夏の思い出でした。
さんざめく蝉の声と、ケヤキの葉擦れが雨の音に入れ替わる。傘なんて持って来なかったから、本降りになる前に、屋根みたいな街路樹の下に急いで潜る。ブロンズ像の前の、石のベンチ。部長が読んでいた文庫の背表紙から、伸びた栞紐を挟んで顔を上げた。
「傘持って······来るわけないね」
そう笑って、文庫をしまったトートから、代わりに出てきたハンドタオル。部長の白くて細い指がぴん、と添えられたタオルが濡れた前髪に当てられると、石鹸みたいな香りがした。
寄る瀬もないこの気持ちは、結局全部が流れてしまった、遠い昔の思い出だからだろう。道の向かいに広がっていた、もうなくなってしまった草むら。疎遠になった親戚の家の隣の神社。顔も声もすっかりぼやけてしまったあの娘。横切る猫、甲虫の爪の刺さる感触、奥歯に染みるかき氷。そして、プロペラの音みたいな蝉の声。
「何の話かな?」
「つまり、そういう断片を集めて小説みたいなものを書いているわけです」
「郷愁?」
「格好良く言うと」
ふむふむと、わざとらしくも愛らしく、部長が口に出して腕を組む。そんな仕草も、そんな仕草を書いた事もいずれは懐かしく思うんだろう。
腕を擽る感触に、隣を歩く部長を横目で覗く。その横顔は、思ったよりも近く、だけど触れていたのは部長が肩にかけたトートだった。たったそれだけの事から、例えば部長の歩くスピードや、息遣いや、揺れ動く心情。そんなものを引き伸ばして、飾り付け、丁寧に並べるように綴る。出来上がったものには冒険もなく、ましてや寓意なんかあるわけなく、ただ郷愁と感傷が漂うだけ。ただ、それだけ。
「そこから脱したかった。そういう事なんだと思います」
「書けなくなった理由?」
「そうそう。でも結局、同じようになってしまう。」
「うーん。だったら、それがキミのテーマなんじゃないかな?」
そう言って、部長がトートの口の角で肘の辺りを擽って来る。ぞくっとして腕を引くと、くすくす部長は笑った。
夏の終わりかけ、不安定な空は時々気まぐれに雨を降らした。それから逃れるように入ったバス停の屋根の下で部長に告げる。
「そんなわけで、もう郷愁を避けるのは諦めようかと思います」
「そう。嬉しい」
「だから、イマジナリー部長を返して下さい」
そう言うと部長は、みざりぃ部長は一瞬目を丸くして動きを止め、そのあと眼鏡の奥の目を三日月みたいにして笑った。
「いつから分かってたの? ううん、いつからそう書いてたの?」
「意識してたわけじゃないんです。でも『8時だョ!全員転生』に入ってからは混在していたと思います」
みざりぃ部長はうーん、と腕を組み首を傾げる。そのイメージも様子も、イマジナリー部長となんの差異もなく、ただ名前が違うだけだ。
「だったら、わたしでも良いじゃない? わたしはキミの好きな郷愁だよ? ね、もう避けないんだよね? プロになりたいんじゃないでしょ? 誰に読まれなくたって、わたしがずっと一緒にいてあげるよ? キミはホントは小説じゃなくたっていいんじゃないかな? 淋しいだけなんだよね? ううん、そうじゃない、淋しくなりたかったんでしょ? 淋しい時は誰かにいて欲しいもんね? 誰でもいいから見てほしかった? だったらわたしがいるよ? だから、わたしとずっと一緒にいようよ、ね? 」
そう言うみざりぃ部長のこぼす言葉は、ケヤキの枝葉から落ちる雨の雫が、バス停のポリカーボネートの、薄茶の屋根を叩く音のリズムにとても似ていた。
「それでも『イマジナリー文芸部』を一緒に綴ったのはイマジナリー部長なんです」
落書きみたいな小説を、バスに乗り込む前、みざりぃ部長は「好きだよ」と言ってくれた。
「みざりぃ部長の書く小説も好きですよ」
「読んだことないくせに。そういうところだぞ」
「でも、たぶん好きですよ。本当に」
バスの乗車口は、次々と並んでいた人達を飲み込んでいく。何度もそれを振り返って、みざりぃ部長は名残惜しそうに眉を下げた。
「これ、キミに返すね」
そう言って、みざりぃ部長が握らせた物を手のひらで軽く転がしてみる。それは小さな丸い、なんの飾り気もないリングだった。「どうするかはキミの部長さんと相談して」と言って、みざりぃ部長はバスのステップに足を乗せた。
「頑張って、小説書いてね」
「ありがとうございます」
「こっちこそ、ありがとう。いい夏だったな」
そうして、みざりぃ部長を乗せたバスは、もうひとつの夏に帰って行った。気づくとさっきまでケヤキの葉を叩いていた雨音は、また蝉の声に変わり遊歩道に降り注ぐ。しばらくひとり歩いて、そして石のベンチに座った。
ベンチの前にはイタリアの、現代彫刻作家のブロンズ像。女性が大胆に体を捻りこちらを向いている。枝葉の隙間から溢れた雨が涙みたいに彫刻の顔を濡らし、その目が僕の目と合う。
その彫刻はこの物語のシンボル。
タイトルは、『夏の思い出』。
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