第3話 異端審問官となる理由

 木々に隠れて教会の前まで帰る事が出来たボロンは、夕の礼拝が終わった後の、陽が沈み始める時間を待っていた。


 鉄の正門を開けて入るとなると、まず間違いなく音が出てしまうので、裏の石塀を超えて勝手口から中に入ろうと言う魂胆だった。


 自分の姿を人に見られたくなかった。


 問題なく出来るとボロンは確信していたが、それとは別に気になる事があった。


「お父様は、私の正体に気づいて下さるでしょうか……」


 今のボロンの姿では、司教がボロンと気づけないのではないだろうか、という心配だった。


 ボロンは目を瞑って、服の袖でオーブを優しく磨き始めた。


(どのような事になろうと、それはオーブの意思に他ならないはずです……ですから、私はそれを受け入れなくてはなりません)


 オーブを信じる者同士の間で起きる事であれば、それは全てオーブの意思だとボロンは信じていた。


 やがて聖堂の明かりが消えた。


(兄上が明かりを消して回っているはず……しばらく待ってから向かいましょう)


 ボロンが教会の裏手に回ってしばらく観察していると、塔の階段を昇って行く蝋燭の光が、窓から漏れているのを見つけられた。


(二階……寝所に帰っているはず。行くなら今ですね)


 ボロンは木から飛んで石塀の上に乗ると、爪を立てないように気を付けながら、音を立てずに地に降りた。


 この教会にたどり着くまでに、身体の動かし方には慣れていた。


 持っていた鍵で勝手口を開いたボロンは、なるべく音を立てないように中へ侵入したが、いざという時のために扉は閉めず、開いたままにしておいた。


(なんだか、お父様に拒絶されることを前提としているみたいで、嫌になりますが……)


 吹き抜ける夜風に乗った香の香りが、いつもより強く感じられた。


 ボロンが寝所へとつながる階段を昇っていると、上から司教の声が響いてきた。


「アントニオ、今日はやけに冷えるな。こっちへ来なさい。はやく」


 何か重い物を置く音が響いてから、アントニオ司祭の声も響いてきた。


「はい、ドロリッチ様。すぐに──」


 その声を遮るように、大きな声が聞こえた。


「お父様と呼びなさい!」


「はい、お父様。アントニオがお傍に参りましたよ」


 ボロンは困惑した。


(お父様と呼んで良いのは私だけのはず……それに、どうして兄上がお父様と一緒に?)


 ボロンは手足の肉球を活かして素早く静かに駆け上がると、寝所の扉の前で聞き耳を立てる事にした。


 衣の擦れる音が聞こえてから、ドロリッチ司教がアントニオに愛を囁いた。


「アントニオ……おお、お前の身体は美しいな」


 ボロンは頭がカッと熱くなったが、すんでの所で理性を保つことが出来た。


 妻帯を禁じられた聖職者にとって、男同士の交わりは嗜みのようなものであるが、ドロリッチと同衾するのはボロンだけのはずだった。


(お父様は私が一番美しいと仰られたのに、どうして兄上にもあのような言葉を?)


