第3話 この街で生きるということ

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 返り血を浴びたシャンデリアがおどろおどろしい色の光を放ち、真っ白だったテーブルクロスには赤黒い世界地図が浮かび上がっていた。夏とは別の場所から生まれた熱気とむせ返るような臭いがホールの隅々まで充満していた。熟成されたワインをこぼしたように、血の雫が一滴、また一滴と白いパンプスに落ちている。


 リサは椅子の背を前にして、跨がるように座っていた。腕を椅子の背の上に組み、そこに顎を乗せて目の前の光景をじっと見る。首が弾け飛んだ裸の男たち。壁や床、天井にまで飛び散った血の跡。絶叫しながら裸で逃げ出すボトムの女たち。まるで海を見ているようだった。すべての男たちの血でできた海。リサを虐げてきた者どもの血でできた海である。そこに一匹の怪物があらわれて、みんな泣きながら逃げ出してしまった。その怪物とは、リサにほかならない。


 孤独の砂浜で、海の赤さに見とれた。もしもそこに身体を浸すことができたなら。考えただけで、絶頂の予兆めいた身震いに襲われる。生まれて初めて味わった、虐げる悦びだった。こんな素晴らしい感覚をあいつらは私で味わっていたのかと思うと、無性に腹立たしかった。


 と同時に、滑稽だとも思った。彼らはいままでリサをさんざん罵倒し、いじめ抜き、おれがおまえよりも強いんだと威張り散らかしてきた。だが結局のところ、彼らが百人かかってもリサ一人の悲しみすら背負うことができなかった。


 頭がパンクして、補助コンが爆発して、それで終わり。リサは違う。生まれてからずっと、この悲しみに、苦しみに、絶望に一人で耐えてきた。


 私があんたたちよりも強いんだ。声を大にして叫びたい気分だった。


   ◆ ◆ ◆


 身体の奥に疼きを感じて目を覚ます。夜の水面下に沈んだベッドの上でかすかに息苦しさを感じながら寝返りを打つと、リョウコがか弱い寝息を立てていた。そのかすかに上下する胸に布団を被せ、リサはそっとベッドを滑り出た。


 夜気に馴染んだネオンの光が、ブラインドの表面に凝って暗い室内に語りかけていた。羽根と羽根の間に指を差しこんで押し広げると、前の通りを千鳥足の男女が肩を組んで歩いている。女のほうは生身ではあり得ないプロポーションをしていて、サイボーグだとひと目でわかった。アルコールなんて一瞬のうちに分解してしまえるはずなのに、酔っ払っているふりでもしているのだろうか。それとも、人工肝臓の機能をセーブして生身の不自由さを楽しんでいるのだろうか。


 子どものころは都会にひどく憧れていた。テレビに映るビル群に東京の喧噪を思い、古い小説の行間にソーホーの街明かりを見た。母と知らない男の睦言が隣室から漏れ聞こえるなか、1DKの地獄から羽ばたくことをずっと夢見ていた。ここではないどこかへ行けば、こんな持たざる自分にも得られるものがあるはずだと。それが夢物語に過ぎないと知ったのは、身体を弄られ東京へ連れてこられたときだった。


 十五で肉体を壊された。

 十六で精神を犯された。

 十七で青春を殺された。


 東京はリサからすべてを奪っていった。


 吸い寄せられるようにバルコニーへと出る。この景色を見て、眠らない街と人は言う。だが、東京は眠らないのではない。眠ることができないのだ。あらゆる夢と欲望を受け入れすぎたから。


 鋼よりも頑丈な手を閉じたり開いたりしてみる。奪われるばかりだったリサが、いまは奪う側にいる。不思議な気分だった。この三ヶ月間、仕事という名目で多くの人間を殺してきた。殺されても文句を言えないような悪党もいれば、それほどではない者もいた。そもそもリサがヤクザたちを殺したのは生きるためだ。決して殺すために生きているのではない。だが、賞金首を追い詰め、拳を振り下ろすとき、リサの全身は快感に打ち震えた。セックスで果てたときとは比べものにならないほどの高揚感と絶頂感が補助コンをバグらせるのだ。


 私はこのために生まれてきたのだと、嫌でもそう思いたくなる。リサにはそれがおそろしかった。


 人間が人前で服を着るように、感情もまた理性という服を着ている。見える服と見えざる服の両方を身につけることで社会性を担保している。より重要なのは見えざる服のほうである。見える服を脱いで裸になっても、理性が残っている限り人はまだ恥ずかしいと感じる。だが理性を脱ぎ捨ててしまえば、その人間には恥も罪悪感もなくなる。四つ足で歩く獣と一緒になるのだ。


