第一章 行き詰まりの生活を抜け出して

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 赤毛に青いひとみ

 せっぽちで、これといったとくちょうのない十九歳。

 メイスフィールドの都市のかたすみいんな背割り長屋のはしにある一部屋に、三歳のおいのノエルと二人きりで暮らしている。その生活ぶりは、戦時下であることを差し引いても、あまりにも苦しい。

 それが、アストンしゃく家にとつぐ前のチェリー・ワイルダーの姿であった。


「よいしょ、と」


 ごえとともに、チェリーは古ぼけたブリキのバケツを両手で持ち上げる。

 長屋の各戸に水道が通っていないため、生活に必要な水はこうして、共用の水場でんで部屋まで運ぶ必要があるのだった。

 ちゃぷん、ちゃぷんとバケツがれるたびに、水が小さくねる。

 チェリーは、さわがしい部屋、静まり返った部屋の前を、ゆっくりと通り過ぎた。

 ちょうど、子どもの泣き声と、母親のり声で騒がしい一室の前を横切ったところで、足を止める。

 バケツを片手で持ち直し、ドアを開けて中へと身をすべり込ませた。


「……ふぅ」


 重く息をして、少しずつ室内の空気を吸った。

 この部屋のとなりは、せいそうの行き届いていない共用便所なのである。どうしても、部屋の中にはにおいが流れ込んできて、息がまるのだった。


「チェリー、おなかすいたよぅ」


 部屋の隅で、ひざかかえて座り込んでいたノエルが、ぱたぱたとってきた。

 くすんだきんぱつに、痩せすぎのために青い瞳が顔の中でくっきりと目立っている。


「うん。まずはお水を飲もう」


 バケツを作りつけの流しに運び、コップに水を汲んでわたす。

 ノエルは、それを受け取ることなく、ぼんやりとした目でチェリーを見上げた。


「お腹すいた……」

「そうだよね。食べるもの何もなくて、ごめんね……。お腹、すくよね」


 チェリーはコップを置くと、しゃがみこんで、ノエルをきしめた。


(ノエルには私しかいない。私がしっかりしなきゃ……)


 数年前まで、チェリーの家族は農村部のいっけんに住んでいた。両親が、仕事を求めて二人のむすめを連れて都市に出てきた後、戦争が始まった。

 当初は工場で働いていた父は、国による召集に応じて戦地におもむき、戦死の知らせの紙一枚となって帰宅をした。

 チェリーの姉、ラモーナは赤毛に青い瞳で美しい容姿と歌声の持ち主であり、小劇場や酒場で「うたひめ」の仕事を得ていた。

 しかし、戦争の開始とともに、その仕事内容は戦地へのもんに変わっていった。

 やがてひとりの兵士とこいに落ち、ノエルを生んだ。「相手は貴族のそくなのよ」と目をかがやかせて言っていた。

 さんじょくとこから起き上がるなり、ラモーナはチェリーと母親にノエルを預けて戦地へともどった。お金をかせぐためだったのか、ノエルの父に会う目的があったのかは、いまとなってはわからない。ラモーナは、しゅりゅうだんばされて命を落とした。

 残されたチェリーとその母は、絶え間なくどうしている工場で、昼夜で役割を分担しながら勤務を続けて、なんとかノエルの世話をしていた。だが、ノエルが三歳になった矢先、無理がたたった母は、をこじらせてあっけなく死んでしまった。

 残されたチェリーは、ノエルを抱えてひとりで母のそうを出したものの、食べるものもお金もすぐに底をついてしまい、明日の暮らしにも困る有り様だった。

 長引く戦争のため、工場は人手不足にあえいでいて、未熟練な労働者を次々に投入しているだけに、仕事はある。

 しかし、賃金のはらいはしぶい。

 親はなく「子持ち」のチェリーは足元を見られ、ついには「たいした働きもしていないくせに」とあしらわれて、ばらいのを見る始末。

 そもそも、三歳のノエルをひとり家に残して、外へ働きに出るのは難しい。


(「雨が降ったらしゃり」ね。悪いことは重なると言うけれど。母さまも姉さまも、私を置いて行ってしまうんですもの)


