第16話 誰彼時

 朝。 

 その日は最悪の目覚めだった。


 悪夢、というにはあまりにも美しく、

 吉夢、というにはあまりにも拙い、


 そんな曖昧で、されど鮮明な夢を……


 そんな、長い夢を見てた。


 もうずっと前の、記憶にもほとんど残っていない前世の出来事。


 独り、無心に、好きなことに溺れて生きてたあの頃の記憶。


 それから……


 あまり


「思い出したくはなかったけどさ……」


 ベッドから起き上がって、ぼーっとしながら、そんな独り言をボソッと呟く。




 自分が病室にいた時の夢。



 交通事故ではねられて、頭を強く打って、その衝撃で脳挫傷になって……


 記憶の断片的な欠落。

 運動障害で手足が動かせず車椅子で過ごしたあの日々。


 思い出したくもない、耐え難い苦痛だった。




 今まで当たり前にできていたものが、できなくなって、


 だから……

 何もできない自分は、果たして生きていてもいいんだろうかって、不安と憔悴に駆られて、この命を絶ってほしいとさえ思った。


 ずっと、宙ぶらりさ。


 微睡まどろみの中で溶け込めたのなら、どれだけ良かったことか。



 動かない手足と、自分の欠落した表情を鏡で見て、涙が出た。



 なんで……

 俺は、こうなったんだろう。


 誰かを、何かを恨めど、満たされることなんて有りはしなかった。



 唇を強く噛んで、その痛みで夢の記憶を忘れようとしたけれど駄目みたいだった。


 


 ただ、そんな夢の中でも、燦然さんぜんと輝く記憶が確かにあって……


 隣の病室にいた人がずっと笑顔で話しかけていたのを思い出した。


 その人と話している時だけは、何もかも忘れられた。

 

 とても落ち着いた綺麗な声と、病気で抜け切ってしまった髪、それでも笑顔に溢れるそんな彼女。


 忘れていた前世の記憶で、最も光が当たる彼女は……


 癌でこの世を去った。





「あ……そっか」



 思い出した。


 もう長いこと忘れていたけど……


「有栖、君だったんだ」


 

 手足が使えなくなって、口を使って必死に描いた絵を褒めてくれたのは……


 君だった。

 

 

 


 そうして、2024年の夏。


 俺は一足遅く、今際いまわきわをあとにした。


 





◆◇







 完全復活!


 やったね。

 

 とはいえインフルから復帰したはいいけど、最近走ってなかったから体力がいちじるしく低下してる。


 もうすぐ体育祭だし、早めに体力を戻さなければ。


 というわけで、俺は男女混合のクラスリレーの一人に選ばれた。


 というよりかはクラスの足速い順に勝手に決まっていて、翡翠も選ばれていた。

 

 今思ったけど、相当翡翠は速い。

 俺は100m12秒台だけど、翡翠は11秒前半。


 陸上部メンバーもうちのクラスには多くて、勝ったなと慢心するクラスメイトたち。


 うんうん。


 あれ……


 もしかして

 これで負けたら大恥……ってこと?


 慢心ダメ絶対。


 圧倒的な勝利をもぎ取る為、放課後も残って何度もバトンパス練習した。




「そういえば翡翠くんと二葉さんって最近仲良いよね」


 俺と翡翠が水分補給していると、リレーメンバーの陸上女子主力とされる加藤さんがそう話題を振ってきた。


「仲良いよ」


 俺が思ってるだけかもしれないけど。


「はい!仲良いです」


 お、どうやら翡翠もそう思ってくれていたらしい。


 嬉しいね。



 そう俺たちが答えると、加藤さんは俺に近寄ってきて、耳元で口を開いて……


「もしかして、付き合ってる、とか?」


 そう言ってきた。


「いやいや、ただの友達」


 まったく……

 俺が好きなのは有栖だってのに。


 まあ、叶うかは無いんだとは思うけど、

 この一生を、有栖の側に添い遂げられたのならば……と、


 願わくばだけど。




 そうして夕日も落ち、影が顔に照らされて酷く曖昧に見える。


 有栖も彼方も先に帰ってしまったから、翡翠と二人で帰路を辿った。



「あ、猫……」


 可愛い。

 

