虹色の記憶

藍沢 理

第1話 違和感の始まり

 初夏の陽射しが降り注ぐ渋谷の街。人々の喧騒に溶け込むように、綾瀬あやせイリアは颯爽と歩を進めていた。スマートフォンを片手に、彼女は次の目的地へと向かう。仕事をさぼっているとは思えない爽やかさで。


「さて、この後どこに行こうかな」


 イリアは立ち止まり、周囲を見回す。色とりどりの看板や、行き交う人々の姿が目に飛び込んでくる。

 その時だった。突如として、軽い頭痛が彼女を襲う。


(あれ? ちょっと変な感じ……)

 イリアは眉をひそめる。頭痛とともに、何か違和感のようなものが心の奥底でうごめいていた。


(昨日の夜、どこで寝たんだっけ?)

 ふと、そんな疑問が頭をよぎる。しかし、思い出そうとすればするほど、記憶が曖昧になっていく。


(きっと、忙しさのせいよね)

 イリアは首を振り、自分に言い聞かせるように呟いた。しかし、その声には僅かな不安が滲んでいた。


 *


 午後、イリアはクリエイティブ・ビジョン広告代理店のオフィスに戻った。エレベーターから出ると、いつもの喧騒が彼女を迎えた。同僚たちが電話で熱心に話し合う声、キーボードを叩く指先の音、時折響くプリンターの動作音。イリアは深呼吸し、自分のデスクに向かった。


「ただいま戻りました」


 隣席の鈴木香奈かなに小さく声をかけながら、イリアはパソコンの電源を入れる。画面が明るくなるのを待つ間、彼女は今日の打ち合わせの内容を頭の中で整理し始めた。


「イリア、この企画書どう思う?」


 隣の席から香奈が声をかけてきた。


「えっと、ちょっと見せて」


 イリアは画面に目を向ける。しかし、その瞬間、再び軽い頭痛が走った。


「どうかした?」


 香奈が心配そうに尋ねる。


「ううん、大丈夫。それより、この企画書だけど……」


 イリアは頭痛を押し殺し、企画書の内容について意見を述べ始めた。しかし、話をしながらも、何か引っかかるものを感じずにはいられない。


「そういえば、イリア。昨日の打ち合わせの内容、覚えてる?」


 香奈が唐突に尋ねた。


「え? あ、うん。確か……」


 イリアは答えようとしたが、記憶が霞んでいるのに気づく。昨日のことなのに、なぜこんなにも曖昧なのか。


「あれ? ごめん、ちょっと思い出せないわ」

「そう? 珍しいね、イリアが忘れるなんて」


 香奈は軽く笑ったが、イリアの胸の中では不安が大きくなっていた。


 *


 夜、イリアは自宅のアパートに帰り着いた。玄関を開け、靴を脱ぐ。しかし、その動作すら何か不自然に感じる。


「お腹すいたな……」


 イリアは台所に向かうが、冷蔵庫を開ける気にはなれない。なぜか食事の準備をする気が起きないのだ。


「疲れてるのかな」


 そう呟きながら、イリアはベッドに横たわる。しかし、眠りにつこうとしても、何か違和感が拭えない。


 天井を見つめながら、イリアは今日一日のことを思い返す。仕事をさぼって渋谷での買い物、オフィスでの仕事、そして今。全てが普通の一日のはずなのに、どこか引っかかるものがある。


「きっと、明日になれば大丈夫よ」


 イリアは目を閉じた。しかし、彼女の心の奥底では、まだ見ぬ真実への不安が静かにうごめいていた。


 夜が深まり、街の喧騒が遠ざかっていく。イリアの部屋に、静寂が訪れた。

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