第2話 ボトム

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 今夜は夏の大三角形がよく見えるだろうという予報に反して雨が降り出した。フロントガラスを打つ雨音がひどく耳障りで、リサは思わず眉をひそめる。


 リサを拾ったセダンは雨の親不孝通りを抜け、いくつかの交差点を越えて、ボトムと呼ばれる一帯に差しかかった。足を踏み入れるのは初めてだったが、街並みはもといた場所とそこまで変わらず、リサは少しだけほっとした。濡れて質感を増したカラオケ店と風俗店のネオンが通行人の傘を下品な色に照らしている。ボトムにもカラオケ店があるのだな。それとも、カラオケ店を称した別の何かなのだろうか。深刻な状況にある割に、呑気なことを考えてしまうのが自分でも意外だった。


 セダンに乗りこむと同時に入れた向精神パッチのインストール完了率が視界の端に表示される。五十、五十五、六十。あと二分もすれば、このクソみたいな世界はほんの少しだけマシになる。


「雨は嫌いか?」


 運転席の男が前を向いたまま語りかけてくる。悲しげな雰囲気を纏った男だ。青い機械眼は綺麗だが、痩せこけた頬と無精ひげのせいでひどくやつれて見える。まるで冬の雨に凍える捨て犬みたいだ。おそらく初対面ではなく、前にほかの組員と一緒に店の見回りにやって来たことがあったはず。確かそのときは、トオルと呼ばれていたのではなかったか。


「雨は嫌いか?」


 聞こえていないと思われたのか、トオルに同じ質問をされた。


「嫌い。でも朝日よりはマシ」


 リサはカラオケ店の看板を眺めながら言った。この雨音はアパートのドアをノックする音にそっくりだ。家賃二万三千円のボロ部屋のスチールドアを、毎月十日に叩きに来る取り立ての男。しわがれた声。今月も利息分だけか、という聞き飽きた台詞。来月はもっと頑張りますから。定型文とそれに添付される作り笑い。リサの胸元に送られる視線。吐き気がするような記憶、イメージ、エトセトラ。しかし、朝日はもっと辛い。カーテンの隙間からオレンジ色の光が差しこむと、また不幸な一日が始まるのだと憂鬱になる。


「朝日は健康にいいんだぜ。セロトニンの分泌が促進されて幸せになれる。おまえがいまインストールしてるやつなんかとは違う、天然物の幸せホルモンだ」


 トオルは大きなあくびをして、「まあ、もう関係ねえけどな」と付け加えた。向精神パッチのおかげで落ち着きつつあった心が再びざわめきたつ。外で叫び声がした。クスリをくれよ! リサは居心地が悪くなって座席に座り直す。膝の上に置かれた手の震えが止まらない。


「経歴を調べさせて貰った。母子家庭に生まれ、十五のときに母が男と蒸発。多額の借金を背負わされたおまえは風俗に送りこまれ、身体もあちこち改造させられて、あげくに『ボトム』行き。理不尽を絵に描いたような半生だな。同情するよ」


 ボトム。借金で首が回らなくなって、普通の店で働いたのでは返済の見込みがないと判断された子たちが送られる場所。ここでは名前も人の尊厳すらも奪われ、生きた人形として弄ばれ、使い物にならなくなったら処分される。まさにこの世の底辺ボトム最悪ボトムが集まるところだ。きっとリサはここで何もかも奪われたのち、最初からこの街に存在しなかったものとして処理されるのに違いない。


   ◆ ◆ ◆


 古びた造船所が海を占領し、それだけでは飽き足らずおかでも幅をきかせている小さな港町にリサは生まれた。海抜一メートルで、耐震構造も旧式の、行政に見放された公団住宅。その三〇一号室が母子の住まいだった。しかし、リサにとってそこは安らげる場所などではなかった。1DKの地獄。少女はそう呼んでいた。


 物心ついたときにはすでに父はおらず、母はその理由を教えてはくれなかったし、リサも知りたいとは思わなかった。真実を知ってもどうにもならないという諦めが人生の比較的早い段階からリサのなかにはあって、それが彼女の性格を暗くしたきっかけなのかもしれない。父親がいない代わりに、母は男を取っ替え引っ替え部屋に連れこんだ。やってくる男たちはたいてい造船所勤めの単身赴任者で、彼らは妻や子どもの目が行き届かないをいいことに母の経営するスナックに入り浸り、やがて陸まで関係を引きずってくるのである。


「おじさん、どこから来たの」


 男が新しくなるたび、リサは訊ねた。返ってくる答えはいつも一緒だった。


「海からだよ」


 だからリサは、おさなごころに男の人はみんな海からやってくるものだと信じていた。


 小さな町でそういう生活をしていると嫌でも目立つもので、母子は外では常に好奇の目にさらされることとなった。町の人間は基本的に造船所の、しかも外からやって来た者のことを悪く言わない。造船所のおかげで経済が回っているこの町では、そこに勤める人間はほとんど神様に等しかった。襟元が港の潮風に染まっていないというだけで、彼らは無条件に偉いのである。したがって、もしも造船所の社員が場末のスナックのママと男女の関係に発展したとすれば、それは自動的に偉い人が悪い女にたぶらかされてしまったという構図に当てはめられる。いや、当てはめられなければならない。


 あまりに前時代、いや前々時代的で、歪んだものの見方だとは思う。けれども、リサがそれに気づかされたのは町を出てからだ。閉鎖的な土地に生まれ育ち、外の世界を知らない人間は、生まれた瞬間から歪んだ見方を叩きこまれ、本当は歪んでいないものをこそ歪んでいるのだと思うようになる。偉い人は何をやっても偉い。駄目な人間は何をやっても駄目という単純で残酷な文法を、何かに挑戦するよりも前に刷りこまれる風土が町にはあった。

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