第13話 星乃の魔法
「悪かったな。黙っていた」
その翌朝に、私は星乃に全てを明かした。
私たちはテーブルを囲んで向き合っていた。星乃はいつものソファに腰掛けて、ぬいぐるみを編んでいた。
星乃に驚いた様子はなかった。自分の症状を隠すクライエントが多いことを、彼女は誰より理解していた。
「教えてくれてありがとう。ソフィアさん」
「……治るか?」
「うん、治療法はあるよ。でも、遠征にはとても間に合わない」
「ああ、分かっている。今更魔族とやりあえる程、回復するとも思っていないさ」
「というより、ソフィアさんが魔王討伐なんて危ないよ」
「……ん?」
笑いながら紅茶に砂糖を入れる星乃は、私が心外に感じていることに気づいていないようだった。
「……お前、私を甘くて見てるだろう。結構強いんだぞ、私は」
「えー、でも大昔のことでしょう。もうおばあちゃんじゃん」
「おば……」
「あ、ごめん」
「……この症状を治してくれたら許すよ」
「はい」
星乃は姿勢を正し、改めて私を見据えた。
「血を目にすると、脈拍が速くなって、身体が強張り、思考が鈍る。当時の記憶がフラッシュバックして、悪夢を見ることもある……だよね。うん、ソフィアさんの見立て通り、トラウマが原因の心的外傷後ストレス症、つまりPTSDだと思う」
「ああ」
「PTSDはね、過去のショッキングな出来事が、現在の活動や思考を押し退けて長期に渡って支障をきたす状態を言います。フラッシュバックや、過覚醒による頭痛や不眠、麻痺や解離が症状にあるの。ソフィアさんの場合は、フラッシュバックと麻痺や解離が多いみたいだね」
「そうだな」
「私に明かしてくれたということは、準備が出来たと考えてるんだと思う。でも、トラウマ治療はどうしても、当時の記憶について触れることになるの。無理はしないで欲しい」
「ああ、分かってるよ。大丈夫だ」
「……じゃあ、きっかけについて話せる?」
「ああ」
カウンセラーは極力、クライエントの前で不安げな表情を見せるべきではないと星乃はかつて語った。
だが、星乃は明らかに不安げで、私にはそれが少し嬉しかった。
「500年も前の話だよ。目の前で当時の勇者一行を惨殺され、彼らの返り血を浴びた。相手は四冥将の一人だ」
「……うん」
星乃は黙ってノートにメモをとった。我々の仲だ、共感の言葉は必要ないだろう。
しかし、私にはどうしても不安に感じていることがあった。
「星乃、お前の力は信じている。しかし、認知療法や行動療法でこの記憶が消えてくれるとは思えないのだ」
「PTSD治療の目的はね、トラウマの忘却ではなくて、トラウマを受け止められるようになることなの」
「受け止める……」
「うん、例えばベッドルームでゴキブリを見たら驚くし、ショックじゃない?」
「ショックなものか。森生まれのエルフだぞ、私は」
「あー……。じゃあ、朝シャワーを浴びてデートをしに意気揚々と家を出た瞬間に、鳥の糞を頭から被ったら?」
「それは凹むな」
「ああ、よかった」
意味の分からないところで安心すると、星乃は続けた。
「でも、1週間後にそのことを思い出しても、せいぜいため息が出るくらいじゃない?」
「……なるほどな」
鳥の糞を被ったからと言って、鳥を見て身体が麻痺し、フラッシュバックを体験することはない。
思い出して気分の良い出来事ではないし、しばらく忘れられない記憶かもしれないが、現在の活動や思考に支障が生まれる訳ではない。
これがトラウマを受け止めるということなのだろう。
「実際に血を見る以外に、症状が出る条件はある?」
「そうだな……赤い絵の具や、赤ワインのような血を連想させるものでも調子を崩すな。稀に当時の夢を見ることがあるが、その時も辛いな。昔ほどではないが」
「なるほど」
星乃は立ち上がると、脇に置いてある蓄音機のゼンマイを巻き始めた。
レコード缶に音を録音できるそれは、随分前に星乃に頼まれ私が用意したものだったが、使用するのを初めてみた。
