第2話 再会

「あら、またお会いしましたね、こんにちは」と幼稚園児らしい女の子は言って、膝を屈めて王女風の挨拶をした。しかし、記憶をなくした悪魔は身を屈めて見下ろすばかりで、何も言わなかった。

「あら、もう忘れてしまったの? ついこの間、遊園地で出会ったばかりなのに」と女の子が言うと、悪魔は顔を顰めるようにして笑い、こう言った。「あの日のことは覚えておりますよ、もちろん。記憶をなくす以前にも会ったことがあるのだろうかと考えてしまいましてね」

「あら」女の子は笑った。「あたしはそんなにおばあちゃんじゃなくってよ」


 記憶をなくした悪魔は日に一度、環状線に乗る。まるで勤め人みたいだなと思い、悪魔は苦笑する。しかし、勤め人なら日に二度ずつ乗らねばならないと気づき、心の中で前言を撤回する。

 環状線に乗るのは、見覚えがあるものを探すためだ。だが、「見覚え」ということが、自分でもはっきりしない。昨日は懐かしく思えた建物が、今日はよそよそしいものにしか見えない、そんなこと繰り返しなのだ。

 悪魔は思い出探しに疲れると、窓から手を出して風景を少しいじってみたりもする。


「ところで、君は迷子なのですか?」記憶をなくした悪魔は、足を止めて幼稚園児らしい女の子に尋ねた。すると、女の子は心外そうな顔をして、「どうして、そんな風に思うの?」と聞き返した。

 悪魔は少々たじろいで、「通常、君くらいの年齢の子どもは、一人で遊園地で遊んだり、街を散歩したりしないものですから」と言った。女の子は少し笑って、「そうね、そうかもしれないわね。でも、あたしは、そういう子どもではないの」と言った。

 悪魔は背筋を伸ばし、「なるほど」と言った。


 幼稚園児らしい女の子は一人で昭和レトロ風の喫茶店にいた。奥の壁際の四人掛けの席に気取った様子で座っているのだが、さっきからウエイトレスは前を通り過ぎるばかりで注文をとろうとはしない。「きっと、あたしのことが見えていないんだわ、ウエイトレスさんにも、ほかのお客さんにも」と女の子は思った。「でも、この席に座ろうとする人はいないから、あたしの存在には気づいているのよね」

 女の子は右肩から斜めがけしたポシェットから飴を取り出して口に入れた。「こんな時に悪魔さんがいればいいのに。肝腎な時に役に立たないんだわ」そうつぶやくと、女の子は丸めた飴の包み紙を通路に向けて投げた。包み紙は彼女の手を離れると、泡雪のように消えていった。


 記憶をなくした悪魔はマクドナルドの廃墟にいた。かつての注文カウンターに腰掛けて、客席の方を茫洋と眺めているのだ。客席の先には広い窓があり、それを通して焼け焦げた町並みが見える。何一つ思い出せないままなのに、なぜか悪魔はノスタルジーのめいたものを感じていた。

 悪魔が片目をつぶると店は営業していた時の姿に戻り、多くの人がカウンターの前に列を作った。肉が焼ける匂いが悪魔の鼻をくすぐり、思わずつぶっていた目を開いてしまった。すると、列をなしていた人たちは砂になって崩れ落ち、店は元の廃墟に戻った。そして、その廃墟も煙ように薄れ、消えていった。


 「なぜ記憶をなくしたの?」幼稚園児らしい女の子は、記憶をなくした悪魔と並んでマクドナルドへ向かって歩きながら、そう尋ねた。悪魔は「なくす以前のことはすっかり忘れているので、お答えしかねますな」と返答した。

 女の子は肩をすくめて重ねて尋ねた。「どうして思い出そうとしないの? 悪魔なら記憶を回復させるくらい簡単なことじゃないの?」その声にはさっきまで舐めていたイチゴミルク飴の匂いがすると思いながら、悪魔は少し胸を張って答えた。「ええ、もちろん、記憶を取り戻すことくらい簡単なことです。でも、そんなことしたくないのですよ。せっかくの退屈しのぎなんですから」

「悪魔さん、退屈なの?」女の子が心配そうにそう言うと、悪魔は身を屈めて顔を女の子の顔に近づけて、こう囁いた。

「それはそれは退屈なんですよ。私ども悪魔は、神と同じく時間の始まりから終わりまで遍在していますから、目新しいものなんて一つもないんですよ」


 記憶をなくした悪魔が鉄扉を両手で押すと、錆だらけの鎖がパチンと音をたてて切れた。悪魔は一瞬意外そうな顔をしたが、すぐに無表情に戻り、鉄扉を押し開けて園内に入っていった。

 遊園地はほとんど砂に戻りかけていた。わずかにでも形を残しているのは観覧車だけで、そのほかのものは見にくい土塊に変じていた。

 悪魔は小さく溜息をつくと、土塊の一つから大きな透明の球体を掘り出した。球にはとてつもなく青い空が映っていた。

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