Rush Life

雨上がりのよく晴れた朝。


春の嵐は過ぎ去って遠くの山々に白い雲が冠のようにかかっている。

再生ボタンを押す。

チック・コリアのアルバムの一曲目「Lush Life」が流れ出す。

どこかこことは違う別の場所へと連れ出してくれるような小さな高揚感。

昨日買ったドーナツを齧りながら、淹れたてのカフェインレスコーヒーのマグを持ってベランダで光を浴びる。

鉢植えの雫に陽光が反射してキラキラと輝いている。


手にしてるドーナツは残り半分のハニーチュロ。

ハニーチュロは1990年に発売されてからレギュラー商品となっている定番のドーナツ。

チューブから捻り出されたであろう生地のひだの部分と独特のもっちりと食感がクセになる。

ドーナツ型はトーラスという円環状の立体構造であり、おそらくこの宇宙の属性を示す重要な形状。


ありふれた日常に真理の断片を見つけ出すことは、きっと誰もが胸の内に隠し持っている密やかな喜び。

決して綺麗な円環ではなくて、楕円状で繋ぎ目がはっきりしている。表面はざらざらとしている。


人の一生を時間の流れだとすると、滝や川の流れや数直線のように一直線で不可逆なものとして考えてしまう。

そこに救いを見出すことができない。


ひとの一生はドーナツだと思いたい。一人ひとり形が異なっていて、その環の大きさも違う。

部屋に戻って読みかけの文庫を開いて目を落とす。


月に何度か図書館に足を運び、何冊か本を借りて、読み終わった分を返却する。

そこそこ話題になった映画とアニメをサブスクで視聴する。

それだけのことでささやかな人生の喜びのほとんどは満たされる。


文字にするとくだらない退屈な繰り返し。与えられた語群から、日常の空欄を埋めなさい。

その綻び、ドーナツの繋ぎ目のようなところで息継ぎをしてみる。

自分だけの言葉、自分だけの音律がどこかにあって、見つけられるのを待っているのではないか。

そういった錯覚にとらわれて動かずにはいられなくなる。


だからこうして勝手に言葉が走り出す。


チック・コリアのピアノの旋律に耳を傾ける。

その音律をうまく言い表す言葉を持ち合わせていないのが口惜しいけれど、そこに何かしらの意図や文脈を読み取ろうとする。


空白を埋める日常。

飢えや渇きはなくなって、穏やかな好奇心と背骨に走る電流が次のページへと身体を運ぶ。



ある年の春の嵐が過ぎ去った日。お昼すぎ夕方前の中途半端な時間。


俺は歯医者に通って、信じられないくらいの短期間で増えてしまった虫歯の治療を受けていた。

それが終わったあと電車で横浜駅西口へと向かった。


JRの改札から徒歩10分圏内にあるにも関わらず喫煙が可能な数少ない店舗。

コンセプトはサーファーっぽいイメージだろうか。南国風のインテリアでまとめられていた。

夜は照明が落とされてバーになる。デイタイムはランチやカフェの営業をしている。

近くのオフィスのOLやサラリーマンの作業用として利用されているようだ。


「2名でひとりは後から来ます」


店員さんに伝えると奥のこぢまりとしたボックス席に通された。

俺はよれたバンドTシャツとダメージ・ジーンズにVANSの赤いスニーカーという格好。

インディーズバンドの演奏を見た帰りなら悪くない出立ちだ。

店内はスノッブな雰囲気を持つ気鋭のビジネスパーソンのような男女が多く、少し居心地が悪かった。

煙っぽい店内とOLの噂話とウクレレミュージックが不協和に混じり合う。

水だけもらって、適当な文庫を開いてSを待つことにする。


「よぉ」5分と待たずにSが颯爽と現れた。


裏にバイクを停めてきたらしい。ライダースとデニムと伸びた髭が絶妙にマッチしていた。

それはあくまで本人に似合っているという意味で、ここの空間からは俺と同様パーフェクトに浮いている。


「アイスコーヒーふたつお願いします」と先ほどのウェイターに伝える。


「それ何?」


「何回目になるかわからないジュール・ヴェルヌの冒険小説を読んでいた」

手元にあったヨレヨレの文庫を掲げて見せる。小学生くらいの頃から手元になるからかれこれ15年ほどになるだろうか。


「たしか小六のとき夏休みに読書感想文の課題図書に選んだな」


「それは覚えている。偶然にも俺も選んでいたから驚いたよ。Sはスポーツ選手の伝記とかもっとアクティブな本を選ぶのかと思った」


「まぁな。適当にでっちあげた感想文だからろくに内容は覚えていない」


「当時から変わらない要領の良さには敬服するよ」


アイスコーヒーが運ばれてきたので本をバッグに戻す。礼を言って伝票を受け取る。

相変わらず店内は適度に騒がしい。俺とSの周りだけがエアポケットのように空洞になっている錯覚に陥る。