 撫で……

 させてはくれないか。


 警戒心マックスですぐに逃げ出してしまった。


 俺、猫からよく避けられるんだよなぁ。

 残念……


 しゃがんだ姿勢でなんとか猫をおびき出そうとするけれど、シャーと一蹴された。


 そんなぁ……


 俺はしょぼくれながら背後にいる翡翠の方を振り返ると、その足元には四匹の猫がいた。


「あはは、猫によく好かれる体質なのか、近寄ってきてくれるんですよね」


「なにそれずるい」


 まじかよ……

 俺はこんなに苦労してるのに。


 とりあえず翡翠の足元にいる猫に近づくと、翡翠の脚を縦に後ろの方に行ってしまった。


 なんで?


 あ、

 ちょ……


 待って!



「うう、触らないどころか威嚇された……」


 こんな美少女なのに、なんで……?

 猫にとっては不細工ってこと?





 結局、近づくのは諦めて、そんな猫がいた通り道をあとにした。



 そうして、沈黙が続く。

 目眩めくるめく夕日に思わず目を瞑ってしまいそうになる。


 こういうのを誰彼時たそがれどきって言うんだっけ……


 俺は猫に好かれなかったことに黄昏ながらそんなことを思った。



 そんな沈黙の時間は、不意に終わる。


「あの二葉さんって何でそんなに絵が上手いんですか?」


 一緒に歩いてたはずの翡翠が、いつのまにか立ち止まっていて……


 俺にそう聞いた。


「なんで、か……」


 なんで、絵が上手いのかなんて言ったら、

 気づいたらこうなってたってのが一番近いかもしれない。




 前世の記憶も、まだ曖昧で、思い出したものも断片的なものしかないけれど、好きだったことだけは深く覚えている。


 思い出したくないことも沢山あるし、未だに思い出せないものもあるけれど、


 いつの日か誰かに、褒められて……

 それが嬉しかったのは何となく、前世とは姿形は見る影もないけれど、この心のうちにはしっかりと刻まれていて、


 それが一番の原動力になっていた。


 今思うと彼女が有栖だったんだなあって……

 運命の出会いとは言うけれど、この上ない奇跡の産物で。


 ずっとそれが好きでいられた。



「好きになったらとことん観察するのが自分の性だからね。気が付いたらこうなったってのが正しいかな」


 この酷く曖昧で、それが最も美しいとさえ思えるこの好き・・という感情は、興味や好奇心に繋がって……



 ピアノに惹かれたのも、絵に惚れたのも、有栖を好きになった時も。


 その瞬間は常に唐突だ。


 理屈的な自分はどこかへ行ってしまった。

 感情と運命という曖昧なものに、決断を委ねた。


 好きになったら、それまで。


 どこまでも深く潜って、溺れていたい。

 そうすれば不安を包み隠せるって知っていたから。


「何でも試してみた。例え遠回りでも、知りたかったから」


 それに好きを貫けば、元々持っていた不安を押し潰せたから。


「すごいですね」


「別に凄くはないよ」


 そう。

 自分には好きなものしかない。


 ただ好きなものの、ためならばどんなものでも受け入れる覚悟がある。


 それだけ。


 それだけの、話。


「自分の好きをたくさん描いてみて、試行錯誤すれば……絵は理想に近づくから」


「……」


 才能センス才能ユニークも、才能ラブには敵わない。


「その、迷惑じゃなければこれからも相談に乗ってもらっても良いですか?」


「いつでもいいよ。自分は君の絵に惚れたからね」


 夕日が翡翠の顔を照らして、その表情はよく見えなかったけれど……


 でもまあ、安堵したような雰囲気が、見てとれた。




「それにしても、夕日が綺麗ですね」


「そうだね」

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