「くさむらさん」

 わたしはくさむら。


 わたしの前には、車がやっとすれ違うくらいの細い小路がありました。

 その道を挟むと僅かな斜面につつじが咲いて、朝と帰りに通学団で、登下校する子供達が花をもいで蜜を吸います。その後ろには黄緑色の金網があって、その後ろにはソメイヨシノが立ち並び、その向こうは小学校の校舎とグラウンド。

 お揃いの黄色い帽子に黒いランドセル、赤いランドセルの子供達が、わたしに生えた草花を小さな手で千切って行きました。

 男の子は細い葉っぱを組んで手裏剣を、女の子はシロツメクサで腕輪を編んで。

 

 小学校を正面に、左を向くとドブがあり、それを挟んで長屋が並んでいます。

 白ばんだ青いトタンには、ところどころに赤錆が浮いて水に垂らした絵の具のような模様をしています。わたしの方を向いた換気扇からはいつも醤油の匂いや、お味噌の匂い、それが混ざった良い匂い。

 長屋の向こうに砂利道があって、そこでは小学校に上る前の小さな子供が遊んでいます。

 やあ、やあ、と小さな子供の声。わん、わん、と犬の声。はしゃいで走る子供と犬の姿が、長屋と長屋と長屋の間から、コマ切れ映画みたいに見えました。


 小学校を正面に、今度は右手をみてみれば、3階建ての白いアパートのベランダが見えます。

 物干しに大きなシーツ、赤いシャツ。白い靴下、青いシャツ。そういった物の下から顔を覗かす小さな女の子。ぴんぽーん、とチャイムが鳴って女の子の姿が部屋の中に消えます。

「あーちゃん、あ、そぼー」

「い、いよー」

 アパートのブロック塀の隙間から、ふたりがわっ、と駆け出しました。先を行くのは男の子。麦わら帽子に虫取り網を大きく掲げ、ぱたぱた旗めく白い網に、バッタがひとつ飛び込みます。後ろに着いて走るあーちゃんに、男の子がオンブバッタを見せました。

「こわい、いらない」

 ぷいっ、と顔を背けたあーちゃんの見ている方にオンブバッタが飛んで行き、ふたりはそれをずっと眺めていました。


 あーちゃんの住んでた部屋にはブラジル人の家族が代わりに入って、男の子はひとりでわたしの上をかさかさと、草を分けて歩いています。

 小さな手のひらの中には、キャラメルのおまけのおもちゃ。黄緑色のおはじきみたいな、プラスチックのゲンゴロウ。男の子がそれをつまらなそうに摘んで、草の間を縫うように遊んでいると、男の子の上級生がおもちゃを取り上げ言いました。

「なんだこれかっこわるーい」

 そう言ってぽーん、と投げられたおもちゃのゲンゴロウはわたしの上を2、3度跳ねて、草の中に消えました。

 男の子は泣いて探して、探して泣いて、それでもおもちゃは出てきません。草と同じような緑色。わたしは落ちてきたおもちゃをただただ黙って見つめました。


 上級生の男の子がポケットから、拾った100円ライターを取り出して、わたしの上の枯れた草にカチカチカチ、と回転ヤスリを鳴らして火をつけました。

 ゲンゴロウのおもちゃを諦めた、小さな男の子は最近わたしの所には来ていません。

 ぱちぱち、と小さな火種が大きくなって黒い煙がわたしから上がりました。上級生の男の子は「火事だー」と言って走って行きます。

 わたしの半分くらいが燃えて黒くなった頃に、誰かが呼んだ消防車が来て、水をかけるとやっと火は消えました。それでもしばらく煙は立って、近くに住んでる人たちが心配そうに眺めてきます。


 有刺鉄線が引かれて、わたしの上を歩くのは、茶色のしましま猫だけになりました。

 それでも時々縄張りに、恐る恐る入って来る黒猫や、隣の縄張りのボスのシャム猫。

 出会い頭にお互い驚いてふーっ、と声を上げ睨み合います。誰かが「うるさい」と言って喧嘩する猫に木の棒を投げました。慌てて逃げた猫たちは、ちょっと離れた駐車場で鉢合わせ。遠くの方から鳴き声を、混ぜて丸めて転がしたみたいな音が聞こえました。


 わたしはくさむら。

 大きな道路を通すまで、小さな男の子が生まれる前から空き地でした。その男の子が大きくなって、町を出て、しばらく帰って来ないうちに、とうとう道路工事が始まりました。

 久しぶりに男の子が帰って来ると、小学校の脇の小路もつつじの木も、長屋もアパートもなくなって、わたしの上に4車線もの道路が敷かれました。少し残った僅かなわたしも宅地になって家が建ち「ずいぶん変わったね」と男の子は言いました。


 男の子には秘密だけど、アスファルトの下。わたしと一緒に、あの時のゲンゴロウのおもちゃが埋まっています。


(了)

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