第3話 Code:07

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 リサは小学校の高学年に上がったあたりから、母親のことでいじめられるようになった。男子からは卑猥な言葉で罵られ、女子からは見て見ぬふりされた。むろん教師には相談したが、生徒たちは一度や二度叱責されたくらいでは反省せず、それどころかいっそう陰湿かつ激しくなっていった。結局、いじめはリサが町を出るそのときまで続いた。


 休み時間になるとリサの母を貶めるような言葉がどこからともなく上がって男子たちが声を出して笑い、移動教室へ向かう道中では、後ろから早歩きで迫ってきた男子がリサの耳元で卑猥な単語を囁いて、前方で待っている仲間たちとクスクス笑いながら走り去っていく。いちばん辛かったのが体育の時間だった。当時リサはすでに生理が始まっていて、授業を見学することがあったが、男子たちが何かを言い合いながら視線を送ってくるのを見ると寒気がした。学年が上がるごとに、彼らの目はリサの家に出入りする男たちと同じ色に染まっていくようだった。


 男子生徒たちのあいだには、リサという特定の対象をいじめ抜くことによって結束を高めるホモソーシャル的な連帯感があったように思われる。それは一片の正しさすらない唾棄すべきものであったが、同じくらいおそろしかったのは、女子生徒からいっさい救いの手が差し伸べられなかったことだ。彼女たちはリサが受ける仕打ちの数々をいつも遠巻きに眺めながら仲間内でヒソヒソと話し合っていた。それだけではない。彼女たちはリサへのいじめに加担するかどうかで男子生徒を篩にかけており、曰くいじめに加担しない男子は加担した男子よりも優しくて紳士的らしかった。もしもリサではなく別の女子生徒が標的であったなら、こうはならなかったのではないだろうか。リサは男子からも女子からも見下されていた。ふしだらな女の娘ではなく、町の陰湿なルールと常識に染まりきった健全な・・・家庭の娘がいじめに遭っていたなら、女子たちは本気で男子たちを止めようとしただろうし、傍観者に徹する男子への見方も異なっていたのではないかと思う。


 学校にも町にも頼れる人はいない。かといって家に帰れば知らない男が我が物顔で出入りしていて、そいつと母が乳繰りあっている声を聞きながら食事をとらなければならなかった。母は男だけではなくギャンブルにものめりこんでいた。まともではないところからも金を借りていて、定期的に借金の取り立てが家にやってきたが、その対応もまたリサの役目であった。母と男の靴を隠し、部屋にはリサしかいないことにしてお引き取り願うといったことを何度もやらされた。


 取り立てを追い払ったことを報告すると、母は男の腕のなかで言った。


「あんたにも使い道があるもんだね」


 リサが唯一おぼえている母の言葉であった。


   ◆ ◆ ◆


「誰一人として味方がいなかった。あのころの私を取り巻く対立構造は、私対男子でもなければ女子対男子でもなく、子ども対大人でもなければ私対母でもなかった。私対世界。それが私の幼少期のすべてだった」

「ずいぶんな半生だな。親だけじゃなく、町ぜんたいがイカれてやがる」


 トオルは座席を後ろに倒してもたれかかった。


「田舎なんてそんなものよ。ネットは繋がったけど回線は何世代も前のものだし、機械化している人なんてほとんどいなかったしね。テレビのチャンネルも二つしかなかったっけ」

「つくづく面白くない町だな。でも、さすがにプラトンテレスは放送してただろ。オッサンが二人出てくる人形劇の」

「何それ。聞いたこともない」

「マジかよ。情操教育の敗北だな」


 思ったよりもお喋りな男だ。それとも、これからリサを待っている地獄を想像して憐れんでいるのだろうか。そうだとしたら余計なお世話だ、と言いたいところだったが、いつもより喋りすぎているのはリサも同じだった。


