夜鴎亭の一騒動
「エールが薄いってんだよ! ナメてんのかこの店は!」
「うちの出すもんに文句があるっていうのかい新入り!! そいつはうちで普段から出してる普通のエールだよ!!」
ニラムが夜鴎亭の扉を開けた瞬間、強い酒の匂いとともに聞こえてきたのは、圧倒的な剣幕で繰り広げられる男女の罵り合いだった。
カウンターを殴りつけ、瞳孔を見開く女主人のメリーおばさんに若干、男の方が圧されているようにも思える。
鬼神が見える怒りに、思わずラフィが尻尾を股の下に隠した。周囲の荒くれ者たちも――主にメリーおばさんの方に怯えて――手も口も出せずにいる。
リオンもそっと扉の影に隠れた。
「アタシの店が気に食わないってんなら、とっとと出てって二度とその面見せるんじゃないよ!」
「テメェ、俺様を誰だと思ってやがる!! 霧の国じゃあ、その名を知らぬ者はいなかった暴風のラルガ様だぞ!!」
「暴風だかそよ風だか知らないけどね、この町じゃアンタはただの新入りだよ!!」
「て、めぇ……!」
ラルガと名乗った男は女主人の言葉にその厳つい顔面をみるみる真っ赤にさせると、おもむろに立てかけていた剣を手にして振り上げる。
ニラムはそれを見た瞬間に、突風とともに駆け抜けた。
大振りの剣がバキンと音を立てて砕ける。ラルガは目を見開き、周囲の観客は二人の間に割って入った小さな影に大いに沸いた。
「ニラムちゃんだ!」「夜警団だ!」「新入り、今のうちに謝っとけー」
野次を飛ばす衆人環視の中、呆然とするラルガの腹部をハルバードの峰で思いきり打ち据える。
「がっ!?」
「ナナシの港のルールその1。みんなが集まる店での私闘及び、従業員への乱暴はいかなる陣営だったとしても禁止する」
ニラムの持つハルバードがそのまま、ラルガを思い切り押し飛ばした。テーブルを巻き添えにしつつ倒れた巨漢が、目を見開いて信じられないとでも言うようにニラムを見つめる。
「な、なんだこのガキ……!」
「夜警団のニラム・シェーネパウクです」
ニラムが翡翠の瞳でラルガを見据える。自らを恐れない真っ直ぐな瞳が気に食わないとばかりに、巨漢は目を吊り上げて叫び散らかした。
「このっ、夜警団かなんだか知らねえが……こんなガキ一人!!」
鍛え上げた太い腕を振り上げ、小さな少女を打ち据えようとする。
大振りの攻撃を身を低くし避けたニラムは、そのままラルガの懐に飛び込んでいった。振るったハルバードの柄部分がラルガの上体を打ち、薙ぎ払う。
巨体が扉を押し開けて外へと吹っ飛び、開け放たれた扉から吹きこんでくる夜風がニラムの茶髪を靡かせた。
「さっすがニラム。容赦ねぇなあ」
リオンの言葉をスルーしつつ、酒の匂いが充満する店内から外に出た少女は威圧するように仁王立ちで腕を組んだ。
「この町で暮らすのなら、最低限のルールを守ってください! メッ、ですよ!」
「な、なにがメッだ……バカにしやがって!! ぶっ殺してやる!!」
子どもにしてやられたのが腹立たしかったのだろう。立ち上がったラルガは青筋を浮かべて鼻息荒く、その巨体を用いて突進してきた。
振るった拳は小さな体にひらりと避けられるが、地面に大きく穴を開ける。やはり大振り。だが一撃一撃が重い。まるで鉄球のハンマーを振るったかのようだ。
こうなるとスタミナも体力も有り余っているだろう。双方、余計な怪我をするのは良くないし一撃で済ませるしかない。
となれば。
再び突進してきたラルガを見て、ニラムはあえてその場から動かない。野次馬そのもので店から外の様子をうかがっていた観客たちは阿鼻叫喚である。
「ニラムちゃん!?」「バカバカ避けろバカ!!」
そんな声は無視して、ニラムはギリギリまで相手を引き付け――再び相手の懐へ飛び込んだ。
「ここです!!」
鳩尾狙いかとラルガは腹に力を入れる。しかし、彼が衝撃を感じたのはそこではなかった。
腹部よりずっと下。股の間に存在する絶対的な男性の急所。すなわち金的をハルバードの長い柄で打ち据えた。
息を詰まらせ、泡を吹きながら巨漢が地面に倒れ伏す。
その様に背後の空気が震え上がった。
「よ、容赦ねぇ」「さすがこの町最強の夜警だぜ」「くぅぅん」
ぶるぶると震える観客たちに首を傾げつつ、ニラムはラルガへと声をかける。
「まだやりますか?」
