第二章 アストン家のお屋敷にて

2-1


 チェリーの住んでいた背割り長屋もひどいものであったが、ぼつらくしきったアストン家のおしきたいがいであった。

 うっそうしげった森を背に、れんの壁中にびっしりとつたくさい茂り、いまにもくずれて緑に飲み込まれてしまいそうな有り様だったのだ。


こわい」


 ヘンリエットと名乗った元しゃくじんに連れられてこの場までたどり着いたはいものの、早くもノエルはおびえた様子でチェリーの足にひっついている。ヘンリエットは、馬車のぎょしゃを務めていた老人にコインではらいをしながら、世間話をしていた。


(男手が全然ないのかしら。どこの家も、男性使用人から減っていくものよね。お給料が高いのもあるし、いまはこんこん問わず成人男性にはちょうへい制があるから)


 会話をする二人をばやく見て取ってから、チェリーはノエルに声をかけた。


「怖がらなくてもだいじょうよ。たとえこのお屋敷にお化けが住んでいたとしても、いきなりノエルを取って食ったりはしないと思うの」

「チェリー、お化けってなに? 怖い?」


 それはね、と説明しようとしたところで、ノエルがさらに怖がってしまうと気付き、チェリーは口をつぐんだ。


(いけない。やっぱり家に帰りたいって泣き出しちゃったら大変)

 楽しい話をしよう、とチェリーはあたりをぐるりと見回してから、屋敷を見上げた。


「ほら、ノエル、よく見て。とてもがんじょうそうな家だし、静かで暮らしやすそうよ。トイレのにおいでちっそくすることもないわ。大きく息を吸ってみて。空気が……美味おいしい……」


 すうっと深呼吸をすると、いたばかりの緑と土の匂いが胸の中に広がる。


「おいしいの?」


 ノエルは、チェリーをて大きく息を吸い込んだ。チェリーはにこにこと笑いかけながら、自分ももう一度深呼吸をする。


いなのおうちに帰ってきたみたい。私、あのころは牛や馬の世話をそばで見ていたし、にわとりえさをあげたこともあるのよ。お庭があるなら、野菜だってきっと育てられる」

 

 思えば、長屋暮らしは本当に散々だった。壁はうすく、物音がひびくのだ。共用便所のとなりという配置のせいで、ひっきりなしにドアの前を人が通る気配があり、匂いもつらかった。

 それに比べて、アストン家のお屋敷は見た目こそはいきょそのものであったが、こうがいということもあり、りんとのきょは十分。手入れもされずにててはいるが、広い庭もある。

 子どもの頃、田舎のいっけんに暮らしていたことを思い出したチェリーは、口角をきゅっと上げてほほみ、ノエルに言い聞かせた。


「お化けではなく、ようせいの気配がするわ。ほら、見て。あの木のかげの茂みに、ずかしがりの妖精がいるんじゃないかしら。おどろかせないように、そーっと近づいてみましょう」

「ようせい?」


 二人で息をめて、荒れ果てた庭に向かって歩き出したそのとき、聞き覚えのあるせきばらいが背後で響いた。

 かえると、厳しい顔をしたヘンリエットが二人をへいげいして言った。


「ここが今日からあなたたちの暮らす家です。荷物は自分で持ちなさい」


 長屋から持ち出してきたのは、ぼろぼろの衣類と長らく使っていたなべがひとつ。二人合わせて、トランクひとつに収まっている。

 チェリーは、よいしょ、とごえとともに持ち上げたが、とても軽い。

「私達のお部屋はどこですか? 当主の妻と言っても、だん様もいらっしゃらないわけですから、屋根裏部屋で十分です。それと、そうせんたくでしたら、たいていのことはできますのでノエルと自分の分はします。まずは家の方にごあいさつからですよね。奥様のこと、どなたもおむかえに出てこないみたいですが、おいそがしいのでしょうか」


 んんっと咳払いをすると、ヘンリエットはドレスをつまんで、横合いから雑草の飛び出した道を屋敷に向かって歩き出した。足元悪いけど大丈夫かしら? と思いつつ、チェリーは片手に荷物、もう片方の手はノエルと手をつないで後に続く。迎えがなかった理由は、すぐにわかった。


