第3話 D**書店の幽霊

 彼は途方にくれていた。

 気がついたら幽霊になっていて、D**書店にいたからだ。

 混乱しているのは、幽霊になったからではない。槍で胸を突き刺されたみたいな強烈な痛みで床に倒れた時から、死ぬことは覚悟していた。「ああ、死ぬんだ」と思い、どこかほっとしたのを覚えている。

 納得がいかないのは、幽霊なのに書店にいることだ。

 確かに痛みが襲ってくる直前、死の予感に腹の底がぞわわわとした時、「今死んだら、もうD**書店には行けないのだな」とは思った。

 でも、幽霊になってまで来たいと思ったわけではない。

 生きていた時と同じように本を物色し、拾い読みできたなら楽しいかもしれない。でも、幽霊は物を持つことができないのだ。だから、できることといったら、本の表紙を眺めることくらいだ。新しい紙やインクの匂いを嗅ぐこともできない。

 仕方がないので日がな一日、読めない本の内容をあれこれ空想している。

 ふと顔を上げると、書店の前の外廊下を歩く幼稚園児らしい女の子と、窓越しに目が合った。


 踏切の遮断機が下りていた。

 急ぐ必要などまるでない記憶をなくした悪魔――なにしろ時間は無限にあるのだ――は、遮断機の先の街の景色をのんびりと眺めていた。彼の興味を惹くようなもの――ストラップが切れたマスコット人形とか正体不明の毛の束など――は一つもなく、午前の日射しに照らされた郊外の町がちんまりと佇んでいるだけだ。

 ふと顔を上げると、反対側の遮断機の向こう側に、三十代半ばくらいの男が立っていた。その男も悪魔と同じように、線路をじっと見つめていた。

 ほんの一瞬、悪魔はにやりと笑うと、歩み出した。

 遮断機のバーも、折から走ってきた急行電車の車体も、存在しないかのように悪魔は擦り抜けて、踏切の反対側に出た。目尻が裂けそうなほど目を見開いて驚いている男に、悪魔はささやいた。

「電車の前に飛び込むなんて面倒なことをしなくても、この世から逃げ出す方法はいくらでもあるんだよ。なんなら、おためしの疑似体験してみるかい? 黒い翼の天使にも会えるよ」

 悪魔としては愛想良くしゃべったつもりだったが、男は黙って走り去ってしまった。


 幼稚園児らしい女の子は、真剣な面持ちで抹茶パフェを三口食べると、向かいの席に座る記憶をなくした悪魔にこう言った。

「わたし、この和風カフェでパフェを食べてからD**書店に行って絵本を見るのが、小さな頃からの楽しみなの」

「小さな頃から?」塩煎餅を肴にアイリッシュウヰスキーの焙じ茶割りを飲んでいた悪魔は、右の眉を少し上げて聞き返した。「今も小さいと思いますが?」

「まあ、そうなんだけどさ」女の子は溶けかかったパフェを、柄が長いスプーンでかき混ぜて言った。「今より小さかった頃ってことよ。――それはそうと、昼間からお酒なんか飲まないでよ。幼女が一緒なのよ」

「これは失礼、気づきませんで」悪魔は折り目正しく頭を下げた。「私はどうもコーヒーとか紅茶といった〝お飲み物〟が苦手でして。アルコール類が入っていると、なんとか飲めるのですよ。ただ、悪魔という特殊な体質のせいか、いくら飲んでも微酔(ほろよ)いにもならないんですがね」