 怒りと悲しみの混ざった、複雑な感情がボロンを襲った。


 きっと何かの間違いだと考えたボロンは、どうしてこのような事になっているか探るためにも、我慢して聞き続ける事にしたのだった。


 アントニオの嬉しそうな声が聞こえてきた。


「フフッ、そんな事……ボロンにも仰っていたではありませんか」


 ボロンは自分の名が挙がって浮足立った。


 ドロリッチはしわがれた笑い声を上げると、侮蔑の混ざった言葉を放った。


「花にも旬がある……時の流れとともに、季節は移ろうものじゃよ。儂の言っている事は間違いではないはずじゃ。そうじゃろう?」


「仰る通りです」


 ボロンは深い悲しみに包まれた。


 それと同時に、牙を剥いて怒りに震えていた。


 ドロリッチが話を続けた。


「はあ……今頃あ奴は、グアンナームに説教でもしている頃じゃろうか。上手い事失敗してくれれば、王子殿下の兵を動かせるはずじゃな」


「そうなれば、国内の異端者をまた減らせますね」


 アントニオの返事を聞いたドロリッチは、笑いながら言葉を続けた。


「そうじゃな。いや、それよりもじゃ。第三王子派からの寄付があるし、使える司教区も広がる……いっそう、儂らが潤うということじゃ。グフフ……」


 ボロンが教団のためにやろうとしていた事は、実際はドロリッチの謀のための仕掛けだった。


 あれほど敬愛していたのに、ボロンはドロリッチに裏切られたと感じた。


 しかし、これも全てはオーブの意思だと思うしか無かった。


 寝具の軋む音が耳に障って、いてもたってもいられなくなったボロンは、扉を乱暴に開いて部屋に飛び入った。


「お父様! なぜ!」


 突然の闖入者に驚いたアントニオが飛び起きる揺れで、脇机の上に置いてあった水差しが倒れた。


 こぼれた葡萄酒で赤く染まった布の中から、ドロリッチが半身を起こしてボロンの方を見た。


 アントニオがボロンの姿を見て、心底嫌悪するかのような声を上げた。


「貴様、魔族ではないか! 汚らわしい分際で良くも──」


 ドロリッチはボロンの放った言葉を聞いて、もしやと思った。


 ボロンが着ている服と、持っているオーブは、ドロリッチには見間違えようがなかった。


「お前は……まさか……」


 ドロリッチが何かを言いかけたのに気づいたアントニオは、罵倒を止めてドロリッチの言葉を待った。


 ドロリッチの疑念の眼差しを受けながら、ボロンは二人に向けて名乗った。


「ボロンです。まさか、お忘れになられましたか?」


 それを聞いたドロリッチは息を呑んで、目を見開いてボロンの姿を確認すると、顔を青ざめさせて驚いた。


 アントニオは顔をしかめて寝具から降りると、ボロンに向かって近づいた。


「貴様がボロンだとして、なんだその醜い身体は!」


 面と向かって容姿について罵倒されたので、それを気にしていたボロンは傷ついて怯んだ。


 アントニオはそのままボロンの目の前までやってくると、右手で胸を強く掴んで言葉を続けた。


「おぞましい脂肪の塊ではないか。お父様にそのような物を見せるな!」


 言い終えるやいなや、アントニオはボロンの胸を強く叩いた。


 その衝撃で揺れる胸を見て、アントニオは更に顔を険しくした。


 自分でも少なからず同じことを考えていたボロンは、アントニオに上手く言い返すことができず、耳を伏せて自分の心を守るための言葉をつぶやくしかできなかった。


「これも……オーブの意思……」


 それを聞いたアントニオが、ボロンを嘲笑した。


「フフッ、それがオーブの意思なものか! 単に貴様が──」


「よせっ!」


 アントニオがボロンを否定した時、ドロリッチがそれを制止しようとしたが、しかし、時すでに遅く、ボロンは怒りに任せて鎚矛を振るっていた。


「──醜いだぐああっ!」


 ボロンの信じるオーブの意思を否定することは、ボロンの信仰を否定する事にほかならなかった。


 アントニオが痛みでしゃがみこむと、その右腕はだらりと垂れ下がって動かせなくなっていた。


 ドロリッチがよたよたと立ち上がりながら、ボロンに向けて慰めの言葉を投げかけた。


