第4話 反逆

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 トオルはリサと同じ母子家庭に育った。家は貧しかったが、貧しいなりの幸せを噛み締めながら親子二人で生きてきた。母は生活費とトオルの学費を稼ぐために地元のスーパーで働いていたが、彼が中学に上がると夜の繁華街で働くようになった。夜の仕事について母親はトオルに詳しく話さなかった。ただ、何となく察しはついていた。母は夜明け前に帰ってくると、先に眠っているトオルをそっと抱きしめてから自分も眠りにつく。微睡みのなかで感じたアルコールと香水と、その奥にある生々しい肉のにおいがいまも鼻にこびりついて消えない。当時、彼は反抗期に入りたてで、母親が夜の街で働くことへの嫌悪感がないわけではなかったが、ほかでもない自分のためなのだと思うと何も言えなかった。大人になったら立派な仕事に就いて、たくさん金を稼いで、母に楽な暮らしをさせてやるのだと心に決めていた。


 だが、トオルが十六になった年のクリスマスに事件は起こった。その日も仕事に出ていた母は、帰宅するなりトオルに馬乗りになって首を絞めかかったのだ。わけのわからない譫言を叫びながら息子を絞め殺そうとする母を、トオルは傍らにあったサンタクロースの置物で殴り殺した。


 のちに警察の捜査によって、母が電子ドラッグの常習者であることが判明した。トオルは正当防衛が認められて罪には問われなかったが、身寄りもないままこの薄汚れた街に放り出された。そのあとはどん底の日々だ。盗み、脅し、何でもやって、最終的にネットの知識を買われてヤクザお抱えのクラッカーになった。


「おふくろが使ってたのは粗悪品と呼ぶのも憚られるようなドラッグだった。そういうのに頼らなくちゃならないほど追い詰められてたんだろうな。おれは何ひとつ気づかなかったが」

「仕方ないでしょ。まだ子どもだったんだから」

「かもな。だが、現実は大人だろうが子どもだろうが容赦しない。いつだって無慈悲なツラで無慈悲なことを言ってくる」


 トオルは金属製の左手で吸いさしの煙草を握りつぶした。


「おふくろをこの手で殺したとき、おれは人生において最も重要な教訓を得た。それは、この身にどんな不幸がふりかかろうとも、どれだけ心を病んだとしても、世界は決しておれたちに優しくしてくれないってことだ。人間ってのはいつだって夢を見る。辛いことがあると、次こそはいいことがあるはず。誰かが優しくしてくれるはずってな。だがそんなことはない。コード07は人が人である証しだ。だがそれが何だってんだ。診断書はおまえの名前でもなければ、人生における免罪符でもない。親が蒸発して借金を押しつけられても、うつ病になっても、大切な人が死んでしまっても、このクソみたいな世界はクソみたいに回り続ける。そういうやるせなさのなかで、おれはずっともがいてきた。おまえもそうだったはずだ」


 いままでずっと前を向いていたトオルが、初めてリサのほうを向いた。悲しげな瞳に火が灯る瞬間を彼女は見た。


「本当にこのままでいいのか?」

「どういう意味?」

「このまま記憶を消されてボトム送りになっていいのかって訊いてんだ」

「そりゃあ、よくはないに決まってるでしょ。でも、どうしようもない」

「ひとつだけ方法がある」


 補助コンにファイルが送られてくる。百人を優に超える数のパーソナルリンクIDとパスワードが記載されたリストだった。


「パーティに参加してる連中のリストだ。そいつを上手く使えば、おまえは晴れて自由の身になれる」

「それってつまり……」

「あいつら全員の脳を焼き切るんだよ。正確には、処理しきれないほどの情報を一気に送りこんで、補助コンと脳を繋いでるインターフェースをオーバーヒートさせるんだ」

「そんなのできっこない」


 百数十人の命を一気に奪うだなんて、いくら何でも常軌を逸している。それにリサはクラッカーではない。仕組みも知らないまま補助コンを頭のなかに組みこんで、ネットで買い物をしたり、向精神パッチの副作用を軽減する方法をせっせと検索したりしているだけの素人だ。他人の脳を焼き切るなどという芸当ができるとも思えない。


「ルートはおれが繋いでやる。おまえはただ、ありったけの感情を注ぎこむだけでいい」

「感情を注ぎこむって、どうやって?」

「常に考え続けろ。おまえがいつも心の奥に隠しているもの、そいつを一気に発散させる感じだ。喜び、悲しみ、怒り、憎しみ、苦しみ、虚しさでもいい。とにかくおまえのすべてをあいつらにぶつけてみろ」トオルはリサとパーティの参加者の補助コンを接続した。「ずっと考えていた。世界がおれたちに優しくないなら、おれたちが世界に優しくする義理もないはずだってな。おれはこの世界に決して消えない傷跡を残したい。こんなゴミみたいな仕事に甘んじてる場合じゃないんだ」

「だから私を利用してあいつらを消そうっての」

「おれは使えるものはなんでも使う。だからおまえもおれを使え。残念ながらおれの心の中身ではあいつら全員を焼き殺すことができそうにない。だがコード07を発動しているおまえなら可能なはずだ。おれには技術はあるがリソースがない。おまえには技術はないがリソースがある。これはおれにとってもおまえにとってもまたとないチャンスなんだ。どうだ、やるか?」


 新鮮な響きだった。母が蒸発してからいままで、リサは一度たりとも選択の余地を与えられなかった。言われるがまま働かされ、身体をいじらされ、搾取され、そして使い捨てられようとしていた。だが、目の前の男は初めて選択する自由をくれた。少なくともそこに上下関係はなく、トオルは対等な相手としてリサに取引を持ちかけてきたのだ。あとは、リサが乗るか乗らないか、それだけだった。


「やるわ」リサはトオルの目を見て言った。「あいつら全員殺して、自由になってやる」

「取引成立だな。こっちはいつでもOKだ。好きなタイミングで始めていいぞ」


 リサは大きく息を吸った。これから大勢の人間を殺すのだと思うと震えが止まらなかった。いまは罪について考えてはいけない。むしろ、それだけの人間を殺せるほどの不幸に耐えてきた自分を誇るのだ。この心の奥底にある虚しさこそ、私が私である理由なのだと声を大にして叫ぶのだ。


 止めていた息をゆっくりと吐いて、リサは最初の言葉を選んだ。

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