第一部 新宿復讐篇

一章 Code:07_Depression

第1話 一篇の詩のような人生を


   1


 一篇の詩のような人生を生きてみたい。あるいは光の速さで一生を駆け抜けてみたい。リサはつねづね思っていた。


 午後六時になると、親不孝通りは一気に明るくなる。あらゆるいかがわしい店が、こぞってネオンを焚き始めるから。この輝きを見つめながら、リサはかつて何百回、何千回と溜め息をついてきた。


 通りのほぼ中央に店を構えるレストラン『ダウナー』は、その立地のよさとは裏腹に夕飯時でもそこまで賑わうことがない。仕事仲間の子たちもあそこは店構えやメニューがパッとしないからという理由であまり行きたがらないのだが、リサはこのいかにも繁盛していない雰囲気が何となく好もしく、仕事前には必ず足を運んでいる。注文するのは決まってベーコンレタスサンドとホットコーヒー。ここのベーコンレタスサンドは案外いける、というか、それ以外のメニューがどれも美味しくない。コーヒーはアメリカンをさらに薄めたような味で、リサは濁り水と呼んでいる。


 夜の勢力を追い払おうとするネオンのきらめきをぼうっと眺めていると、ガラスにうつった自分自身の姿にふと目が留まった。半透明の、血の気の引いた顔をリサはじっと見つめる。化粧なしでもじゅうにぶんにくっきりした目鼻立ちに、病的なほど白い肌。何と人工的な顔だろう。毛髪も含めて一〇〇%機械化手術を施されているリサの顔面は、ひと目見ただけで生身ではないとわかるくらい際立ちすぎている。ここで食事をとっていると、たまにナンパ目的で声をかけられることがあるが、たいていの男はリサの機械化されつくした顔を見ただけで退散していく。あるいは、このあとお店に来てくれたらシてあげる、という答えに失望して去っていく。それでもいいという者がいれば、本日最初の客をゲットしたことになる。


 リサが風俗店で働いていると知った男たちが、ほぼ決まって言う台詞がある。サイボーグ嬢の割には落ち着いた服を着てるんだね。どうやら親不孝通りに迷いこんだ男たちは女をいくつかのタイプに分類していて、なかでも機械化手術を施した風俗嬢は常にエロい格好をしているものだと思っているらしい。その手の偏見に出くわしたとき、リサにもまた決まった台詞がある。


「私、あなたが思っているよりずっと複雑なの」


 そう言って、男たちが頭のなかで抱いた娼婦のイメージと寸分違わぬ笑みを機械仕掛けの顔に貼りつけてやる。


 視界の片隅に、新着メッセージの通知が表示される。アイトラッキングでメッセージを開くと、『六時半にピックアップ。クラクション三回』という短い文章が表示された。差出人の名前すら書かれておらず、文面から無愛想さがひしひしと伝わってくる。しかし、リサとしてはこれくらい無愛想なほうがむしろちょうどよかった。


 暗い女とよく言われた。何をしても楽しそうではないし、いつも誰かを、どこかを、何かを虚ろな瞳で睨みつけている。それが周囲のリサに対する評価だった。


 いつだったか、客の男に言われたことがある。君はまるで憂鬱が服を着て歩いているみたいだと。


 それにどう答えたのかおぼえていない。そうかなと曖昧な答えを返したかもしれないし、そんなことないと真っ向から否定したかもしれない。あるいは、「私、服なんて着てないよ」と言って男の足と足の間に顔を埋めたかもしれない。昨日のことなどいちいちおぼえていられない。ろくでもない記憶ならなおさらだ。


 夜遅くまで男たちの相手をして、強めの睡眠導入パッチでどうにか眠りにつき、夕方に目覚めてまた男たちの相手をしにいく。リサの一日はネオンの輝きから始まる。歓楽街に散りばめられた原色の輝きから。しかし、どんなに強い光をもってしても、決して照らすことのできない領域が彼女にはある。


