第24話 星乃の血

 遠くの眼下に魔族と魔獣の群れが見えた。

 彼らの行く手を遮るように、何十もの冒険者たちが戦っていた。


 あの中に恐らく、四冥将アビスもいるだろう。

 心臓が冷たくなるのが分かる。

 私が行っても敵うはずはない。

 私は頭を振り、雑念を振り解き、南門へと急いだ。


 門へ近づくにつれ、血を流し倒れる人々の数が増えた。

 私は高度を下げ、息のある者がいないかと注意を向けながら空を走った。

 それがいけなかった。

 自らの手が悴み、心臓が高鳴っていることに気づけなかったのだ。


「くそ」


 魔力の供給が滞り、私は空中で浮遊魔法の維持を失い、バランスを崩した。

 背中から建物の屋根に落ち、なんとか受身を取ったが、バランスを崩した身体はそのまま地面に落ちた。

 建造物の崩れた残骸の中に、血を流した人の遺体が幾人も見えた。

 なんとか立ち上がるが、自分の呼吸の音だけがやけに大きく聞こえる。

 魔法が練られず、自分の体に麻痺が起きていることを認識する。


 しかし、それが足を止める理由にはならなかった。

 意味をなくした杖を片手に、私は走った。

 幾度も足を取られ倒れたが、その度に起き上がり、再び走る。


 脳裏に勇者アレンの血が思い浮かぶ。

 聖職者ミナの、武闘家ジンの血が過る。

 星乃が血に塗れる姿が浮かび、頭を振る。


 私は心に『安全地帯』を思い描こうと心掛ける。

 しかし、目の前に広がる悲惨な現状がそれを許さない。


 民間人や冒険者たちが倒れる中、ついに王立騎士軍兵が倒れているのが目に入る。

 それは南門を守る警護兵か、あるいは星乃を南門まで送った騎士兵かも知れなかった。 

 すでに息はなく、私は南門へ急ぐ。

 瓦礫と共に倒れる騎士兵の遺体が目に見えて増えてくる。

 間も無く、破られた南門が見える。

 私は足を止め、周囲を見回す。


 星乃は奴が言うところのパンピーに過ぎないが、不思議な勘の良さがあった。

 きっとうまくどこかへ隠れているはずだ。

 そう思い聞かせ、私は倒れる人々から目を逸らした。

 視界の片隅で、見覚えのある影が見えた気がした。

 身体が凍り、動悸が激しくなる。

 それが星乃ではないことを明らかにするために、私はもう一度、振り返らなければならない。

 ゆっくりと振り返り、私は瓦礫の中のそれを見た。


「……ああ」


 瓦礫を踏み、私は彼女に近づいた。

 膝をついて、彼女の顔を間近で確認する。


 星乃は白い洋服を赤く染め、横たわっていた。

 

 腹部から溢れた血が、服全体に染みている。

 傷口から魔獣ではない。

 魔族に腹をひと刺しにされたのだろう。

 


 私は星乃に出会った日のことを思い出していた。


 彼女はその日、ゼロリスの森林の中に仰向けに横たわり、眠っていた。

 見慣れぬ洋服から、私はそれが迷い人なのだと覚った。

 星乃の寝顔は綺麗なもので、血の一筋も流してはいなかった。

 私は星乃の首筋に触れ、彼女が息をしていることを確認した。

 目を覚ました星乃は、私を見て目を擦りながら言った。

「天使……?」

 私は思わず笑ったものだった。


 


 あの日が嘘のように、星乃は青白かった。

 私は彼女の雪のように冷たくなった首に触れた。


「星乃!」


 僅かに、脈がある。

 生きている。

 しかし、血を流しすぎている。

 臓器も傷ついている。

 時間の問題だ。

 