「もうよせ! 言葉の綾じゃ! お前の信じるものは正しい!」


 ドロリッチの言葉はボロンに届き、ボロンは振り上げた鎚矛を収めた。


 アントニオは死なずに済んだが、やられっぱなしなのが気に食わず、無謀にもボロンを馬鹿にし始めた。


「何も言い返せないからといって、暴力に訴えるとは──」


「やめろと言っとるだろうがッ!」


 アントニオに対してボロンが何かをする前に、ドロリッチが大声で𠮟りつけた。


 ドロリッチはボロンがオーブを狂信している事を良く知っていて、他の何をされても怒らない代わりに、オーブや信仰を傷つけられると激怒する事を知っていたのだった。


 まさかドロリッチに叱られるとは思っていなかったアントニオは、驚きの表情をしてから、すぐに痛みで顔をしかめた。


 しばらく沈黙があってから、ボロンがドロリッチに問いかけた。


「全て……聞こえてしまいました。グアンナームの事も。なぜ……そのような事を、私にさせたのですか?」


「真面目で優秀なお前の事じゃ、例えグアンナームがオーブを信じようとせずとも、腐らずに布教してくれると信じていたのじゃよ」


 よどみないドロリッチの答えに、ボロンは少し安堵すると、今度は先ほどの言葉について確かめようとした。


「私が……、とはどういう事なのですか?」


「言葉通り、という事じゃ。この地の司祭の中で最も信心深いお前が失敗し続けるという事は、グアンナームが異端だと認めるにふさわしい」


 ボロンはほっと溜息をついて、かすかに尻尾を振り始めた。


 その姿をドロリッチは見逃さなかった。


 ボロンが何か喋り出す前に、ドロリッチが続けて口を開いた。


「信じてくれ。ボロンや。儂は……オーブ教のためになる事をしていたんじゃ。儂や、この司教区が得することは、オーブ教の得なんじゃよ」


 ドロリッチの言葉を聞いて、ボロンが首を縦に振ろうとした時、アントニオが小さく鼻を鳴らした。


 それが聞こえたボロンは、尻尾を振るのを止めて、アントニオに冷たい視線を投げかけた。


 ドロリッチは内心しまったと思いつつ、アントニオを鋭く睨みつけた。


 その視線に貫かれたアントニオが、ドロリッチに申し訳なさそうな顔をしているのを見て、ボロンは再び怒りと悲しみが湧いてくるのを感じた。


「お父様は……私が一番美しいと仰って下さいましたね。それがどうして、兄上と枕を共にしながら、愛の言葉を囁いていたのでしょうか?」


 ドロリッチの額から一筋の汗が垂れた。


 しばらくの沈黙があった。


 その間アントニオは、ボロンを睨みつける事と、すがるような目でドロリッチのほうを見る事を繰り返していた。


 咳ばらいをしてから、ドロリッチは弁解した。


「すまんかった……お前がいなくなってから、寂しかったんじゃ……ボロン、お前が一番なんじゃよ。許しておくれ」


 アントニオは呆然となって床に頭を投げ出すと、腕の痛みにうめき声を上げながらすすり泣きし始めた。


 ボロンはようやくスッとして、怒りと悲しみを忘れる事ができたので、両手を広げてドロリッチに近づこうとした。


「ああ、お父様……」


 ドロリッチは手のひらを前に出して、ボロンを拒絶した。


「だめじゃ」


「どうしてなのですか!?」


 ボロンは再び、深い悲しみに包まれた。


 ドロリッチはボロンの両目を覗き込みながら、ゆっくりと優しく言い聞かせた。


「いまや、お前は人ではなくなってしまった……そのような姿では、教会に立ち入る事もままならん」


「ですが、これは──」


 ボロンが言い訳をしようとしたが、すぐにドロリッチが制した。


「司教である儂にとって、お前が悪魔と契約したことなぞお見通しじゃ。いかなる理由があろうと、そのような者を近くには置いておけん」


 ボロンは何も言い返せなかった。


 その通りだと思った。


 話を聞いていたアントニオが顔を上げて、一言つぶやいた。


「悪魔……なんと恐ろしい……」


 部屋には重く冷たい空気が充満した。


 ドロリッチが黙ってアントニオに近寄ると、そっとその身体を起こした。


「儂はアントニオの治療をする。しばらく待っておれ」