「最近の調子はどうですか」


 視界いっぱいに広がった透過ウインドウのなかで、眼鏡をかけた心療内科医が穏やかに語りかける。


「いつもどおりです。元気はないけど、処方してくれるパッチをインストールすれば何とかやっていけます」

「リモートで測定したメンタルの状態は比較的安定しています。ですが、依然として低い水準を推移しており、安心はできません。せめて周囲の環境が少しでも変われば改善の可能性もあるんですがね」

「そりゃあ先生、いつも言ってるじゃないですか。私は好きこのんでここにいるんじゃない。抜け出せないんです。環境の変化なんて無理な話ですよ」


 リサは語気をやや強めて言い返したが、それはいつも実現不可能な話をしてくる医師への反感のみから来るのではなかった。むしろそれ以上に、今日の彼女には誰かと冷静に対話をしていられない事情があったのだ。


「ひとまず前回と同じパッチを処方しておきましょう。次の予約はいつもどおり、二週間後のこの時間でよろしいですか?」


 医師はリサの苛立ちも意に介さないようだった。あるいは気づいてすらいないのか。


「あの、実はその日は忙しくて……またこちらであいている日程を調べて連絡します」


 ウィンドウを閉じて、コーヒーに口をつける。ぬるくなったコーヒーは香りが立たなくなったせいで余計に水のように感じられた。


 環境が変われば、という言葉ほど残酷なものはない。この歓楽街に連れてこられた瞬間から、リサはずっとドブのなかの淡水魚だ。どこか違うところへ逃げたいが、逃げたとしても行きつく先は下水道でしかないことを知っている。リサは逃げないのではない。そもそも逃げるという選択肢が存在し得ないのだ。


 黒塗りのセダンが店の前に停止し、クラクションが三回鳴った。ああ、地獄への汽笛が鳴った。リサは立ち上がり、おぼつかない足取りでレジへと向かった。


最低街ボトムに行ってもらえないかな?」


 最後の客を見送り、時計の針が昨日から今日に変わって間もなく、店長がリサのいる個室にやってきた。


「上から直接連絡があってさ。明日、いや、日付が変わったから、今日からか。ボトムにあるうちの系列店に行って欲しいそうだ」


 どちらかというと気弱な性格の店長は、それでもなるべくリサの目を見て話そうとしているようであったが、ボトムという単語を口にするときだけは視線が泳いだ。


 リサはしわだらけの三万円を掴んだ手で、キャミソールの肩紐が滑り落ちるのを何度も戻しながら店長の説得を聞いていた。傍らに置かれた壊れかけの扇風機が、笑い声みたいな音を立てて回転している。


 ボトムがどういう場所なのか知っているし、行くのにおそろしさがないわけではない。しかし正直なところ、いつボトム送りになってもいいほどには売り上げが落ちぶれていることに、リサ自身がいちばん気づいていた。店にはもっと若い子たちがたくさんいて、リサは彼女たちと同じ水準の若さに全力でしがみついているつもりだが、体感的にはもうほとんど振り落とされてしまっている。機械化は不老不死の術などでは決してない。いくら機械化で姿形を誤魔化しても、機械化できない部分というものが必ずあって、どうしたって誤魔化しがきかなくなっていく。そうやって街に、時代に、取り残されてしまう。


 せめてもの救いは、いまここで泣き叫ばないでいられる冷静さが残っていることだった。もし明日、ボトム行きと言われたら。最悪の妄想を枕に眠る日はかつて数限りなく、そのたびに絶望を前借りしていたからこそ、リサは店長の話をなんとか黙って聞けていた。もちろん、医師から処方されている向精神パッチのおかげも多少はあるだろうけれど。


 毒々しいほど悪趣味な照明の下で、なるべく治安の良い店を融通するとか、上の連中には無理をさせないよう頼んでおくとかいった要領を得ない話が何分か続いたころ、リサは店長の言葉を遮って言った。


「その話って断れるの?」

「ごめん。残念だけど……」


 うつむいて、伝えにくそうに眉根を寄せる店長にリサは笑って言った。


「なら、行きます。いままでありがとうございました」


 レジでしわだらけの一万円を出しながら考える。

 一篇の詩のような人生を生きてみたい。あるいは光の速さで一生を駆け抜けてみたい。

 そうすれば、あらゆる苦しみは瞬きする間に通りすぎるだろう。

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