第一章 行き詰まりの生活を抜け出して
1-1
赤毛に青い
メイスフィールドの都市の
それが、アストン
「よいしょ、と」
長屋の各戸に水道が通っていないため、生活に必要な水はこうして、共用の水場で
ちゃぷん、ちゃぷんとバケツが
チェリーは、
ちょうど、子どもの泣き声と、母親の
バケツを片手で持ち直し、ドアを開けて中へと身を
「……ふぅ」
重く息を
この部屋の
「チェリー、お
部屋の隅で、
くすんだ
「うん。まずはお水を飲もう」
バケツを作りつけの流しに運び、コップに水を汲んで
ノエルは、それを受け取ることなく、ぼんやりとした目でチェリーを見上げた。
「お腹すいた……」
「そうだよね。食べるもの何もなくて、ごめんね……。お腹、すくよね」
チェリーはコップを置くと、しゃがみこんで、ノエルを
(ノエルには私しかいない。私がしっかりしなきゃ……)
数年前まで、チェリーの家族は農村部の
当初は工場で働いていた父は、国による召集に応じて戦地に
チェリーの姉、ラモーナは赤毛に青い瞳で美しい容姿と歌声の持ち主であり、小劇場や酒場で「
しかし、戦争の開始とともに、その仕事内容は戦地への
やがてひとりの兵士と
残されたチェリーとその母は、絶え間なく
残されたチェリーは、ノエルを抱えてひとりで母の
長引く戦争のため、工場は人手不足にあえいでいて、未熟練な労働者を次々に投入しているだけに、仕事はある。
しかし、賃金の
親はなく「子持ち」のチェリーは足元を見られ、ついには「たいした働きもしていないくせに」とあしらわれて、
そもそも、三歳のノエルをひとり家に残して、外へ働きに出るのは難しい。
(「雨が降ったら
自分はともかく、お腹が空いたと泣く幼いノエルにはせめて、何か食べさせてあげたい。だが、
「困ったね……」
どうしようもなく、弱音が口をついて出た。
そのとき、どんどんとドアを乱暴に
「おい、いるんだろチェリー。お前、
どん、がん、と戸を叩かれるたびに、パラパラと
声の主は、戦場帰りの傷病兵だ。同じ長屋住まいでチェリーも見かけたことはあるが、昼夜問わず
チェリーとしては居留守でやり過ごしたかったが、
「おう、声がしたぞ。いるんだな? ドアを開けろよ。生活に困っているなら、
ぞくりと、背筋に
(あんな男の紹介なんて……、まともな仕事のはずがない)
そうは思うものの「このままではいけない」ということは、チェリーとて頭ではわかっているのだ。
返答しかねているうちに、男の
戸口に立っていたのは、シャツのボタンがずれたまま
ノエルをかばうように抱きしめているチェリーを見て、相好を
「姉に比べて妹は
舌なめずりをしながら、一歩
(
品定めの目で見られていることを、強く感じた。
「家の中に、勝手に、入って来ないでください」
出て行くどころか、ふらつく足でさらに一歩、近づいてきた。
(評判の悪いこの男が、これだけ騒いでいるのに
空腹と
すぐに、どうにか
腹に力を入れて、大きく息を吸い込んだ。
発声には、自信がある。
チェリーは「歌姫」ラモーナの妹だ。これまで人前で歌声を
「誰かー!」
誰も来ないだろうと思いつつ、高らかに
やましいところのある男は
「ノエル、いまのうちに……」
チェリーは、自分が注意をひいている間に、ノエルを
(
その
「ん。んんっん」
男はぎょろっと目を
ノエルを抱きしめながら、戸口へと目を向ける。そこには、見慣れぬ
深緑色のドレスに、
時代がかって、埃っぽく見える
「この家に住んでいるのは、チェリー・ワイルダーというレディと、ノエルという子どもだけと聞いています。あなたは、そこで何をしているのです?」
「何を、だと」
男は、足をぐらつかせながら立ち上がり、今にも何か言いそうに息を大きく吸い込んだ。
そこに立っていた女性を正面から見て、言葉を失ったようだった。
およそ
つまらぬものを
男は、よろめきながら、悪態をつきつつ足を引きずるようにしてドアへと向かった。
貴族女性がなぜこんな場末の長屋に現れたかわからないが、一人で出歩くことなどあるはずがない。同行者が駆けつければ勝ち目はない、と踏んだのだろう。
女性は、厳しい顔つきのまま、男が出ていくのを見ていた。
やがて、足音が遠のくと、チェリーに視線を戻した。
もう何年も笑ったことなどないような、
チェリーから「助かりました」と、お礼とはいえ気安く声をかけられる
(まるで石像だわ。まばたきしなければ、生きた人間とも思えない)
どちらが口火を切るのか。女性の目がノエルに向けられた瞬間、チェリーはなおさら強くノエルを抱きしめた。
自分が、しっかりしなければ、と思ったのだ。
「何か
「あなたがチェリー・ワイルダー、ですね」
フルネームで、はっきりと名前を呼ばれた。
女性は、いかめしい顔つきのままさらに「んんっ」と咳払いをして、チェリーの
「それと、子どもがいますね」
「姉の子です。姉が不在なので、私が
着地のわからない会話に
貴族女性は、
「あなたの姉であるラモーナという女性は、落命したと聞いています。それから、あなたの父も母も。この長屋で暮らしているあなたの家族は、あなたとその子だけですね」
チェリーは、答えあぐねて口をつぐんだ。
(ずいぶん、私やノエルのことを
「さきほどの男は、あなたの情夫ではありませんね?」
ぶしつけ過ぎる質問に、チェリーは
「
一方的な会話で、まったくついていけてないのだと、
「よござんす」
聞き慣れぬ言葉に、チェリーは「はい?」の形に口を開いたまま、静止した。
(「よござんす」? どこの言葉なの? 貴族用語?)
