第3話 想定外は唐突に

 二葉ふたば ゆい


 全日本学生音楽コンクール、ピアノ部門で数々の最優秀賞を飾った天才。


 その才覚の台頭は早く、低学年から高学年の部、中学一、二年生の時も優勝し、ピアノコンペティションもまた同様にA二級の頃からD級まで金賞を取っている。


 しかし―――

 中学二年を最後に、彼女は突然舞台を去った。


『消えた天才』

 そんな見出しで地方新聞を飾ったこともあるが、当の本人はその事実さえ知らない。

 

 彼女にとって、ピアノとは自己表現そのものであり、追っかけや世間の注目は、ただ煩わしいだけだったのだ。


 出る杭は打たれる―――

 天才であるがゆえの宿命。


 しかし、今日、その過去の記録と記憶を塗りつぶすかのように、彼女は表舞台に帰ってきた。


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 結が弾き始めた“別れの曲”


 冒頭の旋律が響いた瞬間、会場全体が息を飲み、まるで時間そのものが凍りついたかのような感覚。


 その音色は、ただ美しいだけでなく、誰もが胸の奥底で知っているはずの「別れ」という感情を、音楽として具現化したようで……


 演奏が進むにつれ、ピアノの軽やかで甘美な旋律が、次第に重く深く――


 落ちていく。


 それが、心地よさの裏に潜む哀しみ、そして抗いがたい絶望を感じさせた。

 


 天才少女と二年前に揶揄された彼女。


 その音には、一つの問いが浮かび上がるようで―――


「彼女にとって『別れ』とは、何だったのか」


 審査員たちの表情が次第に変わっていく。

初めは驚き、次に感嘆、そして最後には沈黙へと至る。


 評価を書くためのペンを握る手は、いつの間にか止まっていて、審査すら無意味だと感じさせるほど、その演奏は圧倒的だったから。




 彼女にとって、別れとは……


 心に隠したはずの、でも隠しきれずに滲み出る深い絶望。


 ピアノの音は、まるで水底に沈んでいくかのように次第に小さくなり―――


 最後の音が消えると同時に、聴衆全員が水面に浮かび上がったかのように現実へ引き戻された。


 しかし、ただの一人も拍手をする者はいなかった。


 否、拍手ができなかったのだ。


 彼女の演奏はそれほどまでに人の心を捕らえ、圧倒的な重みを持っていた。


 そうして―――


 しばらくの静寂の後、ようやく一人、また一人と拍手が広がり、瞬く間に会場全体を埋め尽くす嵐のような喝采が巻き起こった。




 ピアノ業界から完全に離れていたと思われていたが、今回復帰したようで期待されていた。


 その期待は、良い意味で裏切られた。


 完璧だ、音の間も、なんて鮮明に聞こえるのだろう。


 今回の参加者は選りすぐりの天才たちだったが、その中でも圧巻の一言に尽きた。



 審査員や参加者、聴いているスタッフ全員が、海の中にいるような感覚に陥った。


 心地良さと、でもどこか寂しそうな、悲しそうで……


 その演奏は人を惹きつけてやまない。


 これは、彼女以外誰にも真似できない。


 

「すごいな……」


 審査員の一人が、感嘆とも呟きともつかない声を漏らしす。


 その声には、羨望と敬意が混ざっている。

 そう、この場にいる誰もが確信していた。


 優勝は、二葉結―――

 彼女しかいない。



 


 




◆◇





 俺が一番で、彼方が二番。


 相変わらず、変わり映えのない評価に苦笑いした。


 しかし、この形容し難い不確かな心臓の鼓動を思い出させてくれたのは、彼方だ。


 自分の中では、完膚なきまでに負けたとさえ思っている。


「ようやく、決心がついた……」


 表彰台で俺の隣にいる彼方が俺だけに聞こえるように呟いた。


 一体何の決心なのかと疑問に思っていると、彼方が晴々とした表情でこう言った。


「私、ピアノを辞めるわ!」


「え……?」


 一体どうして……




「負けたら引退って決めてたから」




 それだけの覚悟を背負って、彼方はこのコンクールに臨んだ。


 全てを尽くして、演奏した。


 それでも……


「あはは、届かなかったなぁ……」


 彼方はそう言葉を吐露する。




「……」


 何が届かなかっただよ……

 俺にピンポイントでぶっ刺してきやがって……


 あの演奏、まるで有栖が弾いてるように見えた。


 それだけ一番心に来た。


「勝ち逃げかよ……」


 優勝したのに釈然としない。

 寧ろ負けた気分だ。


 そんな俺の吐いた言葉と表情を見て、彼方は満足げになった。


 ある程度俺が今何を思っているのか理解したのだろう。


 伊達に長いこと一緒にいるだけはある。


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 そうしてコンクールは幕を閉じ、いつもの日常が帰ってきた。


