生まれた自分の子、とせきの改ざんを行う予定なのだ。


(昔からの知り合いに対して、説明するのは難しいわね。あれは噓だと、うわさを広められてしまっては、ヘンリエットさまのもくも失敗に終わってしまう……)


 チェリーは適当に話を切り上げて、その件にはあまり触れないようにした。ただ、女性でひとり暮らしのリンダのことは心配になり「困ったことがあれば声をかけてね」と言った。

 リンダはチェリーの持ち込み品を引き取り、食材をいくつか包みながら「種と種芋なら、譲ってくれるあては教えられるよ」と、知り合いの農家のことを教えてくれた。


「どこも男手を戦争に引っ張っていかれて、女や子どもは工場でだんやく作りだろ。ひとの手の入らなくなった畑は、荒れ放題だ。ひとりで切り盛りなんてとてもできない、って困っているおばさんがいてね……」

「ありがとう。リンダさんの名前を出せば大丈夫?」

「そうだね、いま手紙を書くから少し待って。ついでに、うまく育って収穫できたら、うちにもおろしてよ。いま、品物が全然入ってこなくなっていて、困ってるんだ……」


 畑泥棒には気をつけなよと言いながら、リンダは商品用の包み紙の裏に、文字を書きつけていく。

 他に客もいないせいか、ぼやくように話を続けた。


「海の向こうのアルマンダとの戦争が始まった頃は、誰もこんなに長引くなんて、考えちゃいなかったよね。せいぜい季節がひとつ変わる程度って話だった。それが半年、一年といつの間にか何年も続いて、今じゃ国民総動員だよ。暮らしにくいったらありゃしない」


 はじめは軍人が駆り出され、ついで独身者の中から希望者がつのられた。既婚者も含め健康な成人男性へ「義務」が課されるようになるまでは、あっという間だった。


「まだまだ続くっていうことは、ないでしょう。リンダの旦那さんも、もうすぐ帰ってくるわ。また二人でお店ができるようになる。それまでのしんぼうよ」


 受け取った手紙をバスケットに詰め込みながら、チェリーはなぐさめを口にする。


「うちの旦那は、生きてんのかねえ。れんらくもありゃしないよ」

「手紙は? リンダさんは字が上手ですもの。そうやって、すらすら書けるでしょう」

「手紙ねぇ。出しても返事が来ないと、かえって心配になってね」


 世間話をしているうちに、他の客が来た。目配せし合い、話を終えようとしたところで、リンダが何気ない様子で付け加えた。

「とにかく、あんたが無事で良かったよ。また、あんたの歌が聞けたら良いなって思っていたんだ。いまはそんな気分じゃないかもしれないけど、いつか歌ってくれよ」


 チェリーはきょとんと目を瞬いてから、やわらかなしょうを浮かべた。

「『歌姫』は私じゃないわ。ラモーナ姉さんよ。もういないの」


 そこで別れを告げ、チェリーはリンダに教えられた通りに、農家に向かった。「収穫の一部をゆうずうする」という約束で、種と種芋を分けてもらい、帰宅した。

 そこから三ヶ月が過ぎ、季節がめぐった頃、戦場から手紙が届いたのだ。

 チェリーあてだった。

 差出人は「夫」のバーナードである。


【一度も会わないうちに、人妻からになるのは、さすがにいかがなものか】



*****


「そういえば私、結婚していたのよね……」


 まさか、「夫」であるバーナードから「妻」の自分宛に手紙が来るとは思わなかった。

 余白だらけのたった一文。時間がなかったのか、書く内容が思いつかなかったのか。走り書きのような印象であったが、それでもちょうめんそうな、綺麗な字だった。


(真面目なひとなのね。見ず知らずの「妻」に手紙をくれるなんて。しかもこれ、私の将来を心配してくれている? 考えすぎかな?)


 お人好しすぎるヘンリエットとキャロライナの家族なのだ。

 チェリーに対して、当主の責任から「お前はどこの誰で、どんな目的で家に入り込んだのだ。母や妹を騙したのなら許さないぞ。さっさと出て行け」くらいのことは、言っても不思議ではない。

 それなのに、まるで自分自身は死をかくしていると言わんばかりに、チェリーに対して「寡婦になるのはいかがなものか」とは。

 掃除や畑仕事や料理の合間に、チェリーは一文しか書かれていない便びんせんを、何度も取り出してながめた。

 自分宛の手紙を受け取ったのは、生まれて初めての経験だった。


「お返事は書かないの?」


 キッチンで、そっとポケットから手紙を出して眺めていたときに、ノエルに背後からスカートの裾をひかれた。「お返事ですって?」とチェリーは驚いてノエルを見下ろした。


「キャリーは、ぼくがお手紙を書くと、お返事をくれるよ?」

「ノエル、お手紙書けるようになったの!?」

「うん! 名前の字を教えてもらった!」


 最近は、忙しさにかまけて、すっかりキャロライナにノエルを任せっきりになっていた。

 以前より健康そうになったキャロライナは、ベッドから起き上がることも多くなっていたが、遊びながらとはいえ、すでに文字を教えてくれていたとは。

 ズボンのポケットから、キャロライナにもらった手紙を次々に取り出すノエルを見ながら、チェリーは呟く。


「そうよね。手紙をもらったら、お返事を書かなきゃ。……私は、字が苦手なのだけど」


 会ったこともない「妻」に対して、バーナードは手紙をくれたのだ。自分も何か書くべきだと思う。とはいっても、心境は複雑だ。

 金銭的な問題を言えば、遺族年金は実にりょく的らしいのだ。

 しかし、もし敗戦国となれば年金制度がいつまで保証されることか、といった現実的な心配事もある。


(私は、ノエルを当主にすることと、私自身が寡婦年金の給付対象になることを期待されて、奥様にここに呼ばれた……。だけど、年金のあてが外れるかもしれないなら、バーナードさんが生きて帰ってきてくれた方が、お金の心配は無いんじゃないかしら)


 チェリーは、まったく会ったこともない「夫」に、どこからどこまでを伝えるべきかなやんだ。何かを伝えるにしても、どういう言葉が適切であるのか。

 あまり詳しい事情を書いても、けんえつしんに思われるかもしれない。

 だからといって「死なないでください。愛しています」は白々しすぎるように思えた。

「妻」といっても、形だけなのだから。

 文章を書くのが、あまり得意ではないという事情もあった。

 悩みながら、何度も自分宛の手紙を読み直す。


「……もしかして、この手紙の意味って『出ていけ』かも。それはそうよね、バーナードさんからすると、どこの誰かもわからない女が、家の中に入りこんでいると思えば、奥様やキャロライナさんのことが心配になるだろうし……」


 決して、好意的な内容ではないのかもしれない、と気付いた。それなら、ヘンリエット宛ではなく、直接チェリーに送ってきたのもわかるというもの。

 だが、チェリーにも、いまはこの家を出ていけない事情がある。


(それに、あなたが私をよく思っていないとしても、私はあなたに生きて帰ってきてほしいと思うんです。キャロライナさんも、あなたの音痴な歌をまた聞きたいと思います)


 バーナードの真意はわからないものの、チェリーが伝えたいことはひとつだけ。

 選んだ言葉は、悩んだわりに実にそっけないものになってしまった。


【あなたが死ななければ良いだけでは?】

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