理解しかねているチェリーをよそに、相手は
「私はアストン子爵家を預かる者です。夫のアストン前子爵はすでに
「ねぇチェリー、あのひとだぁれ?」
スカートの
「アストン元子爵夫人、だそうよ。初対面だけど、私も」
口にしてみると、その大げさな言葉に現実感が遠のく。
(このひといま、子爵である息子と結婚しなさいと言った? 私に?)
だが、もしその話が本当であったならば、ノエルは貴族の血を引いていることになる。
そこでようやく、うっすら話が見えてきた。
「もしかして、アストン子爵さまという方は、ノエルのお父様でしょうか? 亡くなったと、聞いていたんですが」
元子爵夫人は、ノエルをちらっと見て、気難しい顔で話を続けた。
「ラモーナ
「それはつまり、ええと……?」
話が飲み込めずに尋ねると、元子爵夫人は硬い表情はそのままに、意外なほど
「私の生家はリスター
「ノエルが伯爵? そんな、とんでもない……!」
チェリーが顔をひきつらせて叫んだことで、ノエルは怯えて小さな手でチェリーのスカートにしがみついた。その様子を青灰色の目で見ながら、元子爵夫人は話を続けた。
「伯爵家側でも、そう考えていることでしょう。私の父は、
「私がノエルの母親ですか? 私も平民ですよ?」
子爵とチェリーが結婚していたことにして、ノエルが二人の子ということにしてしまえば「婚外子」ではなくなるが、母親が平民である事実は残る。
(しかも、そうすると伯爵家とは
チェリーの疑問に対して、元子爵夫人は静かな声で答えた。
「その子は、ライアンの幼い
「それは、バーナードさんがいないところで、進めて良い話なんですか?」
元子爵夫人は、
やがて、表情をまったく変えないまま、答えた。
「戦地から戻る見込みがない、と言いましたでしょう。知らせることは、できますが」
声は
(跡継ぎ問題に、
ここはノエルの保護者として、きちんと
「この話を受けたら、ノエルに、何か食べさせてあげられますか」
「もちろんです。子どもには、食事が必要です。それに、夫に先立たれた妻には、
「遺族……年金?」
「そうです。後継者とその養育費のために、その子とあなたの二人とも、必要なのです。当家に迎え入れるつもりで私はここに来ました」
元子爵夫人の視線が、すっと流れて、蝶番が外れて
キイッと、ドアが物悲しい音を立てて揺れていた。もう
チェリーはしがみついているノエルを抱き上げて、元子爵夫人をまっすぐに見つめた。
「わかりました。ノエルをよろしくお願いします。私は、当主の奥様と言っても、年金を得るための手段で名ばかりなのもわかりました。使用人としてでも、ノエルのそばに置いていただければ」
元子爵夫人は難しい顔のまま「子どもの面倒は、あなたの担当となるかと思いますが」と前置きをして続けた。
「当主の妻として、あなたも堂々としていれば良いのですよ。これまでとは勝手が違うでしょうから、覚えることもたくさんあります。さあ、行きましょう。準備をなさい」
「はい。見ての通りたいした荷物もありませんので、すぐにでも行けます」
身の回りのものをトランクにつめて、チェリーはノエルと手をつないで家を出た。
(
こうして、チェリーはアストン家の
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