 自分はともかく、お腹が空いたと泣く幼いノエルにはせめて、何か食べさせてあげたい。だが、ばんさくきてつかてたチェリーに、できることは何もなかった。


「困ったね……」


 どうしようもなく、弱音が口をついて出た。

 そのとき、どんどんとドアを乱暴にたたく音がひびいて、チェリーはノエルを抱きしめたまま息を止めた。


「おい、いるんだろチェリー。お前、抱えてひとりで、ずいぶん苦労しているみたいじゃないか。相談乗ってやるから、このドアを開けろよ」


 どん、がん、と戸を叩かれるたびに、パラパラとてんじょうからほこりが落ちてくる。

 声の主は、戦場帰りの傷病兵だ。同じ長屋住まいでチェリーも見かけたことはあるが、昼夜問わずさけびたりで問題行動を起こしている、鼻つまみ者である。

 チェリーとしては居留守でやり過ごしたかったが、うでの中でノエルが「どうしたの?」と騒ぎ出したために、そうもいかなくなった。


「おう、声がしたぞ。いるんだな? ドアを開けろよ。生活に困っているなら、い仕事しょうかいしてやるよ。へへっ」


 ぞくりと、背筋にかんが走る。


(あんな男の紹介なんて……、まともな仕事のはずがない)


 そうは思うものの「このままではいけない」ということは、チェリーとて頭ではわかっているのだ。

 返答しかねているうちに、男のごういんおうによって建付けの悪いドアはあえなくこわれて、ちょうつがいの音をキィっとむなしく響かせながら開いてしまった。

 おそる恐る、チェリーはかたしにかえる。

 戸口に立っていたのは、シャツのボタンがずれたままいびつにとまり、ズボンのずり下がっただらしない服装をした男。赤ら顔で、にやりと笑っている。片側のそでに通す腕はなく、布だけがはためいていた。

 ノエルをかばうように抱きしめているチェリーを見て、相好をくずした。


「姉に比べて妹はいもくさいと思っていたが、まぁこんなもんか」


 舌なめずりをしながら、一歩み出してくる。


こわい)


 品定めの目で見られていることを、強く感じた。


「家の中に、勝手に、入って来ないでください」


 ふるえる声で、なんとかきょぜつの意志を伝えたものの、男はいかにもおかしそうにゲラゲラと品のない笑い声を上げただけ。

 出て行くどころか、ふらつく足でさらに一歩、近づいてきた。


(評判の悪いこの男が、これだけ騒いでいるのにだれも駆けつけない。長屋にいる大人たちはみんな留守か、見て見ぬふりをしている……。私に仕事を紹介するだなんて、うそに決まっているわ。このままでは、何をされることか)


 空腹とろうに加えて、目前にせまったきょうのせいで、いっしゅん、気が弱くなった。

 すぐに、どうにかすきをついて、まずはノエルだけでもがさなければと思い直す。

 腹に力を入れて、大きく息を吸い込んだ。

 発声には、自信がある。

 チェリーは「歌姫」ラモーナの妹だ。これまで人前で歌声をろうしたことこそないが、いざとなれば姉に教えてもらった呼吸法がすぐに思い出された。


「誰かー!」


 誰も来ないだろうと思いつつ、高らかにさけぶ。

 やましいところのある男はあせったようで「てめぇ」とすごみながらとっしんしてきた。


「ノエル、いまのうちに……」


 チェリーは、自分が注意をひいている間に、ノエルをがそうとしたのだ。だが、男が迫ってくることにおびえたノエルは、ぶるぶると震えてチェリーにしがみつくだけだ。


なぐられる……!)