 ボロンは黙って頷いた。


 ボロンは絶望の淵にいて、生まれ変わってから今日までの間に起こった出来事の全てを後悔していた。


 教会にいられない聖職者など存在して良いわけがないので、つまり、ボロンは最早司祭ではなくなったのだと言われたのだった。


 それもこれも、全てはオーブの意思によるものだと、そう信じるしかなかった。


■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■


 横になったアントニオが熱に浮かされて呻いていた。


 アントニオの顔色を伺いながら、その頬を撫でるドロリッチが、視線を向けずにボロンに声をかけた。


「お前がオーブを信じている事は、よくわかっておるよ……今だってそうじゃろう」


 部屋の中央で立ち尽くしていたボロンだったが、ドロリッチの優しい声を聞いて、終わりのない後悔だけの振り返りをやめた。


「例え教団の中にお前の居場所がなくなったとしても、お前がオーブを信じる限りは、それがお前の信仰じゃよ」


 ドロリッチはゆっくりとボロンに向き直って、ボロンの両目を見た。


 失意のどん底から引っ張り上げられたボロンは、喜びに身を震わせて目に光を宿したが、その事に興奮して肉の棒をせり出させた。


 ボロンの精神を支配したマロビデルが、ドロリッチに舌を出して挑発した。


「よぼよぼのおじーさん、ちょろそ~♥ やめないか!」


「お前がボロンに憑いた悪魔か。なるほどのう」


 ドロリッチは全く動じる事もなく、マロビデルと相対した。


 ドロリッチが息をするかのように簡単に呪文を唱えると、その光の瞬きに手をかざしてマロビデルが怯んだ。


 おぼろげなボロンの精神に直接、ドロリッチの声が届いた。


「ボロン、ボロンよ。悪魔がお前の精神に干渉するように、お前も悪魔の精神に干渉できるはずなんじゃ──」


 ボロンが自分に対抗する術を得かねない事に焦り出したマロビデルは、牙を剥いて身を屈ませると、ドロリッチを爪で切り裂くために脚に力を込めた。


「ちょっと、余計な事を教えないでよね~! さすがはお父様!」


 すさまじい勢いでドロリッチに飛び掛かったマロビデルであったが、神聖な壁のようなものに阻まれて跳ね除けられた。


 ドロリッチはマロビデルの事など意にも介さず、そのままボロンへの語り掛けを続けた。


「──常日頃から悪魔への語り掛けをするようにするんじゃ。そうすれば、その内悪魔の力の一端を使えるようになるじゃろう。それは使いようによっては奇跡となる」


 ドロリッチは両手を大きく開いて、目の前で力強く合わせた。


「悪魔の力を御しやすいように、すこしだけ力を分けてやろう」


 ドロリッチがそう言ってしばらくすると、ボロンは意識がはっきりとしてきた。


 身体は未だに操られてしまっているが、マロビデルの意識に同調するような事がなくなった。


「その内、よほど我を忘れなければ、悪魔の支配を受ける事もなくなるじゃろう」


「お父様、ありがとうございます。おじーさん、つよすぎ~……」


 すでにボロンが優先して口を動かす事が出来るようになっていた。


 ドロリッチはボロンの様子を確認しながら、とある提案をすることにした。


「お前はその姿だし、魔族領に行くとよいじゃろうな。そこで今回グアンナームにしたような事をするんじゃ」


 ボロンはまだグアンナーム領での一件を報告していなかったので、ドロリッチは自らが想定していた事を挙げたつもりで提案していた。


 そんな事はボロンにわかるわけもなく、報告する事も忘れてしまっていたので、ボロンはドロリッチの提案を鵜呑みにしてしまった。


「グアンナームにしたような事ですか……わかりました。オーブを愚弄するような輩がいれば、懲らしめて参ります。ぶちこんじゃる~♥」


「うむ、お前には魔族領での異端審問の命をやろう。表には出来ぬ仕事じゃが、お前の働き次第では、種族間条約に違反せずに済むじゃろうな」


 ドロリッチは国教を利用して、魔族の収める領地への合法的な侵略を想定していたが、ボロンはそんな複雑には考えておらず、異端者を全て叩き潰してしまえば良いと思っていた。