「みんなめてしまって、いまでは使用人は私ひとりなんですよ」


 マリアという初老の女性が、二階の一室までチェリーとノエルを案内しがてら、屋敷の住人について説明をしてくれたのだ。

 当主バーナードが不在のこの家には、ヘンリエットの他には、当主の妹のキャロライナと、台所周りを担当しているというメイドのマリアしか、いなかったのである。



*****



「この部屋は好きに使ってください。必要なものがあればおっしゃってくださいね」


 部屋の前で、マリアは「掃除は間に合ってなくて……」とにごしながら言い残すと、部屋の中には入らずに去って行った。

 チェリーはドアノブをつかみながら、ノエルに微笑みかける。


「お部屋がたくさんあるっててきね。ノエル、ここが私たちのお部屋ですって。ずいぶん広そうじゃない?」


 つとめて明るく言うと、うすぐらい室内へと一歩み込む。

もふっと、足元でほこりが立ち上った。


「チェリー、怖くない?」


 ドアの前で立ちすくんだノエルが、かんだかい声で呼びかけてきた。

 背中で聞きながら、チェリーは静まり返った部屋の中を見回した。

 壁に四つ並んだ上げ下げ窓から、弱い光が差し込んでいる。 

 家具はてんがい付きのベッド、さんきゃくの木製丸テーブル、優美な曲線をえがくカウチソファ。

 かべぎわには、だんがあった。

 そのどれもこれもが埃にまみれ、かびくさい匂いがしていたが、チェリーは思わず「うわぁ……!」とかんたんの声を上げて、ノエルを振り返った。


「ノエル、見てみて! すごいベッドがあるわよ! てんじょうつきの! テーブルも、ソファも、暖炉も! お城みたい! ここが私たちのお部屋なんですって! 信じられる!?」

「ベッド?」


 きょとんとしているノエルに片目をつぶって見せてから、チェリーは走って部屋を横切り、思い切りよくベッドにダイブした。ばふっと真っ白な埃が巻き起こる中で、チェリーは腹の底から大笑いをして、せきみ、しゅうしゅうがつかなくなって大いになみだを流した。後からついてはきたものの、あっけにとられて見ていたノエルは、「泣いているの?」とたずねてくる。げほ、ごほ、とむせながらチェリーは涙をぬぐい、胸を手でおさえて「だいじょう」と答えてみせた。


「掃除しよ、掃除。窓を開けて、埃をはらって、水きをして。今日の夜までに間に合わせないと、明日は私達、埃にまって真っ白になってそう!」

がばっと起き上がり、壁際までると、ぐぐぐと力を込めて、木わくにガラスのはまった窓を仕切りの位置まで押し上げる。

 風がさあっとき込んできて、鼻先で深い緑の葉がさやさやとれた。

 窓は前庭に面していて、高い木が視界に入ってくる。その周辺には、やや背の低い木々が並んでいるのが見えた。チェリーは目をらして「りんごの木だわ」とつぶやく。「りんご?」と言いながら、ノエルが足元をうろうろと歩き回る。その頭に手をばして軽くで、チェリーは今一度口を開く。


「春で良かった」


 ん? とノエルが聞き返してきた。チェリーは、荒れ果てた前庭を見ながら「春は種まきの季節だから」と答えた。


「あのお庭を遊ばせておくのは、もったいない。手入れするひとがいないなら、私が使ってもいいかしら。今から種をまけば、秋にはたくさんの野菜をしゅうかくできるわ」

「庭で…あそぶ?」

「そう、それもいいわね! しきは裏にもあるはずよね。ちくはこのお屋敷にいないと思うけど、鶏ならどうにかなるかも? それにあの、りんごの木。秋が楽しみ。ジャムもゼリーもプディングだって作れるわ。ノエル、すっごく美味しいおやつを作ってあげる。一日一個のりんごは医者いらず。美味しくて、体が丈夫になるおやつよ」


 気がいて、どんどん早口になるチェリーを、ノエルは大きく目を見開いて見上げていた。

 その驚いた顔がおかしくて、チェリーは声を上げて笑う。


「さて、まずはる場所を確保しないと。ベッドの掃除から始めましょう」


 あれもしよう、これもしようと思いながらチェリーはベッドへ引き返す。ノエルは子どものはばいっしょうけんめいその後ろに続きながら「おなかすいたよー!」と声をあげた。

 チェリーは振り返って、ノエルへと笑いかける。


「キッチン担当のメイドさんがいるのよ、今日からごはんの心配はしなくてすむわ。夢みたい。朝起きたときは、こんな素敵なことになるなんて、考えもしなかった」


 明るく話すチェリーであったが、内心少しだけ心配していた。


(お屋敷は立派だけど、使用人はマリアさんただひとり。遺族年金をあてにしているってことは、金銭的に苦しいのよね。急に増えた二人分の食事は、用意されているの? いいえ、今から心配しても仕方ない。ノエルの分はあるはず。私の分は……)


 果たして、チェリーのその不安は的中することとなる。

 その夜の食事は、ぼくなグリドルスコーンと薄いスープのみ。の張った食堂で、ノエルと二人でスープをすすりながら、台所事情を察したチェリーは、いよいよしょくりょうの自給自足、すなわち畑作りへの決意を固めるのであった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る