「一般に認知療法も効果的ではあるんだけど、私たちはカウンセラーとクライエントというより、友人関係でしょ?」
「師弟関係だ」
「どっちにしても、プライベートで付き合いのある関係のもの同士がカウンセリングを行ってもあまり効果が期待できないの。『二重関係』と言ってね」
そう、『二重関係』があれば、クライエントへの治療や客観性を損なう恐れがあるということを私は星乃から聞いていた。
心理カウンセラーも人間だ。個人的な関係が生まれれば、感情的な影響を受けるし、自ずとパワーバランスも生まれるだろう。お互いの話を素直に受け止められなくなるというのだ。
実際、星乃は勇者一行とはすで半年の仲になるが、一度も部屋の外では会っていない。
「だから、今回は別のアプローチを使うね。幸い、PTSDに効果的な治療は『二重関係』の影響を受けにくいから」
言いながら、星乃は蓄音機での録音を始めた。
「会話を録音させて貰うね」
「ああ」
蓄音の意図は分からなかったが、治療の一環なのだろう。
「普通ね、人の記憶は忘れるように出来ているの。眠りを通してね。記憶が薄れてくれないと、鳥の糞を被った一年後だって気分は落ち込んだままってことになる」
「うむ」
「でもあまりにショッキングな記憶はそれを許してくれない。それがPTSDの原因。だから、今回は意図的にレム睡眠を再現させて、記憶に対する感情の強度を低下させる」
それは初めて聞く治療だった。この半年、星乃がクライエントにそれを行うところを私は見たことがない。
「……魔法でも使う気か?」
「まさか。私はパンピーだよ。科学的な治療だよ。目を瞑って」
いう通りに目を瞑ると、闇の中で星乃の声が続けた。
「これから、当時の記憶について思い出して貰うね。でも、とても辛い記憶だと思うから、その前に『安全地帯』を作ります」
「安全地帯?」
「うん、ソフィアさんが世界で一番好きな場所を教えて。リラックスできて心地の良い空間」
「……うむ、そうだな。故郷だな。遥かに南にある森だ」
「教えてくれる? どんな場所か」
「そうだな……巨大な大木に覆われ、清水がそこら中に湧いている。空気の澄んだ、緑と水の世界だ」
「綺麗なところなんだろうね。そこで何をするのが好き?」
「清水のせせらぎを聴きながら、大木の幹を寝床に横たわるんだ。暖かい幹で、そよ風も心地よくてな。いつの間にか眠っている」
故郷の川の音が聞こえるようだった。
瞼の裏で光を浴びた緑が静かに揺れている。
「気分はどう?」
「そうだな……悪くない。偶には帰りたいな」
「いつでも帰れるよ。辛くなったら目を瞑って、もう一度ここにきて。この森へ」
なるほど、このイメージの世界が『安全地帯』ということなのだろう。
であるならば、私はこの後、安全ではない地帯に赴くことになるということになる。
「目を開けて」
目を開けると、星乃は持っていたペンの先端を掴み、指揮棒のようにそれを私の視線の中央に指して見せた。
「……やはり魔法だろう」
「違うよ。顔を動かさず、眼球だけで先端を見ていて」
「ああ」
「このまま、思い出しながら教えて貰えるかな。悪夢の記憶を」
「……ああ」
覚悟はしていたが、緊張がなかったかというと嘘になる。
意図的にあの瞬間を思い出すことなど、この500年の間、一度もなかったのだから。
しかし、逃げるわけにはいかない。ここで逃げては、戦士リアムや聖職者エルンストンに合わせる顔がない。
「当時の四冥将の一人を倒した、そのひと月後のことだったよ。私たち勇者一行は、二人目の四冥将と対峙した」
「うん」
「恐ろしい魔族でな。奴は一目で相手の過去を覗くのだ。思い出も、強みも弱みも、癖も、一瞬で」
「うん」
「狡猾な男でな。初めに聖職者がやられた」
聖職者ミナの顔が思い浮かぶ。
鼓動が早くなるのを感じた。
心臓の音が大きくなる。
「……奴は、我々の攻撃の癖を見抜き、容易に後衛の聖職者の前まで距離を縮めて――」
