第一幕 ナナシの港

ニラムとラフィ

 午前五時を伝える鐘の音が町に響く。

 少し硬いベッドから身を起こし、目を擦ったニラムは足下から聞こえる寝息に眼を向けた。

 黒い毛玉が丸まっている。すやすやと眠っていたはニラムが起きたのを察知したのか、耳をぴくりと反応させて顔を上げた。


「わんっ!」


「えへへ、おはようラフィ」


 愛犬ラフィと朝の挨拶をし合って、ニラムはベッドから降りる。火を焚いていても尚、冬の始まりの空気を冷たく感じて、慌てて引っ掛けていた制服に着替える。


 白いシャツを着て、黒いスカートを履き、大きな赤いリボンを結んで。

 着替えが終わったら足元に擦り寄ってきた愛犬を撫でて、湯たんぽ代わりに抱きしめて扉を開けた。そのまま洗面所まで小走りで急いだ。

 朝の支度は手早く済ませるに限る。寒さ厳しいこの国における鉄則だ。


 自分と同じくらいに大きなラフィの身を抱えて、洗面所に辿り着いたニラムは水瓶から洗顔と歯磨き用の水を汲む。

 顔をすすげば冷えきった水が、直前まで付き纏っていた眠気を綺麗に拭い去っていった。

 そばに置いてある籠からタオルを取って、顔を拭えば次は歯磨きだ。

 ラフィが足下でぱたぱたと尻尾を振りつつ、その暖かな体を擦り付けてくる。


 足下が温まると全身も温まるようで、ニラムは「ふふ」と微笑みながら、口を濯いだ。

 洗顔等を終えたら、腰まで長い茶髪を手早く解かして右側で結んで、いつものサイドテール完成。


 次はラフィの番。

 もふもふの毛を愛用のブラシで梳けば、気持ちよさそうに目を瞑ってみせる。


「ラフィ、きもちいい?」


「わんっ!」


 全身を梳き終わったニラムはラフィを連れて扉を開けて、鼻腔を刺激する肉の焼ける匂いにきょとんと目を丸くした。

 この家には自分とラフィしかいないのに。

 首を傾げるが、すぐに匂いのもと――キッチンに立つ人影に声を上げる。


「あー! リオンさん!! また勝手に入ってきてる!!」


 キャップ帽を被った黒髪の青年がソーセージを咥えながらキッチンでフライパンを振るっている。

 リオンと呼ばれた青年はソーセージを咀嚼して飲み込むと、片手で卵を割りながらニヤリと笑った。


「よー、いい加減に鍵は変えた方がいいぜ? あんなチンケな鍵、こんな町じゃすぐ破られる。ただでさえ、女の子の一人暮らしは危険だってのに」


「リオンさんがピッキングしなければいい話です! それに一人じゃないです!」


「わんっ!」


 露骨に話題を逸らされたことや、しっかり施錠して防犯していたはずが、簡単に破って入ってきた目の前の男に対して頬を膨らませながら、ニラムは抗議する。ラフィも後押しするようにわんわんと吠えている。


「あー、そうだな。ラフィがいるな。うん、素敵な騎士ナイト様だ」


 ラフィはリオンの言葉に満足したように胸を張って、ふんすと鼻を鳴らした。

 一方、話を逸らされる形となったニラムは頬を膨らませた。


「話を逸らさないでください! 勝手に鍵開けて入ってくるのやめてください!」


「はいはい」


 全く反省した様子がない。ニラムは腰に手を当てて、ジトーッとした目を向ける。


「ていうか、リオンさん……そんなにしょっちゅう来るなら夜警団に入ればいいじゃないですか」


「夜警団って賭け事オーケー?」


「ダメです!」


 当たり前じゃないですかとプリプリ怒りながら、ニラムはさらに頬を膨らませる。

 それを聞いたリオンは「ふーん」と意地悪く笑って見せた。


「じゃあ嫌だなぁ」


「むむむ……!」


 ぷすっと膨らんだ頬を長い指が突いて萎ませる。虚を突かれたニラムの前にことりと、薄く斜め切りされたバケットに目玉焼きとソーセージが乗ったプレートが置かれた。


「悪かったって。ほら、朝ごはん」


 リオンはさほど悪いと思ってないような声音で謝りつつ、ニラムに座るように促した。

 半熟に焼けた両面焼きの目玉焼き。ニラムの数ある好物の一つである。


「おおー……!」


 目を輝かせた少女に、狙い通りと笑って見せたリオンはラフィ用の青い皿を手にした。


「ワンころにはこれな」


 ラフィの前には、輪切りになったソーセージが乗ったサラダが置かれる。

 それを見たラフィは尻尾がちぎれるのではというほどに振りながら、リオンの足にまとわりついた。


「わんっわんっ!!」


「ラフィ……」


「ははっ! 現金なやつだよな、本当に」


 リオンはラフィの頭を撫でながら手のひらを出して「待て」のポーズをする。お利口な愛犬は教えられた通りにおすわりをしつつも、尻尾をパタパタ振ってリオンからの許可を待った。