 かくしたチェリーは、きつくノエルを抱きしめる。

 そのしゅんかんせきばらいが室内に響き渡った。


「ん。んんっん」


 男はぎょろっと目をきながら、勢いを殺しきれずにバランスを崩してその場に膝をつく。瞳には「いまのは何だ?」という疑問がかんでいたが、チェリーだってわからない。

 ノエルを抱きしめながら、戸口へと目を向ける。そこには、見慣れぬひとかげがあった。

 深緑色のドレスに、そろいのボンネット。

 時代がかって、埃っぽく見えるちをした年配女性が立っていた。


「この家に住んでいるのは、チェリー・ワイルダーというレディと、ノエルという子どもだけと聞いています。あなたは、そこで何をしているのです?」


 銀色ぎんいろまゆをきつくひそめ、青灰色の目をすがめた女性は、男を厳しい目で見ながら言った。


「何を、だと」


 男は、足をぐらつかせながら立ち上がり、今にも何か言いそうに息を大きく吸い込んだ。

 そこに立っていた女性を正面から見て、言葉を失ったようだった。

 およそびんぼう長屋では見かけることもない、ぜんとして背筋をばした、姿勢の良い女性である。

 つまらぬものをへいげいする目つきは、明らかに平民を見下す貴族のそれだ。

 男は、よろめきながら、悪態をつきつつ足を引きずるようにしてドアへと向かった。

 貴族女性がなぜこんな場末の長屋に現れたかわからないが、一人で出歩くことなどあるはずがない。同行者が駆けつければ勝ち目はない、と踏んだのだろう。

 女性は、厳しい顔つきのまま、男が出ていくのを見ていた。

 やがて、足音が遠のくと、チェリーに視線を戻した。

 もう何年も笑ったことなどないような、かたい表情をしていた。

 チェリーから「助かりました」と、お礼とはいえ気安く声をかけられるふんでもない。


(まるで石像だわ。まばたきしなければ、生きた人間とも思えない)


 どちらが口火を切るのか。女性の目がノエルに向けられた瞬間、チェリーはなおさら強くノエルを抱きしめた。

 自分が、しっかりしなければ、と思ったのだ。


「何かようでしょうか」

「あなたがチェリー・ワイルダー、ですね」


 フルネームで、はっきりと名前を呼ばれた。

 女性は、いかめしい顔つきのままさらに「んんっ」と咳払いをして、チェリーのかげかくれたノエルに目を向けた。


「それと、子どもがいますね」

「姉の子です。姉が不在なので、私がめんどうを見ています」


 着地のわからない会話にけいかいをして、チェリーは用心深く答える。

 貴族女性は、かたまゆを跳ねげて、重々しい口ぶりで言った。


「あなたの姉であるラモーナという女性は、落命したと聞いています。それから、あなたの父も母も。この長屋で暮らしているあなたの家族は、あなたとその子だけですね」


 チェリーは、答えあぐねて口をつぐんだ。


(ずいぶん、私やノエルのことをくわしく知っているみたい。どうして? この方は、どう見ても貴族。うちはびんぼうらしの平民で、貴族とはなんのつながりもないはずだけど)


 まどうチェリーに対し、相手は重ねてたずねてきた。


「さきほどの男は、あなたの情夫ではありませんね?」


 ぶしつけ過ぎる質問に、チェリーはけんしわを寄せた。


ちがいます。あの、さっきから、なんのかくにんをなさっているんですか?」


 一方的な会話で、まったくついていけてないのだと、うったえかける。それに対し、相手はまさに眉ひとつ動かさぬ石像のような表情で、おごそかに宣言した。


「よござんす」


 聞き慣れぬ言葉に、チェリーは「はい?」の形に口を開いたまま、静止した。


(「よござんす」? どこの言葉なの? 貴族用語?)


 理解しかねているチェリーをよそに、相手はたんたんと自分のペースで話を始めた。


「私はアストン子爵家を預かる者です。夫のアストン前子爵はすでにくなっておりますので、元しゃくじんとなります。当家のあとぎで現当主は、むすのバーナードです。戦場暮らしが少々長くなっておりますが、このたび最前線に赴くことになったようです。おそらく、もはや帰宅は望めないでしょう。そこであなたに提案があるのです。書類上で構わないので、バーナードとけっこんなさい」

「ねぇチェリー、あのひとだぁれ?」


 スカートのすそを引っ張りながら、ノエルが尋ねてきた。


「アストン元子爵夫人、だそうよ。初対面だけど、私も」


 口にしてみると、その大げさな言葉に現実感が遠のく。


(このひといま、子爵である息子と結婚しなさいと言った? 私に?)


 のうをかすめたのは、姉ラモーナのことである。

 おもい人は、貴族の御子息と言っていた。作り話とは思わなかったが、どうにも真実味がうすく、チェリーはそれとなく聞き流していたのだ。

 だが、もしその話が本当であったならば、ノエルは貴族の血を引いていることになる。

 そこでようやく、うっすら話が見えてきた。


「もしかして、アストン子爵さまという方は、ノエルのお父様でしょうか? 亡くなったと、聞いていたんですが」


 元子爵夫人は、ノエルをちらっと見て、気難しい顔で話を続けた。


「ラモーナじょうがお付き合いしていたという男性は、私の姉の子であるライアンでしょう」

「それはつまり、ええと……?」


 話が飲み込めずに尋ねると、元子爵夫人は硬い表情はそのままに、意外なほどていねいに説明をしてくれた。


「私の生家はリスターはくしゃく家で、現在はこうれいの父が当主をしています。私の姉にあたる長女とその夫が相次いで亡くなり、息子のライアンも戦死したことで、こうけい者がいません。バーナードが戦地から帰れば、しゃくと財産を相続することになります。ですが、けつえんという意味では現当主のひ孫にあたるその子にも、次期伯爵の資格があります」