声が出ない。あの時の光景が、見えない。いや、見えるのだ。
見えるが、脳が思い出すことを拒否していた。
向き合え、逃げるな。
そう言い聞かせても、言葉が出ない。瞳が熱い。
恐ろしいのではない。情けないのだ。500年を経て、いまだに逃げている自分が。
「見て」
星乃がペンを右へ振った。
意図は分からない。しかし、私は視線のみでそれを追いかけた。
次に左へ振られた。目で追う。
右、左、右、左、上、下、右、左。
揺れるそれを目で追う。
何の意味があるかは分からない。
分からないが、不思議と動悸が落ち着いてくるのを感じた。
「……話せる?」
私は頷き、次の言葉を紡いだ。
まるで彼ら、当時の勇者一行に懺悔するように。
「奴は、聖職者……ミナの首を刎ねた」
ペン先が揺れる。目で追いかける。
当時の光景が思い出せる。
だが、なんだろう。今までのフラッシュバックや悪夢とは少し違う。
まるで絵本を読んでいるような、記憶というより、伝聞を思い出すような。
「私は動揺していた。それすらも予期していたのだろう、奴は次に私を狙った」
「うん」
「私を守るように、武闘家が奴を背後から羽交締めにした……だが奴は、私を狙えば武闘家が動くことを読んでいたのだ。臓物を抉られ、武闘家ジンは……」
ジンは口から夥しい量の血を吐き、私はそれを全身に浴びた。
それはお湯のように熱く、私は恐怖でも怒りでもなく、ただ人はお湯で出来ているのだと驚いた。
今思えば、あれは星乃の言う『解離』だった。耐え難い現実から逃れるための脳の防衛機制だった。
動けない私を守るように、勇者アレンが前に出た。
右腕を落とされたアレンを治癒することもできず、私はただその光景を見ていた。
アレンは左腕で剣を取り、左腕を刎ねられると、歯で剣の柄を咥えた。
そうして、奴の指を切り落とした。
両腕を失っても戦う意志を見せた勇者アレンに、奴は怯んだ。
勇者も長くはない、深追いを禁物。そう判断したのだろう。
奴は、私と勇者を残し立ち去った。
血を流しすぎだのだろう。アレンも息耐え、私は彼らの血を全身に浴びていた。
そこに私の血は一滴もなかった。
「ありがとう……気分はどう?」
「ああ……大丈夫だ」
星乃はペンを振るのをやめていた。
緊張はしている。しかし、動悸はなかった。
「途中から、そのペンを追いかけているうちに、自分の記憶を話しているというより、昔見聞きした物語について語っているような感覚になった」
「うん、よかった。トラウマと心に距離ができた証拠だね。目を瞑って」
目を瞑ると、すぐに星乃が言った。
「森へ戻って」
事前に思い描いていた『安全地帯』のおかげだろう。私はすぐに森の巨木の幹に横たわることができた。
これ以上、血を思い描くことはなく、身体の硬直が緩んでいくようだった。
「落ち着いた?」
「ああ」
「戻って来れそうなら、目を開けて」
私がゆっくり目を開けると、いつものように星乃が微笑んでいた。
「目の前にあるものを三つ、適当に教えてくれる?」
「紅茶、蓄音機……お前だ」
「うん、今日は以上です。今のはEMDR療法というの。眼球運動により、レム睡眠時の運動を擬似的に作り出して、トラウマ記憶の解消を促したんだ」
「トラウマに対する睡眠による忘却を擬似的に作り出したというのか」
「うん。忘却と言っても、忘れるのではなく、あくまで昔の記憶を受け止めるようにするの。これを定期的に繰り返していく。他の治療も並行してね」
星乃がこれほど頼もしく感じることはなかった。
私はすぐにでも彼女を抱きしめたい気持ちだった。
「……お前はやはり魔法使いだよ」
「パンピーだってば」
「ところでパンピーってなんだ」
「ああ、一般人」
「お前がパンピーなら、私は愚者だよ」
「あはは」
私を安心させるように笑いながら、星乃は蓄音機を止めた。
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