 もうすぐ高校生最初の夏休みが始まるから今のうちに重たい荷物を持ち帰る。


 それにしても暑いなぁ……


 蝉の鳴き声と、このジメジメとした空気。


 汗が顎を伝い滴る。


 どうやら日本の夏はサウナを無料で体験できるらしい……


「あぁ、あつい」


 家の扉の鍵を開け中に入る。


「あぁぁぁ"あ"涼しい……」


 温度差に身体が一瞬びくっとなったけど、慣れていく。


 こういう温度が急激に変わるとおしっこ行きたくなるな……



「ただいまぁ〜」


 我が家だあああああああ




「ん?」


 ベッドにゴロンと寝転がるとメールの通知が来ていて……


『コンクール優勝ないす!流石結だね!


 それと俺のろくでなしの兄さん、結にとっては叔父さんの娘さんをうちに停めてもいいかと聞かれたんだが生憎俺たちは海外にいるんで、結のとこに預けても良いかな?』


 


「……???」


 なんだこれ……


 お父さん、だよな……?


 普段寡黙な人だから、正直メールでこんなにファンキーな感じになるとは思わなかった。


 意外な一面だ。


「それにしてもお父さんに兄弟なんていたんだ……あの人滅多に自分のこと話さないから知らなかったな」


 叔父さんの娘さん、つまり自分にとって

従姉妹いとこにあたる子がうちに来るのか。


 とりあえず“全然問題ないよ”って送ると、直ぐに返信が返ってきた。


 はえーなおい、


「えー、なになに」



『ちなみに結と同じ中学だった有栖 唯って子だよ』


 ん?


 え?


「どういうこと!?」


 待って、一旦冷静になろう。


 こういう時は般若心経を唱えれば落ち着くと聞いたことがある。


「ふぅ、ふぅ、うん……マジかよ!」


 有栖がうちに来るの!?


 いつかまた会えたら良いなって思ってたけどまさかこんな早く再開できるチャンスが来るなんて……


「うへへえ」


 きっと今は美少女にあるまじきだらしない顔になっているのだろうが、そんなことは最早どうでもよかった。


「どうしよ、歓迎会とか必要かな!」


 幸いコンクールで賞金貰えたし、ちょっと奮発してお高めの食材買っちゃおうかな。


 鼻歌まじりにあれこれ妄想する。



 あれ……


 ちょっと待って……?


「もしかして、有栖と俺って従姉妹同士……」


 ただでさえ同性だっていうのに従姉妹なら付き合える確率、ゼロなんじゃ……


「そ、そんな……」


 先ほどのウキウキ気分とは一転して、床に崩れ落ちがっくしと項垂れる。


「この時代、そういうのに保守的だし、オレが告白しても迷惑なんじゃ……いやでも前みたいに後悔したく無いし……」


 俺は、もうダメかもしれない。


 どうすればいいのか分からない。

 

 くそ、無駄に前世で二十何年間生きたはずなのに、この手の話題は枯れ果ててたから、俺はよわよわなんだぁぁぁ……


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 決意を決めて……


 なんな頭痛が痛いみたいな構文だなこれ。


「ふぅ……」


 今日はうちに有栖が来る日……

 ようやく決心が着いた。


 なんかいつもより呼吸が苦しい気がするが、多分気のせいだと思う。


 正直なところ、嬉しい気持ち反面、少し心配な所もあった。


 もし、彼女に忘れられていたら、軽く死ねる。


 死ねるは流石に言い過ぎだな。


 学校を一ヶ月は休むくらいにはショックを受けると思う。


「どうしよ、でも……」


 嗚呼ダメだ。

 考えすぎると直ぐに負の感情が出てくる。


 やっぱ俺は何かに没頭してないと、すぐに心配になるタチだから、考える余裕があるとすぐこうなる。


「ちょっと走ってこよ」


 気持ちを落ち着けるためにも、黙々と走れば少しは気分が回復するだろうから。


 そうして俺はランニングウェアを着て扉をあけ、家の外に出て街を走る。


 まだ人がほとんどいない早朝だから気持ちよく走れる。


 思った通り、少しだけ気分が晴れてきたので、それを維持しながらポジティブなことを考え続けながら走った。



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