 私は血の溢れる星乃の腹に触れた。

 生ぬるい血液が、ぐしゃりと音を立てる。

 傷は深いが毒はないだろう。

 単純な治癒魔法で回復できるはずだ。

 治癒魔法など、500年以上前に修めている。

 この国を支える多くの聖職者たちに、治癒魔法を教えたのは私だ。

 問題ない、容易な仕事だ。

 私は魔力を掌に集め、傷を塞ごうとした。


「……っ!」


 視界が歪み、息ができない。

 魔力どころか、触覚すら失われ、私は今にもその血から手を離したかった。

 しかし、傷口に触れなければ治癒はできない。

「……はっ……はっ」

 魔力は感じられず、私はただ彼女の溢れる血に手を浸からせるだけだった。

 視界が霞み始め、私は自分が呼吸をできていないことに気がつく。

 血に濡れた手で自らの胸を押さえる。

 呼吸をしろ。私は祈るように自らを鼓舞する。

 また目の前で仲間の死をただ眺めるつもりか。

 しっかりしろ。

 私はしかし、もたれるように星乃の身体の上に倒れ込んだ。

 半身を星乃の血で濡らし、私は酸素を求めるしかできずにいた。


 自らの情けなさに涙が出る。

 せめて声をかけてやりたい。

 王子が喋ったと。

 彼の命令で私はお前を助けにきたのだと。

 しかし、もはやそれすらも叶わなかった。

 

 星乃を異界で一人死なせる訳にはいかなかった。

 これ以上、死を経験させてやりたくなかった。

 それが叶わないのなら、せめて一緒に死んでやるべきかも知れない。

 一人で死なせてはならない。

 私は目を瞑り、かつて私が死なせていった勇者たちに詫びた。

 許してくれとは言わない。ただ謝らせてくれと。

 しかし、私の瞼の裏に浮かぶのはかつての勇者たちの顔ではなかった。

 それは故郷の森だった。

 私はまだ生きようとしていた。

 『安全地帯』を心に描き、足掻こうとしていた。



「――て」


 頬に温かいものが触れた。

 瞼の裏に描く森の中で、声が聞こえた。

 目を開けると、星乃の血に濡れた手が私の頬に触れていた。


「……吸って」


 微かに開く星乃の目が、私を見ていた。

 星乃は死の淵から、私を助けようとしていた。

 私はいつか星乃に教わったように、ゆっくりと鼻から空気を吸った。

「……吐いて」

 星乃の今にも消え入りそうな声に従って、私は口から大きく息を吐いた。

 呼吸はまだ落ち着かない。

 しかし、懸命な彼女の最期を横たわったまま見送る訳にはいかない。

 私はなんとか上体を起こし、横たわったままの星乃を見下ろした。

 星乃は虚な目で、私を見上げていた。

 最後の力を振り絞るように、星乃は再び私の頬に手を触れた。

「わたしの……」

 星乃は命を削って、私に何かを伝えようとしていた。

 喋るなという一言が、しかし私には吐けなかった。

 星乃の今際の言葉に、私はただ耳を傾ける他なかった。


「わたしの血が……こわい……?」


――頬が熱くなる。


 それは星乃の手を濡らす血の熱さだった。

 怖いはずがない。

 お前の血が、お前の命の源が、怖いはずがなかった。


――星乃の血が焼けるように熱い。


 それはお湯でもなければ、赤ワインでもなかった。

 それは強く脈を打ち、まるで生きているように感じた。

 星乃の血は、私の頬を滴り、胸に落ち、腹に流れ、腿まで伝った。

 熱く脈を打つそれは、私の全身を浸した。

 星乃の血を帯びた熱い空気が、私の肺を満たす。

 彼女の血が、外と内から私を温める。

「……怖くないよ」

 私は星乃にそう答えた。


 気づくと、星乃は目を丸くし、キョトンと私を見ていた。


 青白かった顔は生気を取り戻し、まるで今までベッドに眠っていたかのようだった。

「あれ?」

 星乃は自らの血に濡れた洋服を捲り、腹を見せた。

「嘘」


 傷跡はもうなかった。

 