「あら?」

 悪魔の言い様に頬を膨らませて抗議していた女の子は、窓の外に目をやって小さくそう叫んだ。

「どうしました?」

 悪魔も振り返って窓の外を見て言った。

「さっきD**書店にいた幽霊さんが、外の通路を歩いていったの」

「幽霊ですか、真っ昼間から」

「そうなの」女の子は混じり合って緑がかった灰色になったクリームを口に運んで言った。「あの人、昼も夜も書店の中をうろうろしているの」

「でも、今は書店の外にいた」

「そう、お昼だから。お昼ご飯を食べに店から出てくるの。上の階の食堂に行くのよ」

「ずいぶんお詳しいですな?」

 悪魔は酒を飲み干すと、店員を呼んでクレカを渡した。

「あたしがからいるのよ、あの幽霊さん。――昼間から出歩く幽霊もどうかと思うけど、悪魔がクレカを使うのもどうかと思うわ」

「オバケと悪魔の違いはですね」悪魔は身を乗り出して、女の子にささやいた。「時代に合わせて生活様式を変えられるかにあるんですよ」

「あたし、悪魔のそういう理屈っぽいところ嫌い」

 女の子はそう言うと、スツールから滑り降り、店から出ていった。


 幽霊は戸惑っていた。

 知らぬ間に食堂がバイキング式になっていたからだ。

 ――つい昨日までは、一品ずつ注文できる店だったのに。

 幽霊はそう思ったが、本当に昨日なのかは怪しかった。というのも、幽霊になってから時間の感覚がすっかり狂ってしまったからだ。

 一時間くらいと思ったことが数日だったことが、しょっちゅうある。この間などは、外廊下から見える川べりの桜が咲き始めたなと思ったら、よそ見をしているうちに夏になっていた。

 だから、食堂がバイキング式になったのも、ずっと前のことなのかもしれない。だが、彼にとっては、まったく不意打ちの出来事であった。

 どうせ食べることはできないのだから、バイキングだろうと一品ずつの注文だろうと関係はないのだけれど、それでもやっぱり嫌なものは嫌だった。

 ――ホテルの朝食じゃないんだから、トレイを持った客がうろうろするのはどうかと思うな。

 幽霊はそうつぶやくと、お気に入りの奥の席に座り、カツカレーを注文した客のふりをして、窓の外へ目をやった。


「気に入った本は見つかりましたか?」

 D**書店に入って三十分ほど経った頃、記憶をなくした悪魔は絵本コーナーで座り込んでいた幼稚園児らしい女の子のところに戻ってきて、そう言った。

「ねえ」女の子は顔を上げて言った。「ここの絵本をみんな買いたいと言ったら、あなたのカードで買える?」

 悪魔は礼儀正しく返事をした。

「もちろん、不可能ではありませんが、そんなことしても、きっと楽しくありませんよ」

「いいのよ、言ってみたかっただけだから」

 女の子はそう言うと立ち上がり、店の奥の方に歩き出した。

「絵本は見飽きたわ。動物の本を見ましょう」

「それはいいですな」と悪魔は言った。「実は刺胞動物が好きなんですよ」

「なにそれ?」

 そんなことを話ながら二人が奥へと歩いていくと、旅の本の棚の前で先ほどの幽霊が、大きな羽を背中につけた青年と話をしていた。

「あの人、天使?」

 女の子は声をひそめて悪魔に尋ねた。悪魔は顎を撫でながら言った。

「いや、違いますね。姿は天使っぽいけれど、種族としては虫に近いものです。おそらく、この書店の店員でしょう」

「うそー」女の子は口を尖らせて言った。「あんな店員さん、見たことないわ」

「普段は地下の書庫にでもいるんでしょう」悪魔はにやにや笑って言った。「今日は新しい蔵書を収蔵するために出てきたんですよ。まあ、見ていてごらんなさい」

 その天使風の青年と幽霊は何かを話していたが、不意に青年が両手で輪を描くようなジェスチャーをした。すると、幽霊の姿は消えて、青年の両手の間に碧い壺が現われた。

「あれをね」と悪魔は言った。「地下の書庫に持っていくんですよ」

「でも、本には見えないわ」

「あれはあれで本なんですよ。読むにはコツがいりますがね」

「あたしはね」女の子は悪魔の言葉をさえぎるように言った。「絵のない本は好きじゃないの」

「なるほど」

 悪魔はそう言うと、軽く会釈をした。

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記憶をなくした悪魔と幼稚園児らしい女の子 ZZ・倶舎那 @ZZ-kushana

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