「ノエルが伯爵? そんな、とんでもない……!」


 チェリーが顔をひきつらせて叫んだことで、ノエルは怯えて小さな手でチェリーのスカートにしがみついた。その様子を青灰色の目で見ながら、元子爵夫人は話を続けた。


「伯爵家側でも、そう考えていることでしょう。私の父は、むかし気質かたぎの頭の固い貴族です。孫が平民女性との間にもうけたこんがいを、自分の跡継ぎとして認めるようなゆうずうはききません。ですので、その子は当家にむかえます。『バーナードとあなたの子』として」

「私がノエルの母親ですか? 私も平民ですよ?」


 子爵とチェリーが結婚していたことにして、ノエルが二人の子ということにしてしまえば「婚外子」ではなくなるが、母親が平民である事実は残る。


(しかも、そうすると伯爵家とはえんどおくなるんじゃないかしら。ノエルをバーナードさんという方の息子にしてしまえば、子爵家には跡継ぎがいることになるけど……)


 チェリーの疑問に対して、元子爵夫人は静かな声で答えた。


「その子は、ライアンの幼いころによく似ています。私の息子の小さい頃にも、似ているようです。目元が。当家と無関係とは思われません。生みの母親の身分にかかわらず、その子が当家の跡継ぎになることは、何も問題ありません」

「それは、バーナードさんがいないところで、進めて良い話なんですか?」


 元子爵夫人は、くちびるを引き結んで押し黙った。

 やがて、表情をまったく変えないまま、答えた。


「戦地から戻る見込みがない、と言いましたでしょう。知らせることは、できますが」


 声はかすれて、弱々しく聞こえた。チェリーは、思わずだまり込む。


(跡継ぎ問題に、そう結婚。私がいまうなずいたら、ノエルにはこの先ずっと、噓の人生を歩ませることにならない?)


 ここはノエルの保護者として、きちんときょしなければ。そう考える一方で、断ってしまうのはもったいない、とチェリーはすでに気づいている。食べ物もお金もないのだ。現実的に、このまま二人で生きていくのは難しい。チェリーはためらいながら、問いかけた。


「この話を受けたら、ノエルに、何か食べさせてあげられますか」

「もちろんです。子どもには、食事が必要です。それに、夫に先立たれた妻には、年金が入ります。夫が戦死者であれば、遺族年金となり、さらに額が高くなります。その子を育てるのに、それは大きな助けになるでしょう」

「遺族……年金?」

「そうです。後継者とその養育費のために、その子とあなたの二人とも、必要なのです。当家に迎え入れるつもりで私はここに来ました」


 元子爵夫人の視線が、すっと流れて、蝶番が外れてかたむいたドアへと向かう。

 キイッと、ドアが物悲しい音を立てて揺れていた。もうまりすらおぼつかない。

 チェリーはしがみついているノエルを抱き上げて、元子爵夫人をまっすぐに見つめた。


「わかりました。ノエルをよろしくお願いします。私は、当主の奥様と言っても、年金を得るための手段で名ばかりなのもわかりました。使用人としてでも、ノエルのそばに置いていただければ」


 元子爵夫人は難しい顔のまま「子どもの面倒は、あなたの担当となるかと思いますが」と前置きをして続けた。


「当主の妻として、あなたも堂々としていれば良いのですよ。これまでとは勝手が違うでしょうから、覚えることもたくさんあります。さあ、行きましょう。準備をなさい」

「はい。見ての通りたいした荷物もありませんので、すぐにでも行けます」


 身の回りのものをトランクにつめて、チェリーはノエルと手をつないで家を出た。


とつぜん人妻になれと言われたとして、私には付き合っている男性も好きな相手もいないし、何も不都合はないわ。問題が起きたら、それはそのとき考えよう。いまは、私とノエルが前を向いて生きていくことだけを優先しなきゃ)


 こうして、チェリーはアストン家のよめとなったのである。

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