第4話 理由


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 親不孝通りの片隅にある喫茶店『ネクサス』にて、いちごパフェを頬張りながら、リョウコは先ほど観た映画の話を嬉々として語っていた。


 いちごとラズベリーのピューレを底に敷き詰め、その上にバニラアイスと生クリーム、そして半分にカットされたいちごをふんだんに盛り付けられた、見ているだけで食欲をそそられるパフェである。だが、優れているのは見た目だけではない。いちごはまさに摘みたてそのままの瑞々しさ、そしてその新鮮な酸味を包みこむ生クリームは、雲に触れたかと思うくらいなめらかな舌触り。アイスとピューレの間にはチョコでコーティングされたコーンフレークが挟んであり、ほろ苦く仕立てられたチョコのフレーバーと固めの食感がほどよいアクセントになっている。このところ仕事が忙しくて来られなかったが、久しぶりに食べると、味覚センサのバグを疑いたくなるほど美味しくて手が止まらない。


 旨いスイーツを食べたいなら『ネクサス』に行け。新宿にやって来た者は区役所よりも先にこの店の場所をおぼえることになる。唯一の欠点は親不孝通りの治安の悪さだが、そのぶんパフェの甘さが引き立つと思えば悪くない。


 映画館に行ったことがないというリョウコをリサは駅南口のシネコンに連れてきたのだったが、実はリサも映画館に足を運ぶのはおよそ十年ぶりであった。券売機の使いかたをスタッフに教えてもらいながらどうにかチケットを購入し、入場ゲートでバーコードをうまく読み取れない気まずさを味わい座席に向かう道すがら、映画という体験へのワクワク感を噛みしめている自分がいた。


 意外だったのは、リョウコの映画の趣味だ。彼女くらいの年ごろなら、てっきり子ども向けの魔法少女モノを観たがるとばかり思っていたが、実際に選んだのは名作上映枠でリバイバルされている『ブレードランナー2049』だった。


「トオルも一緒に来ればよかったのに」

「今日はお得意様と打ち合わせが入ってたの。だからまた今度ね。それより、ずいぶん難しい映画を選んだじゃない。好きだったの?」

「うん。前作は知ってるんだ。姉さんがレンタルしてきたのを一緒に観たの」

「私も前作は観たことがあったけど、続編は今日が初めてだった。2049もよかったね。人間とは何かっていう原作のテーマが深掘りされていて、哲学的だった」

「リサは原作も読んだことあるんだね」

「読書が趣味だったから」


 朝から出勤して一日じゅう男たちの相手をした日の翌日などは、たいていベッドから起き上がれないほど体力を消耗している。そういうとき、本はいい暇つぶしになった。小説、詩、エッセイ、短歌や俳句まで、いろいろなジャンルの本を読み漁るのが数少ない楽しみのひとつだった。SF小説にも一時期ハマっていて、『ブレードランナー』の原作である『アンドロイドは電気羊の夢を見るか?』を読んだのもそのころだ。リサはそこで永遠の相の下にサブ・スペキエ・アイテルニターテイスというスピノザの言葉を知り、しばらく店の女の子たちの前で『永遠の相の下にbot』と化していたのだが、いまでは消し去りたい過去のひとつである。それに、未来について書かれた過去の小説の答え合わせをするのは、未来に生きるものの特権だ。過去のSF小説にはそうした楽しみかたがある。


「あたしも読んでみたいな」


 リョウコは口元にクリームをつけたまま話した。小さな口に入りきらないほど大きな一口をすくって食べる姿がおかしいが、この店でパフェを頼んだら、大人だって大きすぎる一口を頬張らずにはいられないのだから仕方ない。


「今度買ってあげる。いまは難しいかもしれないけど、いつか特別な一冊になるかも」


 リサが口元のクリームを拭き取ってあげると、リョウコはくすぐったそうに笑う。周囲の客にはきっと親子に見えるだろう。あるいは、こんな治安の悪い場所に子どもを連れてきて、常識知らずな親だと思われているかもしれない。記憶をどれだけ遡ってみても、リサには母と遠出したおぼえがない。家の近くのスーパーマーケットへ一緒に行く程度ならあったかもしれないが、親子でおめかしして映画を観てご飯を食べるなんて経験は、少なくともリサの家庭ではあり得なかった。


 そういう思い出があったらな、と思う。たったひとつでいい。きらきらと輝く思い出があれば、リサは母や自分の過去をもう少しゆるせたかもしれない。もしも幼いリサがこの店に連れてこられたら、やはり口元にクリームをつけたまま笑うだろう。こういうとき、大人はどこに行くかばかり気にするが、子どもにとって大切なのは誰と行くかである。難しいSF映画だって、親不孝通りのパフェだって、大切な人が隣にいてくれるだけで特別な記憶に変わる。