 むかしは理性を脱ぎ捨てるためクスリに頼って、客と一緒に何度も死にかけた。それがいまではクスリなどなくても拳ひとつで感情を丸裸にできるようになった。なってしまった。あいつらは死んで当然なのだから、いくら喰らったって罰は当たらないのだと、無遠慮に命を奪う自分がいる。虐げる者を憎んでいたはずなのに、進んでその仲間に加わろうとしている自分がいる。


 ネオンに照らされたバルコニーにリサの影が長く伸びる。リサにはそれが、遠吠えをしている肉食獣のように見えた。


「まだ起きてたのか」


 トオルが煙草を口にくわえながらやってきた。よれよれのトレーナーにゴムの伸びきったスウェット、おまけに足つぼ刺激用のいぼがついたサンダルという中年男を絵に描いたような出で立ちで、後頭部には寝癖がついている。


「あんたこそ、寝てたんじゃないの?」

「オッサンってのは夜中に何度も目覚める生き物なんだ」

「それってただの頻尿でしょ」


 トオルは手摺りに肘をつき、煙草に火を点ける。冬の溜め息のような風が紫煙をさらっていった。


「この街は変わらないな。第四次大陸間戦争のことをおぼえてるか?」

「どうしたの、いきなり」リサは怪訝そうに言った。「少しはおぼえてるけど、当時はまだ小学生だったし、海の向こうのできごとだったからね。あまり興味はなかった」

「終戦の年、おれは十四歳だった。いまでもおぼえてる。戦争を理由にオリンピックの中止が発表された夜のことだ」


 どこかで悲鳴にも似た甲高い笑い声が上がった。トオルは声のするほうを見て煙を吐いた。


「おふくろから駅まで迎えに来てほしいって連絡があって、電車を乗り継いで新宿まで向かった。本人は酒に酔って動けなくなったと言っていたが、いま思えばクスリをキメすぎたんだろう。おれはおふくろを背負って、繁華街を駅のほうまで歩いた。制服姿のガキが年甲斐もなく着飾る母親を負ぶって歩く姿は周囲の目を引いた。心の底から惨めな気分だった。そのときだよ。ミサイルが東京の上空を飛び去ったのは」


 トオルは煙草の火をもみ消して空を見上げた。ネオンに霞む夜空の片隅に、遠い思い出の軌道を探すように。


「どの国がどの国に向けて撃ったのか、そんなのはイチイチおぼえちゃいない。あのころは流れ星よりもたくさんのミサイルが飛び交っていたからな。だけどあの夜のミサイルは、いつもと違って見えた。空を見上げながら思ったよ。あのミサイルがここに落ちて、ぜんぶ壊してくれたらってな」


 通りの話し声がふいに途切れて、二人の間に沈黙が流れた。向かいの無料案内所の光がトオルの顔に差して、口元にこびりついた言葉の切れ端を照らしていた。


「どうしてそんな話をするの?」

「それほどまでにこの街はクソだってことだ。いまも昔も、そしておそらくこれからもな」トオルは二本目の煙草に火を点けた。「あのガキをどうするつもりだ」

「どうするって」


 そこまで言いかけて、リサは口ごもった。リョウコを助けて、保護して、それからどうするつもりなのだろう。


「おれたちの手を見てみろ。もう立派に汚れちまってるだろ。ボトム送りになるはずだったおまえも、いまじゃ一人前のならず者アウトローだ」

「私たちは賞金稼ぎ。狙う相手はあくまで殺されても文句を言えないろくでなしだけ。電能組みたいなヤクザ連中とは違う。そうでしょ?」

「これまで手にかけた奴らは全員死んで当然だったと、本当に自信を持って言えるのか」

「それは……」


 リサは答えに窮して俯いた。さすがはトオル、痛いところをついてくる。


「いくら大義名分を与えられたって、賞金稼ぎもヤクザも根っこの部分じゃ変わらない。誰かを傷つけて金を儲けてるって点ではな。この街に根を張るってことは、そういう汚れた生きかたを受け入れるってことだ」

「いったい何が言いたいのよ」


 思わず強い口調になってしまった。


「ここは子どもがいるような場所じゃないのさ」

「じゃあこのまま見捨てろっての?」

「そういうわけじゃない。ただ、選択するからには責任を持たなくちゃならないって話だ。誰かを殴るにも、抱きしめるにもな」


 トオルの煙草が短くなって、挟んでいる指の先を照らしていた。リサは右手を開いて、閉じて、また開いてみた。拳を握った瞬間、筋肉が張りつめて鉄塊のように硬くなる。この拳があれば、リョウコの敵をすべて打ち倒すことができるだろう。しかし同じその手で、リサはリョウコを抱きしめてあげられるだろうか。幼く脆い心を、傷つけることなく包んでやることができるのだろうか。この街の生きかたに染まり、虐げる悦びをすっかりおぼえてしまった、いまのリサに。

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