第1話 傘①

 鮎川雄介あゆかわゆうすけが彼女――桜川湊音さくらがわかのん――を初めて見たのは、高校生活にも慣れ始めた四月の半ばのとある日のことだった。



 その日は明け方から雨が降り始め、通学する頃には傘を差さなければすぐにずぶ濡れになりそうな天候の一日だった。次第に暖かくなって来ていたはずの気温も冷え込み、雄介はその日学校指定のコートにサイズの確認を除けばはじめて袖を通した。


「学校まで車出すわよ?」

 リビングで食後のコーヒーを飲む母親のそんな提案を「昨日も遅かったんだし、ゆっくりしてなよ」と断る。

 雄介は母親と二人暮らしで、彼女は昨日も帰宅したのは二十一時過ぎであった。休息は取れているとはいえ、やはりもっと体を休めて欲しいと雄介は常々思っていた。

 送ってもらうとなると、母はいつもの出勤時間より三十分以上も早くに家を出ることになる。それは申し訳ないなとの想いで徒歩で駅を目指すと、横殴りの雨に曝され直ぐに赤いチェックのスラックスがしっとりと濡れる。

 やっぱり送ってもらった方が良かったな、雄介はそんな風にさっそくと後悔し始めていた。


 十分ほど歩くと、雄介はちらほらと咲く色とりどりの——というには黒や紺が目立つ——傘に囲まれていた。

 主要駅ではないとはいえ、朝のこの時間、多くの乗客が駅を目指して歩いている。その中の一人である雄介は、己の頭上に開くそれをちらりと見る。何の面白みのない紺色の傘は、男子高校生が持つにはごくごく一般的なものだった。仮に雄介が女子生徒ならばもっと華やかなものを所持していたのであろうが、あいにくと雄介は男子だった。

 代わりに、と言ってはおかしいのかもしれないが、雄介のどちらかというと女性寄りの部分は食の好みに現れている。

 自炊しているのにも関わらず、基本的に毎朝コンビニで昼食用のスイーツを買うのが雄介の日課であった。中学生時代は給食が出ていたために毎日は楽しめなかったが、高校生では毎食必ずスイーツを用意できるということが、彼の高校生活における喜びの一つになっていた。


 傘から視線を外して、駅前に並ぶコンビニに目を向ける。さて今日は何を買うか、そんなことを思いながら自動ドアに近寄ると、入り口に傘立てが設置されているのが目についた。

「うわぁ」思わずそんな声が漏れる、どうしようか。


 雄介はかつて傘を盗まれ、仕方なく買ったビニール傘も当日中に持っていかれるという苦い経験をしている。正直に言ってここに傘を置きたくはない。

 店内の様子をうかがうと、駅前の店舗故なのかやけに狭く感じる通路を利用客が行き来している様が見て取れた。

 ここに傘を持って入店するか、諦めるか。そこでふと、購買の存在を思い出す。

「利用したことはないが、購買にもなにか甘いものくらいはあるだろう」

 そんな思いから、今日は寄らなくても良いかと、いつも利用するコンビニの前を素通りする。



 改札を抜けて階段を慎重に下ると、ちょうど数人の男女とすれ違った。

 真新しい腕時計に視線をやると、どうやらこれはいつも乗る電車より一本早いものらしい。一拍遅れて発車メロディが雄介の耳に届く。次発はおよそ十分後。

 正直待つのはどうってことはないのだが、乗れるならそれに越したことは無いとの思いで駆け足で車両に滑り込む。


 そこに彼女は居た。


 最初に思ったのは、珍しいな、と言う感想だった。

 彼女は、ロングシートの一番端に座って静かに本を読んでいた。

 参考書ならまだしも、この時代にわざわざ紙の本を電車内で、それもご丁寧に茶色いブックカバーを掛けて読んでいることから読書がよほど好きなのだろう。

 彼女の身に纏う紺色のセーラー服やセミロングのつややかな黒の髪の毛と合わさって、いかにも文学少女です、と言った雰囲気だった。

 女の子が持つには少々武骨な感じのする黒い傘を手すりに引っかけて、パラパラとページを読み進めるその姿は、まるで一枚の絵画のようだった。これが雨の通勤電車ではなく、夕暮れの図書室だったならもっと絵になっただろうなと、そんな事を雄介はぼんやりと考えていた。


 ただ、この時に抱いた想いはそれだけだった。後になって思い返せば、雄介はこの時から湊音に多少の興味を抱いていたのだろう。パッと見ただけでは印象に残らなそうな、どこにでもいる普通の女の子。けれども、どこかつまらなそうに手元の本を読む彼女の姿に。


 しかしこの時は、ごくありふれた日常の風景がそんな雄介の感情をきれいに洗い流した。彼女を見ても大きく心を動かされるわけでなく、視線はすぐに座席を確保するために辺りへと動いた。


 雄介が利用しているのは郊外から都心へ向かう路線のため、この電車も通勤客でそれなりには混雑する方ではある。ただ自宅も学校も最寄り駅を快速電車が通過することもあり、乗車した各駅停車は比較的空いていた。

 通勤時間帯の今も座席に座れるか座れないか程度の混雑率で、幸い今日は湊音の正面に空席があった。そこへ腰を下ろすと、ごく自然と再び視界に目の前の少女が映り込む。


 見慣れない制服――と言っても女子の制服に詳しい訳ではない——のため、少なくとも近所の学校ではないと思うのだがどこの物だろうか。

 そんな疑問こそ湧いたものの、直ぐに視線を彼女から切る。いつまでもじろじろと見ては失礼だろうとの思いもあり、また単にそのくらいの興味しか抱いていなかったのもある。

 彼女がどこの学校に通っていようが自分には関係ない。どうせたまたま同じ車両に乗り合わせただけで接点もないし、学校がわかったところでどうこうするつもりもないのだから。


 この時雄介の抱いたものはせいぜい、あの娘かわいいなという程度の思いであった。そんな男なら誰しもが抱くような、数分も経たず頭から消えそうな記憶は、実際のところ適当に眺めたスマホのSNSによってあえなく上書きされた。


『数学の小テスト、範囲どこまでだ?』

 たいして仲良くもないが、こうして連絡を取る程度には関わりのあるクラスメイトの書き込みが雄介の思考を打ち切る。

 さてどこだったかと、鞄からノートを取り出し該当のページを確認する。そんな雄介がそれに答えるよりも早く、別の人物から『リーマン予想のところだね』との誤情報がもたらされる。

 たたが高校の小テストでミレニアムなんて解かせないだろ、そんな事を雄介は考えつつ今さっき開いたページ数だけを簡潔に告げる。


 そんなありふれた日常の風景の中に、少女の姿はすぐに埋もれていった。



 雄介が自身の通う楸ヶ陵ひさぎがおか高校最寄りの初泉はつみ駅に着く頃には、湊音はもう既に下車したためなのか増えた乗客に遮られたためなのかは分からないが、彼女の姿を拝むことはできなかった。

 程よく混雑した車内には、同じ楸高生ひさこうせいが着るカーキのブレザーは多く見られるが、彼女の着るセーラー服は見えない。記憶のなかでも、それを見かけたことはなかったような気もする。

 そのこともあり、彼の脳みそにはこの朝の出来事が留まることはない。


 雄介は他の学生たちと同じように車外へと吐き出され、波に流されるように改札を抜ける。ここから学校へは歩いて十分程度の距離がある。帰りには雨が止んでいると良いな、雄介は紺の傘を広げながら同じような色味の空を見上げた。

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2024年11月6日 12:00

三度の告白——たとえ少女に歪んでも理想の恋を—— 佐倉はつね @falstero

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