 リサを産んだ女は結局、何ひとつ母親らしいことをしないままどこぞの男と蒸発した。リサが十五になった夏のことである。相手のことはよく知らないが、少なくとも造船所の人間ではなかっただろう。偉い人・・・がそんな過ちを犯すとも思えないから。レシートの裏に書かれたごく簡単な置き手紙を握りしめ、呆然としているところに借金取りが家にやって来た。いますぐ三千万円を返せと詰め寄られ、無理だと言ったら即風俗送りにされた。闇医者のもとで全身を機械化され、外見を大人っぽく仕上げて、十九歳の処女として最初の客を取らされた。手術代はもちろん借金に上乗せされ、三千万が四千万に膨れ上がった。


 そこから先は泥沼だ。借金を返すためにとにかく客を取らなければならないが、半端な身体やサービスでは利息ぶんすら稼げない。あの子よりも可愛くなるためにフェイスデザインを一新して、この子よりも気持ちよくなるためにアソコの具合を整形して。借金を返すために身体をいじっているのか、身体をいじるために借金をしているのか、そもそもなぜ身体をいじっているのか、何が何だかわからないまま、二十年が経っていた。ヤバいクスリにも手を出した。頭のなかの補助コンピューターの感覚リミッタを解除してくれるやつ。客と一緒にそれをインストールして、危うく二人揃って電脳破損テクノブレイクしかけたこともあった。


「もとの顔を覚えてないの」リサは言った。「それくらい自分の身体を改造して、クソババアの残した借金を返済しようと努力してきた。その結果がボトム送りだなんてね」


 新しい精神安定キットを取り出して、コードを読み取ろうとするのをトオルが制止した。


「やめておけ。連続で使うと、あとあと辛くなる」

「別にいいじゃない。どうせこれからもっと辛い目に遭うのに」


 リサはキットを取り返そうとしたが、あっけなく取り上げられてしまう。トオルは車内照明を点け、キットの裏面に貼られたシールを見た。


「エラーコード07か。初めて見たな。いつからだ?」

「あなたには関係ない」

「じき名前も記憶も消されるんだ。最後にもう少し自分語りしていけよ」


 思わず笑いそうになる。これではまるで、死刑が執行される前の囚人ではないか。


「五年前に初めてエラーコードが出たの。それからずっとよ。パッチを入れると気分が晴れるんだけど、やめたらまたすぐに落ちこんじゃって」

「コード07の別名を知ってるか?」トオルはキットをリサに手渡した。「電子鬱病だよ。補助コンを脳に埋めこめば、鬱病なんてものはなくなると思われていた。脳にかかるストレス値を補助コンが調整してくれるからな。でも、結局この病気はなくならなかった。癌やインフルエンザは機械化技術でまっ先になくなったってのにな。コード07:ディプレッション。こいつはある意味、人間が人間である最後の理由といえる」


 雨脚が強くなってきた。リサは車内ディスプレイで時刻を確認する。そろそろ記憶を消去される時間だ。


「ねえ、あなたが私の記憶を消すんでしょう。どうやるの?」

「大した話じゃない。記憶を改ざんするウイルスを補助コンに流しこむだけだ」

「だったら幸せな記憶にしてね」

「幸せな人間はボトムになんか行かない。あんたはヤク中でゴミ屑ほどの貞操観念しか持たないアバズレになる」


 ほら、あそこにひときわデカい建物があるだろう。トオルは夜の街をひときわ彩る摩天楼を指さした。


「あれの最上階でいままさにパーティが開かれている。今日は新隅田川の花火大会の日だからな。おまえのクソババアが借金してた組の連中と、おまえがこれから送りこまれるボトムの連中みんなが集まっての乱痴気騒ぎだ」


 トオルは煙草を取り出して火を点けた。フロントガラスに『車内禁煙』の文字が表示されると、ヤクザのくせに禁煙車なんて寄越すんじゃねえ、と舌打ちする。


「じゃあ、アバズレになった私もそこに連れて行かれるんだ」

「そうだ。今夜はおまえのデビュー戦。きっと主役級の扱いになる」


 トオルの声には同情めいた響きがあった。ああ、ついにどん底ボトムに落ちるのだとリサは思った。


「あなたも私のデビュー戦を観に行くの?」

「いいや。おれは雇われのクラッカーだ。組員じゃないからな」


 トオルは窓をあけて煙草の煙を吐き出した。やや沈黙があってから、


「せっかくだ。おれも昔話をしよう」


 と、トオルは問わず語りに話し始めた。

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