「リサには兄弟はいなかったの?」


 リョウコが、ただ気になったというふうに訊いてきた。


「一人っ子だったの。母と二人で暮らしていたけど、母はあまり褒められた親ではなかったわね」

「お母さんのこと、嫌い?」

「どうかな。少なくとも、好きではないのは確か」


 話をしながら、とある記憶を思い出した。あれはリサが小学六年のころ、盆のひどく暑い日のことだった。


 その日、子どもが近くにいたんではたないと男に言われ、仕方なく部屋を出て行ったリサを待ち構えていた男子どもは、あっという間に彼女を取り囲んでからかい始めた。お前の母ちゃん、いま何シテんだよ。説明だけじゃわかんないから、ここで実際にやってみてくれよ。恐怖のあまりしゃがみこんだリサの頭上を心無い言葉が飛び交った。周囲の大人たちに視線で助けを訴えたが、誰もかれも見て見ぬふり。町でリサを助けてくれる人なんて一人もいなかったし、そうでなくとも、あの年ごろの男の子は少しばかり女の子を傷つけて大人になるものだという二世紀前の考えかたが大人たちの間には残っていた。単に年を取っただけで人が成長しないように、時代が移り変わっただけでは人類も成長しない。その手の教訓が路肩の小石の数ほど転がっているような町だった。


 何も答えないリサにしびれを切らしたある男子が拳を振り上げたときである。いつの間にか外に出てきた母が、背後からその男子の頭に牛乳をぶちまけた。しかも、家の冷蔵庫に長いこと放置された賞味期限切れのものを。


「おい、何するんだよ」


 男子は母に食ってかかったが、母が空の牛乳瓶を振りかぶったのを見て血相を変えた。


「クソっ。親父に言いつけてやるからな」

「言えるもんなら言ってみな。あんたがママに隠れてどんなサイトを見てるか、町じゅうにバラシてあげるからね」


 母は自分の目を指さしながら挑発的な笑い声を上げた。もちろん、母が他人の検索履歴をハックできるようなデバイスなど持っているわけがないのだが、小学六年生の子どもには効果的すぎるブラフだった。おぼえとけよ。アニメに出てくる三下みたいな捨て台詞とともに、彼らは一目散に走り去っていった。


 のちに知った話では、母は男子たちのからかい声を耳にした瞬間、男との前戯を打ち切って部屋を飛び出してきたという。あとにも先にも、母がリサを庇ってくれたのはこの一度きりだった。なぜ母があのような行動に出たのか、いまでもわからない。確かにいえるのは、あのとき母がリサを助けてくれたこと。そして、たった一度助けてもらったくらいでは、母をゆるす気には到底なれないということだ。


「どうしたの、リサ」


 リョウコに呼びかけられて、リサは寂れた港町から親不孝通りに連れ戻された。


「何でもない。ほら、下のアイスが溶けないうちに食べなさい」


 スプーンを持つリサの指が、小刻みに震え始めた。それは徐々に右手全体に広がって、やがて自分でも抑えきれなくなっていく。スプーンが床に滑り落ちて、甲高い音が鳴った。周囲の客がいっせいにこちらを向いた。


「痙攣が起きてるのね」

「気にしないで。ちょっとした誤作動だから」

「そんなわけない。ちょっと診せて」


 リョウコはリサの隣に座り、肩にかけていた兎の顔のポーチを漁り始めた。


「それって、機械肢体用の診断キット?」


 ポーチから出てきた折りたたみ式のデバイスを視認サーチする。国内産の、しかも最新モデルである。そんな高価なものを、どうしてリョウコが持っているのか。状況が飲みこめないリサをよそに、リョウコは慣れた手つきでデバイスを起動させ、痙攣する右手に接続する。


「痙攣はいつから?」

「いまのボディに乗り換えてから」


 まるで機械科医ドクターのような口調で質問され、リサは相手が十歳の少女であることも忘れて答えてしまう。


「手術を行った医者は原因について何か言ってた?」

「一個のボディに高性能のパーツを無理やり詰めこんでいるから、互いのシステムが競合してるって。各パーツのシステムを定期的にアップデートしていればいずれ解消されるとも」

「それ、嘘だよ。ニューロンの接続不良が原因で、異常発熱を起こしてる。右手にだけ熱がこもること、あったでしょ」

「言われてみれば、確かに……ちょっと待って。それじゃあ医療ミスってこと?」

「新宿では息をするように命のやり取りが行われるもの。機械科医はどこも忙しいから、ひとつひとつの仕事が雑になるのかも」


 右手の甲の表皮が観音開きに開き、内部の機構が露わになる。リョウコはデバイスに付属している工具を用いて疑似神経管の接続部を締め直し、あっという間に処置を完了した。


「これで痙攣はもう起こらないはず。手を握ったり開いたりしてみて」

「すごいよ。前よりずっとしっくりくる。まさか十歳の女の子が天才ドクターだったなんてね」

機械肢体マシンボディだけじゃない。機械のことなら何でもできるんだ、あたし」


 リョウコはわざとらしく胸を張ってみせたが、その表情は裏腹に浮かなかった。


 これだ、とリサは確信した。


 リョウコを匿ってから一週間、彼女は自身の過去について最初に語った以上のことを教えてくれなかったが、一緒に暮らしていて思ったことがある。リョウコは学校に行っていないというわりに、世間一般の十歳の子どもよりも明らかに頭が良かった。いや、良すぎるのだ。だがその理由がはっきりした。


 リョウコは生まれ持っての天才なのだ。手の痙攣から医療ミスを即座に見抜き、その場で治療までやってのけるなど、新宿じゅうの機械科医を集めたって見つかるかどうかわからない。


 北川が愛してもいないリョウコを引き取り、そばに置いたのも、彼女の才能が欲しかったからだ。機械なら何でもござれのエンジニアガール。彼女がいれば、医者も修理屋も必要ない。おまけに子どもには、給料もいらないのだ。

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