第2話 報われぬ子

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 リサたちの事務所は最低街ボトムと新宿三丁目のちょうど境界あたり、最悪とほぼ最悪の中間地点に位置していた。ボトムに事務所を構えるのは絶対に嫌だったが、かといって中心街で高い家賃を払い続ける自信もなかったため、いまの場所に落ち着いたのだ。とはいえ玄関を出て北に十メートル歩けばボトム入りなわけで、依頼者から「ボトムに事務所を借りるなんてロックですね」などと言われることも一度や二度ではなかった。最初のうちはギリギリボトムではないことを説明していたが、そのうち面倒くさくなって、そうでしょうなどと返すようになっていた。


「散らかってるけど、入って」


 山本ハンター事務所の看板が掲げられた古い雑居ビル、その二階に少女を通した。山本というのはトオルの苗字で、最初はリサの早乙女という苗字にしようとしたが、親しみやすさとトオルが社長であること、そして何より文字数が少ないほど看板製作料が安く上がることから山本に決まった。


 少女がきっと朝から何も食べていないだろうと思って、リサはダウナーでベーコンレタスサンドとアップルジュースをテイクアウトしておいた。少女は最初のうちは何も語ろうとはせず、出された食事を黙々と口に運んでいたが、最後の一切れを半分ほど残したところでようやく口を開いた。


 少女の名前は北川リョウコ。十歳。父はボトムの一角を仕切っている電能組の組長北川拓馬。だが母は北川の妻ではなく、愛人との間にできた子であったという。リョウコは母と年の離れた姉の三人で貧乏ながらも幸せに暮らしていた。母は働き口を求めて住まいを転々としており、一家がひとところに長く留まることはなかったが、それはそれで旅気分が味わえて楽しかった。しかし、リョウコが六歳のときに母が病死。その後リョウコだけが北川のもとに引き取られ、姉とは離ればなれになったという。


 北川のもとでの暮らしは、リョウコにとって幸せなものではなかった。父である拓馬はリョウコを引き取ったはいいものの可愛がるどころかろくに興味を示さず、継母やその子どもからは疎まれて日常的に虐待を受けていた。外出は決して許されず、常に自室に閉じこめられて、学校にすら通わせてもらえなかったという。リョウコは生き別れの姉との再会だけを夢見て耐え続けたが、ついにそれが叶わぬまま四年が経った。ここにいたのでは姉と会うことはできない。リョウコは意を決して北川のもとを逃げだし、追っ手に捕まりそうになっていたところをリサに助けられて、いまに至る。


「あの家には戻りたくない。姉さんを探して、一緒に暮らしたい。私の願いはただそれだけ」


 自身の壮絶な生い立ちをリョウコは淡々と説明した。話している間、泣くこともなければ怒りを露わにすることもない。ただ、姉について語るときだけ、大きな瞳が寂しそうに揺れた。リサは無意識のうちにリョウコと過去の自分とを重ね合わせていた。子どもにはおよそ似つかわしくない感情の抑制。それを身につけなければならない理由が、あのころのリサにもあった。


「北川ってのはどんな男なの?」


 話し疲れ、ソファで眠りにつくリョウコの頭を撫でていると、首筋に傷跡を見つけた。それだけではない。シャツの襟元から覗いた肩や胸元にもアザや火傷の痕があって、継母とその子どもからどれほどひどい仕打ちを受けてきたのか、考えるだにおぞましい。


「もとはボトムの片隅で残飯を漁るようなドブネズミだったが、腕っ節ひとつで勢力を拡大して電能組を創設した、いわば成り上がりのヤクザだ。トップがストリート上がりの野心家ってこともあって、ヤバいシノギにもみさかいなく手を出してるって噂だな」

「ボトムにシマを持ってるのよね?」

「シマといっても、誰も欲しがらない余った椅子に腰を落ち着けただけだがな」


 ほかに比べたら小規模で、かつ後ろ盾があるわけでもない電能組のボトムにおける地位は決して高くない。ただ、そういう組織には、大きくなりすぎた組織にはできない動きができるという強みがある。徹底したハイリスクハイリターン主義。シノギを選ばないのもきっとそのためだろう。ハイリスクに当たれば組ごと消し飛ぶが、ハイリターンを手に入れているうちは勝者でいられる。


 勝ち続けること。それはこの街では何よりも価値がある。


「行方不明のお姉さんについては調べられない?」


 リョウコの話では、姉の名前はミキ。苗字は母親の姓である下川ということだった。生きていれば今年で二十歳になる。


「どうだろうな」トオルはデスクトップのキーボードを叩き始めた。「一応あの日に呼ばれていた女たちを調べてみたが、該当するデータはない」


 あの日というのは、リサたちがヤクザを皆殺しにした夜のことだ。あそこにはボトム送りになった女たちも呼ばれていたが、リサの攻撃時にトオルが回線を再構築してくれたおかげで彼女たちには危害を加えずに済んでいた。もちろん、その後の彼女たちの行方まではわからないが、生きてさえいれば道はあるはずだ。と、希望的観測を抱くことでリサは心を落ち着かせている。


「必ずしも、私みたいに沈められたわけじゃないでしょ」

「まともな道に送り出されたとも思えないがな」


 煙草に火を点けようとしたトオルは、リョウコの寝姿を認めてポケットにそっとしまった。リョウコの髪を撫でるリサの手が止まる。また希望的観測を抱いてしまった。もちろん、それ自体が悪というわけではない。他人の問題に希望的な観測を抱くことについて、リサは間違いだとは思わない。赤の他人のやったことや置かれている状況について責任なんて取れないし、責任が取れないなかできることといえば、それこそ希望的観測を抱くことぐらいである。だが、自分自身の問題についてはどうだろうか。リサは自分に将来にさえ、希望的観測を抱いてばかりいないか。昨日まで首輪をつけられていたのに、明日から好きに生きていいと急に解き放たれた。可能性を閉ざされて生きてきた人間の可能性が開かれたとき、その人間は未来について合理的な判断ができるだろうか。


「北川はどうしてリョウコだけを引き取ったのかしら」

「親としての責任、というわけでもないだろうな。さっきの話を聞く限りでは」トオルはパソコンの画面を見ながら言った。「それと、電能組の周辺は最近どうもきな臭いんだ。組員が妙に殺気立ってるし、裏ルートで大量の武器を仕入れてるって噂もある。近いうち、何かやらかすつもりかもな」


 片方だけ引き取られた子ども。電能組のよからぬ噂。何か関係がありそうだ。それにリョウコを追っていた組員の男たち。彼らはリョウコの頬を躊躇なくぶった。いくら可愛がられていないとはいえ、組長の娘に手を上げるなんてことがあるだろうか。


 おそらく北川には、リョウコを愛していなくとも手元に置いておかねばならない理由があるのだ。だとすれば、電能組の者たちはいまごろ必死になってリョウコを探している。やがてここを特定し、取り返しに来るだろう。


「ひとまず、この子はうちで預かりましょう。私がそばについておく」

「本気か?」

「もちろん。それから、念のため銃は常に身につけておくこと」


 リサは鍵付きの保管庫から拳銃を二丁取り出すと、片方をトオルの机に置いた。トオルは何か言いたげな様子だったが、開きかけた口を噤んで銃を懐に収めた。

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