「トールキンの小説はちゃんと最後まで読んだよ」


「映画化したことで全世界がまた注目したからな。

 高校の英語のクラスで”一番好きな映画”についてスピーチする機会があった。

 当時のマドンナがそれについて話すのを見て、俺も同じ三部作を推す予定をとりやめてスピルバーグ監督/トム・ハンクス主演のマイナーな映画について話した。

 クラスのシラけた目を今でもよく覚えている」


「よく覚えてるな。そういえばホビットよろしくまだパイプは吸っているのか」


「最近は離れていたな。Sは電子タバコに切り替えたのか」


「全く逆。今は手巻きにハマってるんだよ。ちょうど持ってきたから一緒にどうだ」


慣れた手つきで道具を並べる。

左手の指に巻紙を置いてシャグを適当な量を乗せる。

均等になるように広げたあと指の間の窪みにシャグを落とし込むようにくるくると巻いていく。

アイスコーヒーのグラスの水滴を右手の人差し指ですくって糊づけする。

フィルタを差し込んでさらにきつく巻き込んでいく。

歪な形のシガレットの出来上がり。


その一本を俺に渡し、手早くもう一本作る。

年季の入ったクロームのZippoで火をつける。旨そうに煙を呑んでゆっくりとくゆらせる。


「どうよ手巻きは」


「悪くないね。こうして二人で煙で遊んでいると、さっさとホビット庄から旅立って裂け谷まで冒険に出かけたくなるね」


店内では相変わらずウクレレの無害なバックグラウンドミュージックが流れている。

黒いウェリントンのグラスをかけてMac Book Airを持ち寄っている意識の高そうな連中が談笑している。

奥のボックス席で手巻きタバコの煙を吐き出している破れたジーンズとライダースの二人組はどう贔屓目に見ても異質だった。


「ケムリの匂いで思い出した。金持ちの家には匂いがあって、一つひとつ異なっている。引っ越しのバイトを俺はやっていたから間違いない」


「気がつかなかったな。香水の匂いとか?」


「具体的にはわからない。オーデコロン、ルームフレグランスの匂いももちろんあるだろう。

 食料品、衣類や書籍や調度品、壁や床、天井の材質の違いにもよるかもしれない」


「色々な要素が絡み合って総体としての”金持ちの匂い”を紡ぎ出している」


「そう思ってもらって間違いがないと思う」


「じゃあ逆に貧乏人の匂いっていうのもあるのか」


「あるね。でもそれは金持ちのようになんというか複層的で多義的な匂いではないんだ。

 単純にスーパーマーケットとドラッグストア、ディスカウントショップから引っ張ってきた単調な匂いだよ。どれも同じだ。アパートの外からでもすぐにわかる」


「気がつかなかったな」と俺は繰り返すしかない。


ケバケバしい洗剤や芳香剤のラベルが、均一で無機質な匿名性に回収され平凡さに変換される様子を想像する。


「普段の生活では、自分の家の匂いも他人の家の匂いも意識することなんてないからな。

 俺はだいぶ長いこと実家に帰ってないけれど、どんな匂いだったかなんて思い出せないよ」


「なあこのあとついでに実家に立ち寄ったらどうなんだ。俺も一緒についていくよ」


Sはその部分は聞き流して、新しい手巻きタバコをもう一本拵えて、Zippoで火をつけた。



深夜の高速サービスエリア。


家に帰る途中で立ち寄って、自販機の適当なボタンを小突いて缶コーヒーを買った。

タバコの煙を夜空に向かって吐き出してぼんやりとする。

都市明かりの紛れてうっすらと星が煌めいている。


深夜のSAは異世界のようで昔から好きだ。

ハニーチュロと同じように、物心ついた時から。物心っていつその萌芽を自覚するのだろう。


物心ついた後の比較的遠い日のことは美しく鮮明に、昨日のことのように覚えているのに、昨日のことは曖昧で思い出せない。

いなくなってしまった人は、今の現実を生きる人間からは過去に見える。

今の現実を生きる人間は、これから死を迎える人と言い換えることができる。

生き続けることで遅かれ早かれ死という特異点に合流する。

その地点が未来だとすると、いなくなってしまった人はあるいは未来に属しているともいえるのかもしれない。


それは明日と同じくらい近くて遠い。今日を生き続ける人には手が届かない場所。

この夜空に浮かんでいる星の光みたいに。


せめて今をもっと好きでいられるように、ドーナツの環の側面を這うように、何かに追われるように、息継ぎをするように。

その繋ぎ目を見逃さないように。

今はもういなくなってしまった数々を後生大事に抱えて生きていきたい。



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