第28話 唯

 満月の夜。


 雲がかかっていないはずなのに雨が降って、夏なのに異様に肌寒い空気だった。


 もしくは、幻覚かもしれない。



 偶に、ありもしない現実を見て、日記に記録することがある。


 結に、あの時あんなことがあったよねって聞くと、はてなマークを浮かべて“そうだったっけ”と返されることもしばしばあった。


 そんな時は疲れてるのかななんて思いながら、結の部屋に忍び込んで一緒に眠るんだ。



 “仕方ないなぁ”なんて口では言いながらも優しく抱きしめてくれる結が好き。


 大好き。




「ふんふふ〜ん」


 もうすぐ体育祭。


 今までみんなと行事を作っていくなんて経験なかったから、私にとっては初めての学校行事。



 沢山沢山練習して、足手纏いにならないように頑張らないと……!


 そう意気込んで、ベッドに入る。


「おやすみ」


 か細い声で、眠そうに結がそう言って、電気を消した。


 明日もいい日になりますように。

 そう願って、目を閉じる。



 あったかいな……


 突然叩かれて起こされることも。

 毛布を引き剥がされて外に放り出されることも。

 外に追い出されて鍵を閉められることも。


 もう無い。



 此処にきてから毎日。

 安心して眠れるんだ。


「おやすみなさい……」


 本当に、本当にあったかい。









◆◇









「ようし、頑張るぞぉ!」 



 白山のライン、位置につく。

 隣には彼方ちゃん。


 勝てるかな……

 勝たなきゃ。


 結にかっこいいとこみせなきゃ……!


 でも私、そこまで身体能力が良いわけじゃないから、勝てないかもしれない。


 この競技は点数に表れるわけじゃないけど。


「勝たなきゃ!」


 私の魅せ場。

 一位で通過して結にたくさん褒めてもらうんだ。


 その時にまた、撫でてもらえないかな……

 なんて、想いを馳せながら目を瞑る。


 こうして、体育祭でみんなの目の前に立って、応援してもらえる。


 以前の私なら考えられないくらい……今、私は一番幸せなんだ。




 パァン!



 空砲が鳴り響き、脚を前に出す。


 運動は結ほど得意じゃ無いけれど、それでも沢山練習して準備してきた。


 何事にも全力で楽しむ。


 今は、昔みたいに無理して笑う必要がないから。

 


 目を開けると、空は青くて、色んな人の顔が見える。


 その中には応援してくれる結の姿、クラスメイトたちの姿。


 それから、それから、、



 それから……







「……え?」


 ポツリと、声が漏れた。

 無意識に近い、かすれた声。


「なん、で……」


 視線の先。

 やけに目立つ黒い服を着た背の高い男の人。



 そこにはお父さんの姿が、あった。


 見間違いじゃ無い。

 今でも鮮明に記憶の中に残っているから、間違えるわけ、ない……


 

 時間がとてもゆっくりになって、息が、苦しくなって……



 視界に映る空が、皆んなが、見えなくなっていくような、海で溺れるような、そんな錯覚に陥った。


 



 私、一体……なんで。

 すすめない。


 分からない、お父さん?


 いやでも……


 だけど、だから。




「有栖!」


 刹那、結の声がぼやけて聞こえる。


 その時にハッとした。

 沈んでいく私を引き上げてくれた。



 決めたはず。

 前を、向くって。


 結に、結に相応しくなるって。



 動いて。

 此処で止まったら、前の私に戻っちゃう。


 一緒に、隣を歩くって……

 幸せになるって、決めたから。




「頑張れ……」

 

 耳に強く残る声。


 誰よりも信じることができて、あったかくて、頼れる一番かっこいい人。



「結、ゆい、ユイ……」




 私、私ね。





 あなたが好きだよ。






 ずっと、隣にいてほしい。

 あなたと一緒に、旅をしたい。


 私にとっては、知らない世界に連れ出してくれるあなただったから。


 また、歩き出せる。

 

 ただそれだけで、わたしは幸せ。



 

『青組、大丈夫でしょうか……』


『顔色が、少し悪そうですね』


 

 ようやく司会の人たちの声が聞こえるほどの平常心を取り戻して、正面を向く。


 脚を前に進める。


 大丈夫。


 また走れる。



 必死に、夢中に、全力に。


 


「はぁ、はぁ……」


 さっきのこともあって、息がもつれるけれど、今は苦しくない。


 大丈夫、ちゃんと走れてる。


 吊り下げられているパンをそのままジャンプして口で咥える。


 何度も練習してきたから、一発で取ることができた。


 よし……!


 最後尾を捉えて、ゴールまで寸前のところで追い抜いて……


 そのまま、倒れ込んだ。



「あ、有栖!?」


 結の慌てた声が聞こえる。


 嗚呼、やっぱり結はちゃんと見てくれていた。

 見守ってくれていた。


 大の字にその場で寝転がって、青い青い空を見つめる。


 少し、暑いや……


 でも今は最高に気持ちいい。




 このベタベタの汗も、砂埃も、擦りむいた傷も、結が今、私の手を握って体を起こしてくれたことも、全部、全部わたしにとっては宝物。





「結、大好き」


「え!?」


 そう言って結に思いっきり抱きついた。


 幸せ。

 幸せだよ……


 

 そうして少しの間、ぎゅっと抱きしめる。


「有栖、みんなの前だから、ちょっと、恥ずかしいな……」


 照れくさそうに結はそう言うけど、今は、今だけは聞かないことにした。



「今は少しだけ、迷惑かけさせて……ね、結」


 私のわがままを聞いて欲しい。




「……ん、じゃあ、ちょっとだけだよ」


 やっぱり、優しいなぁ……

 



 

 

 

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