 グアンナーム子爵領で起きた大事件を知っているかどうかで、求められる仕事の内容の認識は大きく違っていたのだった。


 すれ違いに気づかぬまま、ドロリッチは最初に向かうべき場所を、ボロンに伝える事にした。


「最初は蛇の国に向かうといい。そこの女王がどうも魔神や魔王の類を信奉しているという話があったんじゃ」


 ドロリッチは寝具の下に置かれた木箱を開いて、中を漁り始めた。


 ドロリッチの指示を聞いて、ボロンは手筈を確認する事にした。


「でしたらサムニ辺境伯領に向かってから、魔族領のワリスステップを超える必要がありますか。遠すぎ~♥」


 ボロンは長い旅になるなと思ったので、食料や旅の道具をどこで揃えるかも考え始めていた。


 ドロリッチは箱の中から板のようなものを取り出すと、ボロンに返事をした。


「うむ、辺境伯に会ってケンタウロス族に話をつけてもらうと良いじゃろう。これを渡しておくから、有効に使いなさい」


 ボロンは通行手形を受け取った。


 司教の発行するものであればかなりの効力があり、偽造もまず疑われなかった。


「これなら魔族に見間違えられたとしても、不自由なく国内を渡り歩けますね。この手形が目に入らぬか~♥」


 すっかり身体の自由を取り戻していたボロンは、受け取った手形に革ひもを通すと、首から下げてよく見えるように身に付けた。


 ボロンの様子を眺めていたドロリッチは、深く頷くと一言だけ念を押した。


「絶対に無くすでないぞ」


 ボロンはドロリッチに頷くと、マロビデルに語り掛けた。


「悪魔よ、この手形をどうこうする事は、絶対に認めませんよ」


「キャハッ! だめって言われるとやりたくなっちゃうよね~♥ おじさんってば、ひょっとしてあたしを喜ばせようとしてるの~?」


 ボロンの予想通り、マロビデルが手形を失くしそうだったので、強硬手段を取る事にした。


「悪魔マロビデルへ、ボロンの名において命ずる、通行手形を失くしてはならない!」


 マロビデルと一心同体のボロンも、通行手形を自ら失くすような事は出来なくなった。


「あ~あ、つまんないの~」


 マロビデルは心底つまらなそうにして、それっきり沈黙した。


 ボロンは身体全体を動かして調子を確認してから、未だに収まらない勃起に少し恥ずかしそうにしつつも、ドロリッチに向き直って別れの挨拶をした。


「それでは出発致します。必ずや異端者どもを駆逐して参ります」


 ドロリッチは片手を上げてそれに応えた。


「うむ、気を付けて行くんじゃ」


 ボロンは寝所を後にすると、階段を下った先の開けっ放しの勝手口から外に出て、扉に鍵を閉めた。


 冷たい夜風に当たりながら、ボロンはマロビデルに語り掛けた。


「この熱を冷ますにはどうしたらいいのですか?」


「すっきりしちゃいなよ♥」


 ボロンは悪魔の言葉に迷ったが、このまま興奮状態でいる事が一番危険だと分かっていたし、放っておくことでどうにかなってくれるとは思えなかった。


(それしかないのなら仕方のないことです……我を忘れて人を襲う事だけは避けなくてはなりません)


 教会の敷地を出たボロンは、手頃な穴の開いた木を静かに揺らした。


 落ち着きを取り戻したボロンは、早速手形を使って町の宿を取ると、朝の乗り合い馬車が集まる時間までゆっくりと休息を取ったのだった。


■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■


 ボロンが魔族領へと出発してから数週間、ドロリッチの元にグアンナーム子爵が殺された事を知らせる手紙が届いた。


「ど、どういうことじゃ……」


 ドロリッチには何が起こったのか理解できず、息を荒げてその場に座り込んだ。


 ボロンの代わりに宣教師として向かわせた、アントニオからの手紙であったが、ドロリッチの計画が破綻する知らせであったため、相当な殴り書きであった。


 ドロリッチは、グアンナーム子爵家ではなく、領主個人に異端の責任が問われるよう仕掛けていたため、死なれては困るのだった。


(表面上ではオーブ教に恭順している以上、あの家そのものに言いがかりをつけるのは不可能じゃった……)


「う……うう……こうなっては、あの家にはアルマとかいう小娘しか残っていなかったはず……入り婿が来るまでは計画がとん挫してしまう」


 王子にどう説明したものか、ドロリッチは頭を抱えたが、答えを出せないまま、新たな問題を見つけてしまった。


「ボロン……あ奴、もしや!」


 ドロリッチはボロンに命じた事と、ボロンの言った事を思い出して、がくりと両手を床についた。


「わ、儂らが魔族との再戦争の口火を切ってしまうのか……王子の兵たちならまだしも、教団が直接……?」


 ドロリッチは視界が暗くなり、息が上がって来たが、それでも何とかしようと考えた結果、一つの方法を思いついた。


(あの悪魔、確か真名をマロビデルと呼ばれていたな……あれに自害を命じれば、あるいはボロンもろとも葬れるかも知れん)


 ドロリッチの司教という立場は重く、自分で動く事は出来そうになかった。


 ドロリッチはすぐに戻ってくるよう、アントニオに手紙を出したが、返事の手紙は届かなかったし、アントニオが教会に戻る事もなかった。


 アントニオは綺麗さっぱりいなくなってしまい、その足跡を辿る事はできなかった。


 どうしてあんなにも早くボロンは帰って来たのか、どうしてあの信心深いボロンが悪魔に取りつかれたのか、ドロリッチは大切なものを失った今になって、ようやく気付いたのだった。


「く、ウウ……ギギッ! おのれボロンめ……優秀だったから目をかけてやっていたというのに、まさかここに来て足を引っ張り出すとはな。狂信者を信じ込ませるのは容易い事だが、手綱を締める事はできなんだ……」


 ドロリッチはどうにかして協力者が欲しかったが、魔族領に行く危険な仕事なぞ、誰もやりたがりはしなかったのだった。

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