 数秒の後に、リオンから「よし」と許可が出され、ラフィは朝食にありつく。

 それを見つつ、ニラムは文句を言うことをやめておとなしく椅子に座った。せっかくの朝食なのだ。怒ったりせず、美味しく食べる方が得だろう。

 リオンも席に着いて、いただきますと手を合わせる。ニラムも習って「いただきます」と元気よく声を上げた。


 この仕草はリオンの故郷で、食事の際に行う儀式のようなものだと聞いたことがある。

 食材そのものの命をいただくことに、作ってくれたすべての人たちに感謝するらしい。この儀式の意味を聞いてから、いただきますはニラムにとって、食事をする際の習慣になった。


「リオンさん、しれっと一緒に食べているけど、この卵もソーセージも私の家のものなんですよね」


「料理代ってことで許してくれよ、夜警さん」


 勝手に入って来て作ってるのは彼自身だというのに、図々しいにもほどがあると考えつつ、しかし口にすることはしない。

 他の人ならば容赦なく叩き出すだろうが、時折、忍び込んでは朝食を作るというリオンの行動をニラムは不快に思ってはいなかった。むしろ好ましいとすら感じる。彼の作る料理――特にダシとやらを使ったスープ――は美味しいし。


 それはそれとして、勝手に食材を使われることへの不満はあるのだが。


 ニラムは複雑な思いを抱えつつも、ハーブの練り込まれたソーセージにかぶりつく。

 同じように自分の分のソーセージにありついていたリオンが、ふと思いついたかのように問いかけた。


「そういえば、今日はどこからパトロールするんだ?」


「え? んーと、メリーおばさんが最近、お店に困ったお客さんが来るって言ってたから、大通りを重点的に回ろうかなって」


 少女の言葉に、リオンは「ほー」と気の抜けた相槌を打つ。


「メリーおばさんの店って、荒くれ者が集まる酒場じゃねぇか。お子様が行っていいのかよ」


「みんな優しいよ? たまに残ったソーセージとかくれるし、おじさんたちはポーカー教えてくれるし」


「はー……相変わらず人気者だな」


 冗談めかして笑うリオンに、ニラムはすかさず返した。それに対して呆れ半分、感心半分を口にしつつリオンは目玉焼きにフォークを突き刺す。溢れだした半熟の黄身をソース代わりに白身を頬張る。


「俺もついていこうか」


 目玉焼きを平らげつつ、リオンが問いかけた。それに対して、幼い少女は目をぱちくりと瞬かせる。

 思ってもみなかった、それほどに唐突な申し出だったのだ。

 たしか、リオンは以前、とあるグループの用心棒的なことをしていたとニラムは知っている。そちらは今日は良いのだろうか?


「良いんですか? 用心棒のお仕事とか――」

「暇なの」


 間髪入れずに言葉を遮る大人に対し、聡い少女はこれはなにかあったなと察しつつ、少し考えた。

 小さな子どもの身で町を一日パトロールというのは結構、難しい面があるのは理解している。毎度、勝手に家に侵入しては食料を消費している分も兼ねて手伝ってもらうのは大いにありだ。


 結論は早々に出て、じゃあ、よろしくお願いしますとニラムは小さな頭を下げる。それから再び、もぐもぐと朝食を平らげにかかった。

 リオンはそれを横目にどこか満足そうに微笑むと、同じように目の前の朝食を平らげていく。

 二人が食べ終わるのはほぼ同じタイミングで、手を合わせての「ごちそうさま」が部屋に響く。

 ラフィは待っていたかのように「わんっ!」と一鳴き。


 朝食が終わったらお皿を片付けて出かける準備だ。ニラムはラフィに首輪代わりの青色のリボンを結んでやると、しっかり靴紐を結び直し、愛用のハルバードと小さな『』が収められたカンテラを手にする。

 そうだ、これも忘れてはならないと、お財布と甘い匂いのする袋を手にしてしっかり懐へ。

 リオンも椅子の背もたれにかけていた黒と白の羽織を緩く纏うと、壁に立てかけていた異国の刀を腰に差した。

 これで準備は万端だ。


「さーて、それじゃあ行くとしますかね」


「はい! 最初はこの通りからぐるっと回っていく感じでいきます!」


「わんっ!」


 意気揚々と扉を開けると、冷たい空気が肌を刺す。

 ラフィが待ち侘びたとばかりに走りだし、ニラムもその後を追って、月の輝く夜へと飛び出した。

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