 星乃の治癒を確認すると、私は立ち上がる。


 彼女の血に濡れた自らの手を見つめる。力強く拳を握りしめる。

 魔力だけではない。

 形容できない力に満たされているように思えた。


 私は近くに倒れる騎士に手をかざした。

 彼が持っていた剣と弓矢とが宙に浮き、一直線に私の手に収まった。

 弓を背中にかけると、私は剣の刃で自らの指を僅かに切った。

 指から滴る私の血が、光を帯びる。


「古の盟約に応えよ」


 自らの血液を媒介に発動するその魔法は、血を恐れた私には500年使えなかった召喚術だった。

 私と星乃を中心に、光を帯びた無数のポータルが生まれる。

 その一つ一つから、聖馬と呼ばれる聖獣の白馬が現れる。


 街路を埋めるように突如現れた聖馬たちに、星乃は目を丸くして、私に問いかける。

「ソフィアさんが……?」

「ああ、古い友人だ」


 最後にポータルから現れた聖馬ヘレンが、私の隣に立つ。

 それは500年、私を描く絵画でしか見なかった白馬の姿をした戦友だった。


「随分増えたな」

 私の言葉に聖馬ヘレンは長いまつげを揺らした。

「500年もあれば増えるわよ。一族86頭、全て呼んで、戦争でも始める気?」

「いや、保護だ。一頭はここで彼女を守ってくれ」


 一頭の聖馬が星乃の頬に鼻をつけ、星乃はひゃっと飛び跳ねる。

「残りは国民の保護だ」

「わ!」 

 一瞬で街路を駆け抜けた聖馬たちに、星乃は瞬きをする。

 私は聖王ヘレンの背中に乗り、星乃を見下ろした。

「すぐに戻る」

 星乃は慌てて私に声を上げる。

「ダメだよ、どこ行くの?!」

「王子の命令だ」

「え?」

 私はいつも星乃がしてくれるように、彼女を安心させるように微笑んだ。

「皆を助けろと」


 それはいつか星乃の語った曝露療法の一種『持続エクスポージャー療法』の効果に過ぎないのかも知れない。

 恐怖の対象になった血液を身に被ったことによって図らずも実践された『持続エクスポージャー療法』。

 そこに星乃の眼球運動による『EMDR療法』と、自らがトラウマを語る録音を繰り返し耳にする『長時間曝露療法』が積み重ねられていた。

 そして、星乃の「私の血が怖いか」という問いかけが、私の自己認識を深めトラウマへの反応を鈍化させた『脱感作』に過ぎないのかも知れない。

 しかし、私の解釈は違った。


「お前の血が、私を強くした」


 全身を赤く染める星乃の血が、鎧のように私を守っているように感じた。

 身体を脈打つ熱さが、私を蘇らせたように思えてならなかった。


 星乃の目に、もう不安の色はなかった。

 星乃は私を見上げ力強く頷いた。


「行って」

「ああ」


 聖馬ヘレンが地面を蹴る。

 一瞬にして星乃が遠くなり、全身で風を切る。

 高速で過ぎ去る景色を横目に、私は聖馬ヘレンに命じる。


「飛んでくれ」

「目立つわ。良い的よ」

「構わん。派手に目立て」


 聖馬ヘレンが大きく跳躍すると、瞬く間に街並みが眼下に広がった。

 遠くに巨大な壁画が見えた。

 剣と弓を背中にした私が聖馬ヘレンに跨るその絵は、国内の至る所にあった。

 その絵が現実であることを、私は皆に伝える必要があった。


 なぜなら、私はもう知っているからだ。

 心の傷がいかに人を巣食い、苦しめるのか。

 それを回復させることに、どれほどの覚悟と苦しみが伴うか。

 これ以上、星乃の仕事を増やすわけにいかない。


「賢者様だ!」


 国民たちが街路から、部屋の窓から、私を見上げる。

 不安と恐怖に覆われていた人々の顔に、光が差す。


「賢者様がきたぞ!」

「賢者ソフィアだ!」

「賢者様ー!」


 少しでも早く、一人でも多くの人に、教えてやらねばならない。

 絵本も、御伽話も、伝説も、嘘ではない。


 賢者ソフィアは実在する。

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勇者一行の心理カウンセラー ヤツヤツスタジオ @yatsuyatsuki

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