ハルバードの柄を地面に突き立てて見下ろせば、泡を吹いていた巨漢はみるみるその顔を青く染めていった。
ラルガは先ほどまでの威勢が嘘のように首をぶんぶんと横に振ると、声を荒げてニラムに許しを乞うてくる。
「か、観弁してくれ! 俺が悪かった!」
「今後は町のルールをしっかり守ってくださいね」
約束ですよ、と言いつつニラムは夜鴎亭へ足を向ける。次の瞬間、ラルガの瞳がギラリと光った。
「死ねクソガキィ!!」
性懲りもなく振るわれた拳。振り返りざまの一瞬に冷めた目を向けると、少女は跳躍して男の肩に着地する。
ハルバードの峰が、容赦なく第二の急所たる脳天へと叩き込まれた。
ぐらりと傾いてゆっくりと倒れ伏す男の肩からひらりと飛び降りたニラムは、今度こそ意識を失った男の片足を掴んで引きずっていく。ここにいたら迷惑だろうと、とりあえず少し離れた路地裏にぽいと放り投げた。
それから店に戻るが、多くの客は金的を容赦なく打ち据えたニラムに顔を青くしつつ、慄いている。
少女である彼女が理解しきれず小首を傾げる一方で、メリーおばさんはというと心底楽しいと言わんばかりに腹を抱えて笑っていた。
「どうかしましたか?」
「い、いや」「べつに」「なんでもない……」
ラフィやリオンも含め、さっと視線を逸らす男衆を不思議そうな目で見つめるニラム。そんな光景を豪快に笑い飛ばしながら、メリーおばさんは小さな肩をポンポンと優しく叩いた。
「いやぁ、ありがとうね夜警さん。これでしばらくは平和になるってもんよ!」
お礼の言葉にはにかみつつ、ニラムは謙遜したように頬をぽりぽりと掻く。
「いえ、お仕事ですから」
「何言ってんだい、ほぼボランティアじゃないか。ほら、お駄賃持ってきな」
メリーおばさんが投げて渡してきたのは、ずっしりと重たい麻袋。中身を開けてみると銀貨が十枚ほど入っており、それを見たニラムはギョッとしてしわの多い笑顔を見上げた。
「こ、こんなに!? 良いんですか!?」
驚愕の表情を浮かべて問いかけてきた少女に、景気よく笑ってみせたメリーは制帽を取り上げると、小さな頭をわしゃわしゃと撫でまわす。突然撫でられたことに驚いて目を見開くニラムの額に、メリーおばさんは「バカだねぇ」と笑って軽いデコピンを喰らわせた。
「あいたっ」
「命張った仕事に渡す対価がベーコンの塊だけなわけないだろう。まったく、親子揃って金に頓着しないんだから」
「え、えへへ……」
「えへへじゃないんだよ。まったくもう」
震えていた男たちも少し落ち着いたのか、顔を見合わせて誰からともなく拍手をし始める。
「かっこよかったぜニラムちゃん! なあ?」
「ああ、だからもうちょい胸張ってもいいと思うんだよなぁ、俺は」
「謙虚なところも可愛いぜ!」
「ニラムちゃん、ポーカーやっていかないかい?」
「あー、夜警さんはお仕事なもんで。また今度なー」
野次の中に混ざる賭け事へのお誘いを、先ほどから観客側に回っていたリオンが遮る。それに対して、ジト目を向けた男たちからブーイングが飛び交いはじめた。
「なんでい、リオン。お前は夜警じゃねぇだろうが!」
「さっきもぼーっと見てるだけだったくせに何偉そうにしてやがる!」
男たちの主張にリオンも負けじと反論する。
「うるせぇよ、純真無垢な女の子からしれっとお小遣い巻き上げようったって、そうはいかねぇぞ酔っ払い」
「普段はテメェが酔っ払ってんじゃねぇか!」
ヒートアップしていく口論を、ニラムとメリーおばさんの二人が冷めた目で見つめる。
少し様子を見つつ、これは止まらないなと感じたニラムはゆらりとハルバードを構えつつ低い声で告げた。
「……皆さん、喧嘩は――」
「「「してません! 俺たちこんなに仲良しです!」」」
冷たい空気を感じたのか、すぐさま肩を組む男たち。それを見上げつつ、ラフィが呆れたように溜息を吐いた。
「わふぅ……」
「はー、ダメ大人どもめ」
メリーもやれやれと首を緩く振る。
苦笑を浮かべつつ、ニラムは改めて周囲を見渡した。相変わらず酒の匂いが充満しているが、楽しい空気が帰って来てほっと胸をなでおろす。
夜鴎亭はみんなの憩いの場だ。だからこそ、この町のルールでは夜鴎亭での一切の私闘を禁じているのだ。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます