「凍傷」

 身を焦がす、と言いますがわたしがフユに抱くのは決して思慕などのような物ではなく、もっと細胞が壊死するような醜い想いでした。

 それでもフユの氷つくような瞳に見据えられて、まるで炎に包まれ身を焦がされたように感じたのは、怒号と雪が降り頻る火葬場で彼女の右顔の酷い火傷の跡を見たせいかもしれません。顔を上げたフユの目の奥の冷たい炎で、その時確かにわたしは一目で焼かれたのだと思います。

 いずれにしても、わたしはユキフユに堕ちるのです。



 長い前髪を右に流し、左目だけを出した視界は二分の一。そしていつも俯きがちなフユが見る世界は、他の人の四分の一しかないのでしょうか。

 わたしは手のひらで右目を覆い、河川敷で線香花火を摘まんだフユを見下ろしていました。凍えそうな濃紺色の冬空に、おおいぬ座の一等星は蒼白く燃えていることでしょう。それでも今わたしの見下ろす四分の一の世界には、俯いて冷め切ったフユしか映りません。


 二月の凍てつく夜に花火をしよう、と誘ったのはフユではなくわたしの方でした。

 わたし達が居る河川敷のすぐ横には県境の川があります。さすがに凍る事はありませんが、両岸を堤に挟まれ、一段低くなった土地には冷たい空気が溜まり、冷え切った川風の通り道になっています。

 川の対岸はもう隣県。県境をまたぐ橋にはひっきりなしにトラックが行き来し、黄色や緑や青のサイドマーカーが冬の流星群のように流れて行きます。

 フユの手を引いて、わたし達も別の街へ流れてしまえば良かったのかも知れません。しかしフユはそれを良しとしないだろう事も分かります。

 河川敷の冷たい風から小さな花火の火種を守るように、またはその火種で暖を取るように、屈んで俯くフユは四分の一以上の世界を見るつもりはないでしょう。或いは、燃やすべきものを焼き尽くすまで街を出るつもりはない、と言うかも知れません。


 ひらけた河川敷に、川の上流から下流に向けて凩が通り抜け、俯くフユの天蓋のように垂れた長い髪が舞い上げられました。線香花火の小さな火種に照らされて、フユの右顔の火傷の跡が右目を覆ったままのわたしに露わになります。それも束の間、花火の火種は音もなく落ち、わたしもフユも、フユの火傷の跡も冷たい夜に包まれました。


「消えた。ユキ、次つけて」


 そう言って、それでもフユは落ちて消えた火種を見下ろしたままです。わたしはわたしを見ないフユを黙って見下ろしたままでした。

 動かないわたしに痺れを切らし、やっとフユがこちらを向いて、右目を覆う手に怪訝そうな視線を寄越しました。


「なにしてるのそれ」

「フユの真似」


 馬鹿みたい、と言ってまた俯いてしまったフユの脇にわたしも屈みます。凍りそうな土と冷たい空気に冷やされた河川敷の、石の上に置いた袋から線香花火を一本引き抜きました。渡す流れでフユの右頬に唇をそっと寄せると、肩を押されバランスを崩したわたしは石の上に尻餅をつきます。

 冷えた頬に冷えた唇を合わせても、何の熱も生みません。ワセリンも冬の空気みたいに匂いもせず、味もせず、わたし達はどこまでも冷え切っていました。


「なんなの?ユキは私が好きなの?」

「まさか、気持ち悪い」

「花火しないなら寒いし帰る」


 立ちかけたフユの手を掴むと黙って線香花火を握らせました。不承不承といった様子でフユが座り直し、わたしはポケットから出したライターの回転ヤスリを回します。線香花火を摘まむフユの手も、ライターを持ったわたしの手も芯まで冷えて少し震えていました。

 なかなか着火させられないライターのストロボのような火花の中で、燃やせ、とフユの目が言っています。

 炎を上げるには燃料が必要です。

 わたしは焚きつけるようにフユに言いました。


「そういえば、この前伯父さん来たよ」

「お父さん? なんて?」

「うちの親が離婚したのは自分のせいだって。なんとかって宗教抜けたんだって? すっきりした顔で謝られた」

「ははっ、すっきり!?」


 フユの乾いた笑い声を合図にしたように、ようやくライターの小さな炎が上がり線香花火に火をつけました。

 じじじ、と火花が散って、覗き込むフユとわたしの顔を照らします。フユの瞳の中にも線香花火の小さな火種が写り込み、わたしは雪の火葬場で見た炎を想いました。


 

 幼い時に顔に火傷を負ったフユは適切な治療を受けられず、その跡は今でも醜く残っています。

 父方の叔母、フユの母親もまた癌の発見が遅れ、見つかった時には全身を蝕まれすでに手遅れの状態でした。フユの父親の入信していた宗教の教義では受診は拒まれ、代わりに手が翳され奇跡を祈るそうです。看護婦だったわたしの母はそういった教えを酷く嫌い、わたしの父は自分はまともであると考えていたようです。

 そんな父がフユの父親の胸倉を掴んでいました。高校生だったわたしはその父の手が母を打ち、また不貞を働いている事を知っていました。その相手の事も。

 火葬場入口には宗教信者が揃いの白装束で詰めかけ、それを入れさせまいとする親族や、葬儀業者とで揉み合いとなっています。わたしは酷く醒めた気持ちでこの有り様を、厚い氷を通すように現実感なく眺めていました。

 ── 邪魔だ、退け。入れさせるな。手を翳せば生き返る、燃やすな。

 大粒の雪が舞い、白装束と喪服の人達が入り交じると、まるでフレーム数の少ないモノクロの無声映画のようでした。

 父と叔父、信者と親族。その向こうでフユは、フユの母親の遺影を持ったまま俯いていました。可哀想に、喪服代わりのセーラー服を着て俯いている、殆ど交流のなかった従姉妹を見てわたしは思いました。そしてわたしの母が参列しなかった事は正解だったと思いました。火葬場はそれ程酷い有り様だったのです。

 わたしも母のように遠慮すれば良かった、雪の降り頻る中で凍えながらそう思い、未だ叔父に掴みかかっている父に視線を向けました。

 ── 離せ、手を翳せば元通りになる。生き返るだと? やってみろ、娘の火傷も治せなかったくせに。

 その父の言葉はわたしと、揉み合う人の川を挟んだ対岸のフユの耳にも入りました。

 フユが顔を上げ、その時、確かにわたしは一目で焼かれたのだと思います。初めて真正面から見たフユの酷い火傷の跡と、炎を宿したような瞳からわたしは目が離せなくなり、またフユもわたしを見ていました。燃やせ、とフユの目が言っているようでした。


 最初にフユの母方の親族が火葬場から去り、宗教信者が警備員に追い出され、残ったのはごく僅かな身内のみとなりました。火葬の間フユはひとり炉前室の前で俯いて立っていて、わたしはそっと近づいて声をかけました。


「フユ、さん。分かる? 従姉妹の」

「はい。えっとユキ、さん?」


 フユはわたしとは目も合わせず、既に萎れた篝火草の様でした。わたしはもう一度フユの瞳の中の炎を垣間見たくて、彼女の火傷の跡を掻き毟るような言葉を選びました。


「叔母さん綺麗な人だったね。フユさんもお母さん似かな? だから気をつけたほうがいいよ」

「気をつけるって?」

「わたしの父親とフユさんのお母さん、デキてたの知ってる?」


 そう言って俯きがちなフユの瞳を覗き込むと、じじじ、と小さく火花が散る音が聞こえるようでした。でもそれは一瞬の事で、フユは氷つくような冷たい目線をわたしに送り、しかし微笑んでいました。


「知ってます。あなたのお父さんは私にもとても優しくしてくれますよ?」

「気持ち悪い」


 わたしも微笑んでフユに返しました。


 火葬が終わり拾骨の時には殆ど親族も残っていませんでした。骨まで病魔に侵されたフユの母親。その骨はほとんど原型を留めず燃やし尽くされ灰ばかりでした。

 

 叔父とフユが、まだ熱を持ったまま陽炎のように空気を歪めるその僅かな骨を二人一組で拾います。フユから箸を渡され、わたしは父親と二人一組で叔母の、父親の不貞の相手の、フユの母の骨を拾いました。

 フユもわたしも、もしかしたら父も叔父も、骨を拾いながら冷めきって、同時に焼け爛れていたのかも知れません。

 燃やせ、燃やし尽くせ。わたしの中でフユの声が木霊していました。


 それからわたしは度々、フユと連絡を取り会うようにしました。父方の親族を嫌う母も、親を亡くした従姉妹に寄り添おうとする自分の娘を理解し、また叔父も同じように歓迎してくれました。父親がどう思っていたのかは知りません。

 でもわたしは、フユがいつその瞳の炎で焼くべき物を焼き尽くしてくれるのか、と待っているだけでした。しかし、その後のフユは熱を失ったように火傷の跡を隠して、俯き塞ぐばかりでした。

 

 両親が正式に離婚する前、底冷えするある深夜のことです。わたし以外の家族が寝静まった家の固定電話が鳴り、皆を起こさないようわたしは静かに受話器を取りました。

 悪戯電話かとも思い黙っていると僅かな息遣いの音のあと、私、と女の声がしました。名乗りもせずに聞こえた言葉に、思わず息を呑み込みました。


「私、今日、子供堕ろすから」


 それだけを伝えて電話は切れ、わたしはこの電話が誰に向けられたものなのか、受話器を持ったまま考えていました。ともかく、わたしはこの電話の事を父が不在の間に母に話し、その後直ぐ正式に離婚が決まりました。

 電話の相手が誰であったのかは、名乗りもせずに切られた、としか母には伝えませんでした。しかし、わたしはその声の主を間違えようがありません。わたしの中ではいつでも同じ声が響いているのです。



「あ、落ちちゃう」


 線香花火を摘まんだフユが悲しげに言いました。冷たい風に攫われる事もなく根元まで燃えた線香花火の火種は、寿命間近の恒星のように膨らみ、しかしもう火花を散らす事はありません。寒さに震えたフユの指先の、紙縒った花火の根元から遂に火種が落ちる刹那、わたしは右の手のひらでそれを受け止めました。じじじ、と手のひらの肉が焦げる音と嫌な匂いがしました。


「馬鹿、なにやってるの」


 フユがわたしの右の手首を掴み言いました。薄っすら立ち昇る煙は血と火薬の焦げる嫌な匂いがしましたが、わたしが受け止めた火種は綺麗な螢のように小さく弱々しく光り、やがて消えました。


「ねえフユ、あの夜電話して来たのはフユ?」

 

 わたしが溢すとフユが息を飲むのが分かりました。火種が消えると、暗くなった河川敷には凍えそうな夜の静寂だけが漂っています。

 身震いして、俯くフユが泣いているような気配がしました。フユの瞳から溢れる炎の雫に思えた線香花火の火種は手のひらを小さく焦がすだけで、わたしを燃やし尽くす事はありませんでした。


 結局フユが燃やしたのは、産まれなかった小さな命だけだったのでしょうか。

 わたしはフユの顔を覆う長い髪を手で梳いて耳にかけ、右顔の酷い火傷の跡にもう一度口吻をしました。フユの冷えた頬にわたしの中の熱が伝わるように長く、強く。


「大丈夫だよフユ。わたしが側にいるよ」


 耳元で囁くとフユは頭をわたしの肩に埋め、わたしはフユの頭を抱き何度も言いました。


「大丈夫だよフユ。大丈夫だよ」


 だからフユ、もう一度言って。燃やせ、と。

 そう言ってくれれば、わたしがフユの代わりに全部燃やしてあげるから。

 わたしの父親も、フユの父親も、フユも、わたしも、わたし達に流れる血ごと、何もかも。


「だから大丈夫だよ、フユ」


 フユはわたしの肩に顔を埋めたまま、小さく頷きました。フユの頭を撫でる右手の火傷が痛みましたが、わたしはこの火傷がもっと大きければ良かったのに、と思っていました。

 フユの酷い火傷の跡くらいに。壊死して腕が落ちるくらいに。


 わたしとフユは冬の星座達が蒼白く燃える二月の夜空の下、河川敷で凩に当てられた氷像ように暫く抱き合っていました。このままふたり、ここで死んでしまったとしたら、それは凍死なのでしょうか、それとも焼死なのでしょうか。


 いずれにしても、わたしは雪、冬に堕ちるのです。



 (了)

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