第8話 夢じゃなかった……
やっちまった……。
翌朝、六畳間のベッドの上で目を覚ました俺は、昨日のことを思い出して頭を抱えた。
俺……深山先生とキス……したよな?
いや、夢か? いやいや強引に夢だということにしようとしても、どう考えてもあの記憶は鮮明に脳内に残りすぎているし、無理筋なのは理解できる。
俺……教師だよな? 高校教師だよな?
それなのに赴任早々同僚の美人教師とキスって大問題どころの騒ぎじゃない……。
いや、もちろん契約書に同僚とキスをしてはいけないなんてことが書いているはずもないし、仮に俺と深山先生が付き合っていたとしてもそれが原因で懲戒処分を受けるようなことはないはず……だけど。
それは所詮は建前である。こんなお嬢様ばかりが集まる全寮制の学校で教員同士が付き合っているなんて(付き合ってないけど)バレたらとてもじゃないここにはいられない。
あぁ……マズいことになった……。
赴任二日目にして教員として致命的なミスを犯した俺は、絶望的な気持ちで学校へと向かい職員朝礼へと参加した。
「あ、細川先生おはようございますっ!! 昨晩はよく眠れましたか?」
これが職員室で深山先生からかけられた言葉である。
彼女はまるで昨日のことなどなかったかのように気まずさのかけらも感じさせない爽やかな挨拶を俺にしてきた。
「おはようございます……」
なんて一応は返事をしたが、俺の心中は穏やかではない。
俺……昨日この人とキスしたんだよな……。こんな可愛い女の子と体を密着させて唇と唇を交わしたんだよな……。
なんて考えていると朝礼の内容なんて頭に入ってくるはずもなく、気がつくと職員朝礼は終わっていた。
なんだかぼーっとする頭で職員室を出た俺だったが、ふとこうも思う。
昨日の深山先生は缶ビール一杯とはいえかなり酔っていたと思う。顔が赤かったのが風呂上がりのせいなのか酒のせいなのかはわからなかったが、普通に考えたら俺なんかにキスをする理由もない。
だとしたらあれはお酒のはずみだと考えるのが妥当である。
そんでもって今朝の爽やかな深山先生の挨拶から考えるに、彼女の脳内にキスの記憶が残っていないという可能性も十分にある。
いや、むしろ昨晩酒のはずみでキスをした男を目の前にこんなにも爽やかに挨拶なんてできるだろうか?
少なくとも俺にはできなかった。
そうなるとやっぱり昨晩のことは覚えていないと考えるのが妥当だろう。
そうだっ!! そうに違いないっ!!
だったらなかったことにしよう。俺さえなかったことにすれば全ては解決する話だ。
そう考えて少し心が軽くなった俺が教室へと向かって2-Bの教室へと向かって歩いていると。
「キスの味、まだ覚えていますか?」
耳元でそんなことを誰かが囁くものだから心臓が止まりそうになる。
「ひぃ……」
あまりの驚きに思わずそんな情けない声を漏らすと、耳元でその誰かがクスクスと笑う。
当然ながら声の主は深山先生である。
「せ、先生、やっぱり昨日のこと――」
俺が発言しようとすると彼女は「声が大きい」と人差し指を自分の口に当てる。
「え? あ、すみません……ですが、やっぱり昨日のこと……覚えているんですか?」
と、小声で聞き直すと深山先生は「はぁ……」とため息を吐く。
「別にお酒は強くありませんが、さすがに缶ビール一本で記憶が飛ぶほど弱くもないです」
「そ、そうっすか……」
残念なことにしっかりと覚えているようである。
ってか、覚えているのに今朝あんな爽やかな挨拶を俺にしてきたのか?
女の人って怖い……。
「なんというか昨晩のことは――」
「なかったことにはなりませんよ。今朝の職員室のそわそわした様子を見てもやっぱり先生はまだまだ女性に耐性がないようですね」
「だけど教師としてこういうことは……」
「あくまで役なのでかまいません。先生がそれで女性に慣れてくれるのであれば私は同じ2年を受け持つ身として責任を持って役を演じるつもりです」
「いやでも……」
「それともこんなことをしたら本気になっちゃいますか? 先生がそのつもりなら私も本気になっても構いませんが」
なんて悪戯な笑みを浮かべられるものだから顔が熱くなる。
当然ながら、からかわれていることぐらい理解している。でも耐性のない俺はそれでも顔が熱くなるのを抑えられない。
先生はそんな俺を見てまたクスクスと笑う。
そして「じゃあ私は奥なんで」と俺に微笑みかけるとくるりと俺に背中を向け、自分の教室の方へと歩き出した。
のだが。
「あ、そうそう」
と、何かを思いだしたように足を止めると再びこちらへと顔を向けて笑みを向けてきた。
「なんですか?」
「昨晩、教員寮にネズミが出たみたいですよ?」
「え、ええっ!? ま、マジっすか……」
そんな言葉に俺の顔から血の気が引く。まあ、確かにあのオンボロ寮ならネズミの一匹や二匹いてもおかしくないが、あまり聞きたくなかった情報だ。
大学時代に居酒屋のバイトをしていたとき無数のネズミがゴミを漁っているのを見てトラウマなのだ。
「あれ? 先生はネズミは苦手ですか?」
「得意な人とかいるんですか?」
「あの後部屋に帰る前に学生寮の方に駆けていくのを見たんです」
「ま、まじっすか……」
それは生徒たちにとって気の毒なことだ。
「あ、でも安心してください。今のところ私が見たのは一匹だけでしたし、都会のドブネズミとは違って、とても可愛らしい小さなネズミでしたので」
「そ、そうっすか……」
「きっと細川先生がメロメロになるぐらい可愛かったですよ。じゃあ授業、頑張ってくださいね」
そう言って改めて先生は自分の教室へと歩いて行った。
まあ、山のネズミであればそこまで汚くなさそうだ。
ヤマネとかカヤネズミの類か?
なんて思い直して俺は2-Bの教室のドアを開けるのであった。
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